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歴史的な人物が神となることは存外に多く、織田信長なら京都の「建勲神社」・豊臣秀吉なら同じく京都の「豊国神社」・徳川家康なら「日光東照宮」といった次第となります。
他の戦国武将でも神として祀られていることが多く、それは猛々しい大名への御神徳としての崇敬であったり、領民からの崇敬からくるものや、祟りを怖れて神として祀ることなどあるのでしょう。
信長は尾張・美濃の国とは切っても切り離せない方であり、当神社は岐阜城(稲葉山城)の近くにありますから、信長由来の伝承が多く残されている神社のようです。
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岐阜市内を走行していた時にふと思い立って橿森神社へ参拝しようと立ち寄ったのですが、岐阜信長神社とはどんな神社かと興味があったことは大きかった。
移動中に金華山の上にある岐阜城が見えていたのも影響があったと思いますが、都合よく解釈すれば“おいで”と呼ばれたってことでしょう。
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神社は岐阜の繁華街の柳ケ瀬からものの数分のところにあり、大通りに面する山の麓に建てられていました。
御祭神は「市隼雄命」。
父を『伊奈波神社』の「五十瓊敷入彦命」、母を『金神社』の「淳熨斗媛命」とするため、この3社は非常に関係が深いとされます。
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神社の創建は第12代景行天皇の御代(4世紀前半)と伝えられており、1600年に兵火・1649年には火災にあったとされています。
再建について詳細は分かりませんが、1706年の古地図にあるといいますから、神社として途絶えることはなかったようです。
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鳥居から入って横には公園が設けられており、その一角に見事な大木が植えられています。
この木は椨(たぶ)の木という照葉樹林といい、長良川以西の太平洋側に多く樹生している木のようです。
椨の木から橿森神社の参道へ向かうとそこに「岐阜信長神社」がありました。
御祭神はもちろん織田信長で、明治天皇によって京都の建勲神社から御分霊を勧請したとされます。
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織田信長は1567年に当地を井の口から岐阜に名を改めて、城下町の発展を進めるために「楽市楽座」を開いたとされます。
“美濃を制するものは天下を制す”といいますが、信長はこの岐阜を足がかりに天下布武へと向かっていったのでしょう。
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橿森神社には摂社の岐阜信長神社の他にも末社として「稲荷社」「秋葉社」「琴平社」があり、その中心部に本殿を構えています。
本殿の外拝には「橿森神社」の扁額。殿内には「神風殿」の扁額が掛けられており、右大臣・左大臣・狛狐が祀られた清楚な本殿でした。
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本殿の前には「大王松」という三本葉の松があり、家族繁栄(夫婦・子)を示しているといいます。
落ちている葉を探して見ると、実際に3本葉となっているのが分かります。
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本殿の後方はすぐに山となっており、山の一角には天馬が残したとされる「駒爪岩」があります。
市隼雄命(御祭神)が天馬に跨り、瑞雲寺山に降りたちお休みをされた際に、天馬が付けた駒爪跡だという伝説が残されています。
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駒爪岩は、神社を守護する磐座ということになりますが、横から見ると生命力豊な樹木が岩の間から幹を伸ばしてきています。
自然の姿には力強いものがあるなぁと感心してしまいます。
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織田信長は当地(上加納村御薗)に楽市楽座を始めて、商工業者の保護・育成に努めたわけですが、その際に市神(市の守護神)がこの榎の下に祀られたといいます。
その榎は「御薗の榎」と呼ばれ神木化されて民間信仰の対象となりますが、実際は御薗の榎の孫になるといいます。
明治11年の明治天皇行幸の際の道路改修によって現在地に移植されたといい、橿森神社の大門を出た場所の道路沿いにあります。
交通量が多いところのようですから、少し可哀想な気もしますね。
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御朱印を頂きに社務所へ行くと、話好きな神職の方から“岐阜へ来たらなら「三社参り」をした方が良い。”と紹介をして下さります。
「三社参り」は「伊奈波神社(父)」「金神社(母)」「橿森神社(子)」の三社にお参りすることをいい、それぞれ父・母・子を指し、3社には深いつながりがあるといいます。
“三社には御朱印の順番があるので他の2社の分は御朱印帳を開けておきます、さらに各社にはもう1種の御朱印があるからその分も開けておきます。”ということでした。
実は残りの2社には参拝したことがあったのですが、良かれと思って紹介して下さっていることもあり、又これも縁だと思いそのまま三社参りに行くことに...。
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