『晴れた日には・・・』

日々の雑感を綴ります。

世界文化遺産 特別史跡「平城宮跡」

2024年07月18日 | 旅行

和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められました。

元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、

大宝の遣唐使がもたらした中国・唐の都、長安城の最新の情報にもとづいて、

飛鳥に近い藤原京から再度 都を移したのです。

               (奈良文化財研究所「平城宮跡」パンフレットより)

 

3年前に奈良を旅した時、

姉に「平城宮跡の朱雀門を見てらっしゃい」と言われていたのですが、

遠くから見るだけで、しっかり見学しなかったので

今回、ここに半日を割きました。

 

第一次大極殿院復元図1/100模型

太極殿(古代の都における中心施設、元日朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際天皇が出御する場所)

奥に見える建物が太極殿

 

明治の末に、田んぼの中にある小高い芝地が太極殿(第二次)の基壇であることが発見され、

1952年に特別史跡に指定されたことから、本格的に発掘調査・研究がされてきた、ということでした。

早くから史跡があることが分かっており、建物など立てられず田んぼや畑が多かったことから

発掘作業も比較的スムーズだった、と係の方が説明してくれました。

 

発掘した遺構を、遺構展示館で見ることが出来ます。

 

同じ場所に何度も建て替えられたことが、柱の穴で判るそうです。

 

遺構をもとに、模型も作られていました。

 

 

出土した瓦

 

発掘された「役人の仕事机」

 

当時の貴族の食事(再現)だそう・・・

 

あの、朱雀門(復現)

 

暑くって、遠くって・・・・

近くまで歩いていく気に慣れず、道路からちょっと入った場所でパチリ!

修学旅行の生徒さんたちは、元気いっぱい門の中ではしゃいでいました。

この朱雀門、この門よりもっと広い幅75メートルの朱雀大路が再現されていましたが

長いと思っても、そんなのは一部。

この朱雀大路が、唐招提寺、薬師寺のほうまでずっと続いていた、と想像するだけで、

平城京がいかに大きいか、が分かります。

NHK大河ドラマ「光る君へ」の時代(平安京)よりも

凡そ250年くらい前の時代です。

 

最後は庭(東院庭園)

東院とは、宴会や儀式を催した場所、今でいうなら迎賓館に当たる場所。

遺構にもとづいて復元した建物と庭です。

 

 

 

こちらの「平城宮跡歴史公園」も広くて広くて・・・・・。

「遺構展示館」~「東院庭園」は、駐車場があるので車で行けますが、

復元されたそれぞれの建物・門までは徒歩でなくてはいけません。

自転車を借りて回るのが良いようですが・・・・・。

 

いずれにしても、ここは天皇・貴族の住まい、生活空間です。

文献には、多くの民の暮らしがどのようなものだったかは、ほとんど記されていません。

その民たちの心のよりどころは何だったんだろうか、と

奈良時代に思いを馳せながら見学しておりました。

 

 

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魅力の尽きない「法隆寺」

2024年07月13日 | 旅行

梅原猛氏の『隠された十字架—法隆寺論』に魅せられて

夢中になって一気に読んだのは、もう半世紀も前のこと。

そして、

法隆寺を訪れたのは、

半世紀以上前の修学旅行と十数年前の娘との旅行の二回だけ。

 

南大門から中門(仁王門)を望む。後ろには五重塔。

梅原猛氏は『隠された十字架』のなかで、

いくつかの「不思議」を提示し、その不思議(謎)に対する推論を述べている。

その中で、私が大いに興味をそそられたのが、

「中門(仁王門)」の謎。

下は、大阪四天王寺の中門(仁王門)

因みに、四天王寺は聖徳太子によって593年創建された、とされ、

法隆寺は、607年の創建とされる。

 

二つの写真を比べて見てわかる通り、法隆寺の中門には「柱」が5本ある。

普通なら、四天王寺の中門のように柱は4本で、くぐる場所は「ここ」とはっきりわかるのに、

法隆寺の中門には中央に1本柱が立ち、まるで入る人を拒むかのようだ。

梅原氏は、

「法隆寺は、王権(蘇我入鹿)によって子孫(聖徳太子の子、山背大兄皇子ら親族)を抹殺された

 聖徳太子の怨霊を封じるための寺なのではないか」

入るのを拒むのではなく、怨霊を封じ込めるために中央に柱が建つ、という説を唱えた。

Wikipediaの説明では、

「中門  日本の寺院の門は正面の柱間が奇数(3間、5間、7間等)になるのが普通だが

     この門は正面柱間が4間で、真ん中に柱が立つ点が特異である。」とある。

 

   643年(皇極年)蘇我入鹿が山背大兄皇子らを斑鳩宮にて襲い、聖徳太子の血族である上宮王家が滅亡。

   670年(天智9年)法隆寺炎上

   708年(和銅元年)詔により法隆寺を再建

 

さらに、五重塔の九輪にかけられた「鎌」

これにもまた、聖徳太子の怨霊封じ、との自論を提示しています。

 

さらに、明治初期にフェノロサによって白布を解かれ

数百年間誰も見たことがなかったという「救世観音(観音菩薩立像)」についても

光背が直接頭から打ちつけられているさまを見て

「呪詛の行為」(聖徳太子を呪う)ではないか、と主張しました。

 

 

 

猛暑の中を約2時間かけて拝観しました。

いや~、ひろいひろい!

夢殿~中宮寺も回ったので、余計時間がかかったかもしれません。

どの建造物も、どの仏像、観音様も、橘婦人、玉虫の両厨子も

本当に魅力的で、

眺めていて一向に飽きない法隆寺なのでありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あこがれの「甲子園」!!

2024年07月12日 | 旅行

やってまいりました!

あこがれの「甲子園」(笑)・・・・(まるで高校球児みたい・・苦笑)

今まで、野球観戦と言えば、

雨天の場合を心配してドームばかりでした。

昨年の阪神日本一に刺激を受けて、私たちも「賭け」に出ました。(笑)

一生に一度でいいから、「甲子園」で野球が見たい!!

 

試合は調子が上がってきた、対「横浜」戦。

 

ああ、晴れてよかったなあ・・・・。

 

試合前の腹ごしらえ。

 

次第にビジター席も、全部埋まってきました。

が、ほとんどは阪神ファン。

 

試合は負けちゃいましたが、めっちゃ面白かった!!

やっぱり、本拠地は違う!

京セラドームも半分阪神のホームだって言われてるけど、

全然 雰囲気が違う!

ビールもおいしかったし、応援も楽しかったし、

出来れば、もっと「六甲おろし」が歌いたかったねえ。

 

「来年も来よう!」

って、主人は言ったけど、

ねえ、私たちが観戦した試合は、1勝5敗だよ!

 

見に来ない方がいいんじゃないかねえ?

 

 

 

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母の戸籍(その後)

2024年03月06日 | 旅行

神戸市に依頼してあった母の戸籍は、

1週間ほどして届いた。

 

こちらの戸籍謄本に比べると、

まあ、文字に癖があり、読み解くのがとても困難だった。

狭い行に、太いペン先で書かれているため、

それもまた、読みにくくさせている。

それでも、なんとか読んでいく。

 

母の父となる人の項目には、

母の母となる人との入籍日から死亡の日までが書かれていた。

 

それから計算すると、

母の父となる人は、母の母となる人と結婚してから

わずか5年もたたないうちに亡くなっていることになる。

その間に4人もの子供を産んで、

4人目の子どもは、父親の死後生まれていることから、

あの時代、

とてもとても、女手一つで4人の子どもは育てられなくて、

母が養女に出された、

ということなのだろう。

 

母の母は、母の養母の妹、ということも判明。

(おばさんのところに養女に来たんだね。)

母の母が、どういう事情で遠く関西まで行って

家庭を持つことになったのかは分からないが、

空想を膨らませれば、

面白い小説が書けるかもしれない(笑)

 

それに伴い、こちらに来てからの母の戸籍を改めてみると

こちらの戸籍もまた面白い。

 

私のじいちゃん・ばあちゃん(養父母)の、

特に養父の家系が興味深い。

じいちゃんの親たちのその親たちの生年月日までが記録されていて

じいちゃんのじいちゃんは、天保13年11月10日生まれ、

じいちゃんのばあちゃんは、嘉永元年6月10日生まれ。

そのまた、親たちの名前は分かるけど、

生年月日までは書かれていない。

 

面白いのは、「隠居」の届け出や

「家督相続」の届け出まで記録されていることだ。

そして、婚姻が文久3年、とあるのもなんだかおもしろい。

こんなに昔のこともきちんと記録されてるんだねえ。

じいちゃんのじいちゃんが、

じいちゃんの父親に「家督」を譲ったという元治元年は、西暦でいうと1864年で、

時代はまだ、徳川の時代、将軍は14代将軍家茂、

調べてみたら、その年は「池田屋事件」が起きた年、ということだ。

 

あの時代のこんな田舎でも、

ちゃんと「歴史」は流れてるんだなあ、と

ちょっと感慨に浸りました。

そうしたことまで判明できたのは、

こちらの戸籍謄本は、とてもきれいな文字で(神戸市とはえらい違い・苦笑)

細いペン先で、とても丁寧に詳しく書かれているから。

 

それらをもとに、今、家系図を作成中(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「城跡」めぐり(その2)安土城

2023年10月29日 | 旅行

1575年(天正三年)に、小谷城を落とした織田信長は

翌年 1576年に、重臣の丹羽長秀に命じて、安土城の普請を始めました。

 

小谷城は、敵から自分たちを守る 攻めにくい「山城」ですが、

この安土城は、権力を誇示するような、

いかにも信長らしい造りだな、と感じました。

 

「どうぞ、いらっしゃい!」とばかりに、

石段も歩きやすいし、石段の幅は広いし、

およそ、だ~れも攻めてきたりはしないだろう、と

自分には敵がいない、自分が頂点、と自信満々の信長らしい「城」跡でした。

驚いたのは、

天守に向かう石段(大手道)の両脇に

前田利家邸と羽柴秀吉邸が向かい合って、建っていたらしい、ということ。

 

 

前田邸の入り口の大きな石橋

当時のまま、なんだなあ・・・・

 

 

このあたりを境に、「山城」は造られなくなり

代わりに、平坦な地に「堀」をめぐらすお城に変わっていったのかなあ、

と想像しました。

この間に、秀吉は長浜城を築城しています。(1573年)

 

「小谷城」から「安土城」

戦国時代の終焉も感じさせます。

因みに、本能寺の変は、安土城築城の

わずか6年後です。

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