仙台の夜・・・と言えば、国分町でしょう。
日焼けならぬ、ネオン焼けするほど通った殿方は多いはず。
しかしバブルが弾けてから、すっかり客足は減りましたね。
一時、国分町の通り沿いには、客を呼び込むレディ達が肩を並べていました。
しかし、条例によりその姿は消し、ポン引きのおじさん達も客に声を掛けることすら出来なくなったのです。
じゃー居なくなったのか そんなことは、無いです。
小さな声で、さりげなく声を掛けてきます。
もしポン引きのおじさん達に会いたければ、虎屋横丁あたりにいますよ。
簡単に国分町の歴史を紐解いて見ましょう。
昔、仙台地方には国分寺が置かれ「国分寺の記事はミモザさんが書いてます」
また国分氏がこの地を領有していましたので、仙台地方一帯を国分荘と呼んでいたそうです。
伊達政宗が仙台に移り、大町・肴町・南町・立町などの御譜代町がそれぞれの地に
置かれた際、その頃まで国分氏に従い、木の下付近に住んでいた町人などを
芭蕉の辻から北へ置いた。これが今の国分町です。
芭蕉の辻にある国分町の道標
仙台地方ではその昔、国分町を「こっぽんまち」と呼んだそうです。
その後この町に豪商が住み込み、時代により変わったが、主な豪商には、
呉服問屋、味噌問屋、薬種商、物商、本屋など実力のある商人がいたようです。
今の飲食業で栄える国分町は、昔の豪商の末裔によるものではないのだろうか
まぁ、ビルの持ち主ぐらいでしょうけど・・・・
昼の虎屋横丁
虎屋横丁はいつ頃から虎屋横丁と呼ばれるようになったかはわからないが、
だいたい藩政末に生まれた丁名とみられているようです。
伝えによると、国分町の東南角に虎屋という薬種屋があって、
その店頭に木彫りの虎を飾られてあったのが、 虎屋横丁の名の起こりだと
いわれています。
明治時代には虎屋横丁に芸者置屋も並んだそうです。
「虎屋横丁の名にこそ残れ、色香床しい花の街」と歌われ、なまめかしい御神灯の
下から芸者衆がお座敷に急ぐころ、明治六年から二十年ごろまでは猫屋横丁と
呼ばれたそうです。
それは、芸者の別名「猫」にちなんだもののようでうす。
<国分町タウンガイドから引用>
そう言えば、政宗公も側室を動物に例えて呼んでいたのですよ。
実は、こんな店がありました。
普通の店なのですが、この彫り物は凄い
虎の彫り物もありますね~
布袋屋さんです。
どれどれ、昭和はどんな感じ・・・・
虎屋横丁を横切る、稲荷小路です。
稲荷小路のほぼまん中にお稲荷さんの社があったことから稲荷小路と
呼ばれるようになりました。
その社は稲荷小路の町内会が戦後建てたもので、この小路ができる前
昭和23年の虎屋横丁の火事で、お稲荷さんの隣で火がピタリと止まったという
逸話が残っています。
以前はにぎやかな飲食店や群がる人々に囲まれていたお稲荷さんでしたが、
今は、近代的に変わったしまった稲荷小路にひっそりと佇んでいる。
戦後から現在までの移り変わりをどんな思い出見ているのでしょうね。
記事が長くなりましたので、つづく!次は夜の街です
日焼けならぬ、ネオン焼けするほど通った殿方は多いはず。
しかしバブルが弾けてから、すっかり客足は減りましたね。
一時、国分町の通り沿いには、客を呼び込むレディ達が肩を並べていました。
しかし、条例によりその姿は消し、ポン引きのおじさん達も客に声を掛けることすら出来なくなったのです。
じゃー居なくなったのか そんなことは、無いです。
小さな声で、さりげなく声を掛けてきます。
もしポン引きのおじさん達に会いたければ、虎屋横丁あたりにいますよ。
簡単に国分町の歴史を紐解いて見ましょう。
昔、仙台地方には国分寺が置かれ「国分寺の記事はミモザさんが書いてます」
また国分氏がこの地を領有していましたので、仙台地方一帯を国分荘と呼んでいたそうです。
伊達政宗が仙台に移り、大町・肴町・南町・立町などの御譜代町がそれぞれの地に
置かれた際、その頃まで国分氏に従い、木の下付近に住んでいた町人などを
芭蕉の辻から北へ置いた。これが今の国分町です。
芭蕉の辻にある国分町の道標
仙台地方ではその昔、国分町を「こっぽんまち」と呼んだそうです。
その後この町に豪商が住み込み、時代により変わったが、主な豪商には、
呉服問屋、味噌問屋、薬種商、物商、本屋など実力のある商人がいたようです。
今の飲食業で栄える国分町は、昔の豪商の末裔によるものではないのだろうか
まぁ、ビルの持ち主ぐらいでしょうけど・・・・
昼の虎屋横丁
虎屋横丁はいつ頃から虎屋横丁と呼ばれるようになったかはわからないが、
だいたい藩政末に生まれた丁名とみられているようです。
伝えによると、国分町の東南角に虎屋という薬種屋があって、
その店頭に木彫りの虎を飾られてあったのが、 虎屋横丁の名の起こりだと
いわれています。
明治時代には虎屋横丁に芸者置屋も並んだそうです。
「虎屋横丁の名にこそ残れ、色香床しい花の街」と歌われ、なまめかしい御神灯の
下から芸者衆がお座敷に急ぐころ、明治六年から二十年ごろまでは猫屋横丁と
呼ばれたそうです。
それは、芸者の別名「猫」にちなんだもののようでうす。
<国分町タウンガイドから引用>
そう言えば、政宗公も側室を動物に例えて呼んでいたのですよ。
実は、こんな店がありました。
普通の店なのですが、この彫り物は凄い
虎の彫り物もありますね~
布袋屋さんです。
どれどれ、昭和はどんな感じ・・・・
虎屋横丁を横切る、稲荷小路です。
稲荷小路のほぼまん中にお稲荷さんの社があったことから稲荷小路と
呼ばれるようになりました。
その社は稲荷小路の町内会が戦後建てたもので、この小路ができる前
昭和23年の虎屋横丁の火事で、お稲荷さんの隣で火がピタリと止まったという
逸話が残っています。
以前はにぎやかな飲食店や群がる人々に囲まれていたお稲荷さんでしたが、
今は、近代的に変わったしまった稲荷小路にひっそりと佇んでいる。
戦後から現在までの移り変わりをどんな思い出見ているのでしょうね。
記事が長くなりましたので、つづく!次は夜の街です
ひーさんのブログを見ると、他所から来たミモザに
取って、仙台の歴史を見ているようで新鮮です
国分町~虎屋横丁はわかりますが、稲荷小路って
どこら辺の事なのでしょうか
普通のお店に凄い彫刻!
この場所も知りたいです
ミモザの国分寺の記事を紹介して頂き
有難う御座います
バブリ~な時代はさぞ盛況だったでしょうねぇ~
なんか昔の方が街が大きく見えますわ♪
その下の~渇~って グ~~ (^_-)-☆
ポン引きやレディ達、福岡の中洲でもあまり見られなくなりました。
何処の町も条例が厳しくなっているんですね。
ハタチそこそこの頃に行って
なんだかおっかねぇ街だなぁ
って思った
(あの頃は初々しかったなぁ)
ひーさんにお願いがあります
私のブロ友さん(たぶん30代の男性)が土日、仙台へ楽天観戦に来るそうなんですが
一人でも行けるオススメの食べ物屋さんありませんか?
私は良く分からんので…
ヨロシクお願いします
そう言われると悩むけど……
最近外食と言えば、そばや吉牛に頼ってますから、僕が一人で食事をするときは、仙台駅の地下の飲食店に行きます。洋食からとんかつ、寿司、和食と揃ってるし、駅だから一人で食べてる人も多いので気を使いません。店も綺麗だしね。!
私はその忙しくて、大河ドラマを見ないでしまいました。
中洲もそうなんですか~ 安心して飲めるのいいことですけどね。
確かにウルサイけど、活気は無くなるかも。
なつかしいお写真楽しみに拝見いたしてございます。
一番町と国分町が平行にありますね。
つまり国分町と一番町の間に稲荷小路はあります。
お稲荷さんは、長崎屋の裏手くらいです。
一番町の「いたがき果物」から国分町に曲がると虎横ですね。その一つ目の十字路が稲荷小路であの店がその角にあったような
ブラブラ歩いていたので、記憶が・・・
そうだ
何とか銀座もあります。
次の機会に発表しま~す。