最初に個人的事情を述べることを許していただきたい。介護施設のデイサービスを週2回利用していた老母の要介護度が進み、昨年の春(2020年3月)から自宅を完全に離れて介護医療院に入ることになった。入所直前には肺炎を起こし、一時的だったがいのちの危機にもさらされた。また、直後にコロナ禍に見舞われたため、施設側は来訪者の面会を断っており、母には9カ月以上会うことができていない。
こういう事態が身近に起こると、やはり、死について考える時間が増える。コロナ禍のもとでは施設に入った家族の死に目に会えないどころか遺体にも会えない、といったニュースを耳にするにつけ、死という言葉はいっそうリアリティをもって迫ってくる。
家族の死後の具体的な光景を想像する機会が多くなり、さらには自身が迎える死について、ああでもないこうでもないと堂々巡りの思考を繰り返す。目前の仕事の多忙さをよそに、死が呼ぶイメージに頭の中が占められていた折、書店で目に飛び込んできた一冊があった。
こういう事態が身近に起こると、やはり、死について考える時間が増える。ない、といったニュースを耳にするにつけ、死という言葉はいっそうリアリティをもって迫ってくる。
家族の死後の具体的な光景を想像する機会が多くなり、さらには自身が迎える死について、ああでもないこうでもないと堂々巡りの思考を繰り返す。目前の仕事の多忙さをよそに、死が呼ぶイメージに頭の中が占められていた折、書店で目に飛び込んできた一冊があった。
こんな考えは正に戦中戦後の「超能力が科学によって解明できかった日本」であり誰の遺骨かわからない遺骨で帰って来た時であり、このこコロナ以外で死亡してた人まで遺骨だけの返還だと聞いているが 、今までの大きな職業実績を残した人は、家族の死に目に会えないどころか、遺体も見てもらえずらえずに、死ぬ事を寂しく思う人の事・・・・だろう。
それにしても,この蔵本を読まして貰っていないが帯が「死ぬ練習」は禁句ではなかっただろうか、唯売り…のように・・・るが・・・・・・コロナで死んだ家族等に失礼のように覚えるのだが・・・ない。
「死ぬ練習」or「死なせる練習」という言葉は使わないで発刊して欲しかった。
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