雄勝町にあったサン・ファン・バウティスタ号の造船の地であった雄勝町は、東日本大震災による壊滅的な被害により
その資料や造船の地としての場所を示す看板などが破壊され消えてしまった。
このブログでは、仙台藩にまつわる多くの出来事をマイペースで書き綴っていましたが、雄勝町の造船の地も取材に行き
写真を撮ってブログにアップしていました。
資料や看板を失った。雄勝町の関係者から一通のメールが届きました。どう . . . 本文を読む
伊達騒動(寛文事件)その真実とは 仙台藩主三代目綱宗が若くして隠居させられる。
お家騒動とは、大名家の内紛である
伊達騒動(寛文事件)と伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)
伊達騒動
伊達騒動とはどんなものだったのでしょう・・・
現在は、あまり知る人がいなくなりましたが、伊達騒動が有名になったのは、庶民の楽しみである、歌舞伎や浄瑠璃でした。
タイトルは様々あ . . . 本文を読む
慶長18年(1613)江戸幕府によるキリシタン禁教令が行われ元和6年(1620)には仙台領でもキリシタンの迫害が始まりました。元和9年(1623)冬、ポルトガル人宣教師ガルヴァリヨ神父他8名の日本人キリシタンは奥羽山脈に潜伏中捕らえられ仙台に護送された。
同年大晦日、大橋の下の水牢においてまず2名が殉教翌元和10年(1624)1月9日ガルヴァリヨ神父を含む7名が殉教しました。
イエズス会のポル . . . 本文を読む
追記し、再度更新しました。
仙台藩の御家騒動である寛文事件又は伊達騒動と云われる大事件がありました。
伊達騒動(寛文事件)とは
江戸前期(1660潤オ1671)仙台潘伊達家に起こった御家騒動。
万治3年(1660)三代藩主伊達綱宗は所行紊乱(びんらん)の廉(かど)で幕命により、わずか二年で隠居を命じられます。
酒や遊興にふける綱宗に、藩の重臣や親戚の大名が注意をするものの一向に改善されませんで . . . 本文を読む
旧宮床伊達家住宅
仙台藩一門、宮床伊達氏だが、四代藩主の綱村は父では無い、つまり養子に入ったわけだがその背景から記してゆきたい。
三代藩主である綱宗は故ありて21歳の若さで逼塞を命じられ、一生を江戸の仙台屋敷で過ごすのです。
このことを発端に始まった事件を「寛文事件」または「伊達騒動」という。これについてはHPに纏めているが、まだ書き足さなければいけないので、編集途中だが興味があればご覧く . . . 本文を読む
昨日のブラタモリで放映されてツイッターにもUPされていたようですね。
あの政宗が朝鮮出兵の際に持ち帰ったという「朝鮮うめ」ですね。
実はあの宮城刑務所(若林城)の中にだけあるわけではありません。
下の記事は2009年6月の記事です。
ふたり・・・・西公園(桜ヶ岡公園)
それから松島瑞巌寺にもあります。記事には書いていたのですが、梅の時期ではなかったので写真は撮りませんでした。
「瑞巌寺」 . . . 本文を読む
それは、私のことでは無く、スペイン南部のアンダルシア地方のコリア・デル・リオという川岸の町で無敵艦隊や商船隊の玄関口と言われる地に残留した日本人がいた。
今ではマスコミ等で有名になりましたが、仙台藩・伊達政宗から遣わされた支倉常長を大使とする日本人使節の一部が残留しその末裔がJapon(ハポン:日本姓)を名乗ってこの地に暮らしているのです。
民間レベルでの交流も現在はあり、皇太子も訪問していま . . . 本文を読む
仙台藩:歴代藩主の側室たち 藩祖政宗~二代忠宗
上記写真は瑞鵬殿にある、政宗から三代までの廟所が建っていますが、前回の記事で政宗の瑞鵬殿と忠宗の感仙殿の一部をUPしました。
この建造物は三代綱宗の善応殿です。 この写真ではわからないのですが、ある部分が違います。
この理由については私の想像で記事にしています。ご覧になりたい方はこちらにリンクします。 瑞鵬殿
三代綱宗の側室
●三沢初子 . . . 本文を読む
藩主達は何故側室を持ったのでしょう。
当時の社会における藩主達には、側室は必要だったと言えるでしょう。
後継者を作ることは不可欠でしたが、それだけではありません。
多くのお子を作って、他の藩や家臣と縁組をさせることが自分の藩を守る一番良い手段であったのです。
正夫人たちは家柄の立派な血筋を重んじましたが、側室たちは必ずしもそれにこだわらなかったようです。
家臣の娘や浪人の娘など、その生ま . . . 本文を読む
私たちが想像する藩主夫人の姿は、城中の奥深いところに居住し大勢の待女にかしづかれて暮らす高貴な婦人方というところではないだろうか。
当時の社会にあっては一般庶民から見れば、まさに雲の上の高貴な女性であった。
しかし、この高貴な婦人方は夫が支配する領国の城下町仙台を一度も見ることはなかった。
それは徳川幕府の方針で正夫人たちは勝手に江戸を離れることは厳しく禁止されていた。
そうでなくても藩主夫人で . . . 本文を読む
通常、遣欧使節の大使と言えば、どの本にも支倉常長または六右衛門常長で記載している。
それはそれでいいと思います。私のHPでも当然「支倉常長」で通しています。
しかし、資料の中には、あれ「長経」とサインしている。?と気づくこともあります。
資料の中に現れる大使支倉の名前は以下のようである。
「五郎佐衛門尉」・「五郎佐衛門」・「六右衛門尉」・「六右衛門」・「六衛門」・「与市」・
「長経」・「常長 . . . 本文を読む
2008年に4話に分けていた「瑞鳳殿」を写真を差し替え一つにまとめました。
仙台市青葉区霊屋下にある瑞鳳殿に行って来ました。 この住所の霊屋(おたまや)もやはり、
ここに廟所があるからですね。
石造りの階段は。戦災をのがれ藩政時代からのもので、杉並木は樹齢370年余のものもあるそうです。
石段の途中には昔の「お手水」の跡地がありました。昔はここで身を清めたのでしょう。
そしてこの石 . . . 本文を読む
※ビスカイノ(セバスティアン・ビスカイノ)
※金銀島探検記
支倉常長やサンファンバウティスタ号の話は以前記事にしていますが、後ほど追記したいと思います。
その前に、三陸沿岸の調査をしていたビスカイノ一行は慶長大津波を目撃していたのです。
●ビスカイノの三陸沿岸の探索は1611年(慶長十六年)七月七日、徳川家康に対して日本の東沿岸の測量や造船などに関する朱印状交付の為の請願書を提出したことに始 . . . 本文を読む
過去の記事で支倉六右衛門常長とサンファンバウティスタ号について数話に分けて記載してきました。
墓所についても三箇所ある内の二箇所である大郷町のメモリアルパークと川崎町の圓福寺はアップしていましたが、光明寺の墓は記事にしていませんでした。
過去の記事についてはこちらをご覧下さい。
http://sanpomichi114.web.fc2.com/hasekura01.html
正門です . . . 本文を読む