偽書「東日流外三郡誌」の正体1
偽書「東日流外三郡誌」の正体2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体6
偽書「東日流外三郡誌」の正体7
偽書「東日流外三郡誌」の正体8
この偽書を信じたいという方は、このブログのタイトルの1からすべてをしっかり読んでいただきたい。
参考文献にしたこの古本を買って読んでいただければ一番いいのだが、それも大変でしょうから無料のこの記事を読んでください。
和田氏は自分の履歴についても明らかな嘘をついているのですが、その辺はカットしました。
私が書きたいと思っていることは、まだまだこれからです。 本物の歴史家や学者が多くの矛盾をこの『外三郡誌』から証拠を出しているが、それでも信じて新たな書籍が出版されています。
まるでオーム真理教の信者が今でも絶えないのと同じように、次々とこの本の信者が今でも増えているようです。
それでは、参考にした本に戻ります。 現在引用している本は『偽書「東日流外三郡誌」事件』から抜粋しています。
民俗学者で近畿大学民俗学研究所を務める谷川健一の見解
「東日流外三郡誌」は、明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。(中略)「東日流外三郡誌」上巻十四ページに次の文章がある。
「依って都人の知謀術数なる輩に従わせざる者は蝦夷なるか。 吾が一族の血肉は人の上の人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮らしを以て祖来の業とし・・・・」。
元禄十年七月に秋田頼季が書いたとある文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのを見るとき唖然とするのである。(『白鳥伝説』1986年)
その後、谷川は和田家から見つかったとされる福沢の書簡について、さらにこう語っていた。
「嘘の上塗りをするために、和田があらたにねつ造した偽りの手紙であることは明白である」 単刀直入。擁護派にとっては、これ以上ない厳しい言葉だった。
これについては前記事の正体8に記載した通りだ。
『外三郡誌』に対して警鐘を鳴らしている人物としては、谷川の他に偽史研究家の籐野七穂がいた。 藤野は「偽史」という専門の観点から、次のように多くの疑問符を突きつけていた。
「写本」そのものは未公開であり、「偽書」ではないか、という疑いは払拭されていない。 (中略)極端な右上がりの特徴の字癖を持つ現「写本」は、「なぜかほとんど楷書」で当用漢字(旧字は國など極めて僅小)を使用しており、ごく新しいものとしか思えない。(中略)古代・中世の史料としての援用はおろか、江戸期の史料としての使用すら悲観的にならざれをえない。
(「東日流外三郡誌」の秘密とその問題点)「北方の楽園みちのくの王国」一九九二年)
また地元の青森県では舌鋒鋭い評論で知られる松田弘州(故人)が、『外三郡誌』の偽書性を厳しく指摘していた。
「東日流外三郡誌」は現代人によって執筆された、現代人のための《偽作・盗作》であった。 昭和三十年代、四十年代にさまざま執筆された地方史に影響された津軽人が、図に乗って、古文書や金石文に過ぎない。
”歴史物語”をたまたま書き上げたら、そのフィクションがどうしたわけか、「ウソでも、本当らしい」と受け取られ、歴史学会などにも少なからず影響を与え、テレビ番組にもなったが、まともな歴史家はこれをアヤシゲなものと否定した。 だが、いまだに一部読者の「アヤシゲだがロマンがある」なんていう、ヘンテコな倫理に支えられてているのが「東日流外三郡誌」というものなのである。
(『吉田史学の大崩壊』1991年)
このような批判があることは、擁護派の面々も承知しているはずだった。 それなのに何故、こうした疑惑にほおかむりしたまま、新たな”発見”を宣伝し、マスコミに接触してくるのか、私には大きな謎だった。 それは、ほかの記者も同様のはずだった。
青森市内の古本屋にぶらりと入った。やはり、視線はいつしか歴史コーナーへ向かった。 すると、ある、ある。『外三郡誌』の影響を受けた・・・もしくはそのまま引用した本が、そんな広くもない店内にずらりと並んでいた。
ジャンルは研究書にはじまり、小説、サブカルチャー、コミック、歴史専門誌と多様で、中には有名大学の教授が書いた論文のようなものまで交じっていた。
地方、中央の出版社が競うようにして、『外三郡誌』を商品化しているのは壮観でもあった。
『外三郡誌』が1975年に『市浦村史資料編』として世に出て以来、二十年間にいかに広く、しかも深く、日本列島に浸透していたのかを改めて思い知らされた。
また『外三郡誌』は歴史業界の中で金になる木なのだな、と実感した。真相論争の側面の一つがおぼろげに見えてきたような気がした。
『謎の東日流外三郡誌』(佐治芳彦)
『津軽出雲 縄文神の血族』(志茂田景樹)
『津軽古代王国の謎』(佐藤有文)
『真実の東北王朝』(吉田武彦)
『日本超古代王朝の謎』(鈴木旭)
『東日流外三郡誌の旅』(小舘衷三)
『東日流外三郡誌と語り部』(佐々木孝二)
『白鳥城物語(長尾まり子)
『古代天皇の秘密』(高木彬光)
『竜の柩』(高橋克彦)・・・・・・
教科書に載っていない、本当の青森の歴史を知りたい(又は東北の歴史が知りたい)という人が多いですね。
面白いことに、偽書騒動が新聞に頻繁に出るようになってから、よけい売れるようになりました。 購買層がそれまでの一部のマニアから一般の人へ広がったんじゃないでしょうか。
偽書騒ぎさまさまですね。
『外三郡誌』関係の書籍は雑誌類も含めて百三十冊を超え、二十一世紀に入ってもその出版ベースに衰えないという。 驚くしかありません。
売れる本だから・・・もうやめて欲しいですね。私がこんな面倒な事を記事にしているのは、東北の歴史に興味を持ち楽しもうとしているアマチュアの歴史家を自分の利益にするのは・・・。
私もその一人になっていました。隠された真実があるのではないか? そうしたら歴史は面白くなる。こんな歴史が本当だったらいいな! そう思ってしまいました。
この偽書は、誰でも知っている本当の史実に付け加えて想像を膨らまし嘘を貫いたのです。しかし本物の歴史家は単純なミスに気が付き相手にしなくなります。
しかし、この事件すらわからない世代にとっては新しくロマンに満ちた歴書に見えてくるのです。もちろん私も・・・
近くの歴史書を書いている人も、あれは偽書だから・・・と問題にしません。
そこで私は、どこが偽書と言われるのか調べるようになったのです。 そうしたら何もかにもが嘘だったわけでした。
私は仕事でよく平泉を訪れていました。 以前はあの国道の脇に「安倍一族の墓」という大きな看板があったのです。 それがある日突然無くなりました。 つまり偽書の作者に騙されて町では墓まで作っていたのです。偽物とわかり看板を外したのでしょう。 私は調べていて「そうだったのか」とその状況が一致しました。
それはのちほど記載します。 この本が真実に思われた原因の一つは、公的な本として、市浦村の資料編になってしまったからでしょう。
公的な場所が歴史書の史料に使ってしまったことは大きな間違いでした。 今は公開していません。
これについても、各書籍の中で詳しく述べていますので、引用してここに記事にしたいと思います。 ブログ管理者「ひー」
地元、五所川原市飯詰地区の人々は・・
「実を言うと、私たちは、『外三郡誌』がここまで大きくなるとは思っていなかったのです。 甘く見ていたんですね。 他の地区の人達から”こうした疑惑があることを知っていながら、なぜ放置したのか。恥ずかしい”と言われ、返す言葉がありませんでした。その通りだからです。 飯詰に住む人たちはみんな、和田さんの家が江戸時代の文書が伝わるほど古い家柄じゃないことを知っています。 もちろん和田さんの親類もです。
私は和田さんの字を知っているので、彼の筆跡は一目見ればわかります。とても特徴がありますからね。
かなり前のことですが、和田家文書の写本と呼ばれるものを見たことがあります。 残念ながら、彼の筆跡でした。 これでは駄目だと思いました。『外三郡誌』自体も、少しの歴史の知識があれ人なら、おかしいと思う内容です。
逆にあまりにもお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかも知れません。そうした面倒くさいことには関わりたくないという曖昧な姿勢が、この問題を大きくしたのかも知れません。
ねぶた師の”告発”
じつは『外三郡誌』に絡んでちょっと興味深い話があるんです。 和田家文書の一つに『東日流六郡誌絵巻』というのがありますよね。 あの中に出てくる挿絵が、ある画集からの盗用なんです。
『東日流六郡誌絵巻』に掲載されている挿絵が、昔のカラー画集の絵と酷似している。 その画集は日本史の名場面をまとめた『國史画帖大和櫻』(こくしがちょうやまとざくら)と呼ばれるもので、一九三五年に東京の省文社から出版された。
酷似しているのは、画集に掲載されている絵六十一枚のうち二十枚以上。
ねぶた製作者として知られる千葉作龍(青森市)が気付き、「盗用である」と指摘している。
千葉と言えば、青森県に住む人ならばだれでも知っている「ねぶた師」だった。
武者絵をねぶたのモチーフに使うねぶた師たちは『國史画帖』のような歴史に題材をとった画集を参考資料にするんだそうです。
偽書騒ぎが起きてから『東日流六郡誌絵巻』と見比べてみてびっくり。これはほうっておくことができない思ったらしいです。
問題の『六郡誌絵巻』とは『東日流六郡誌大要』『東日流六郡誌考察図』など和田家文書とされるもの十巻以上を一冊にまとめたもので、1986年に弘前市の出版社から発行されていた。
簡単にいえば『外三郡誌』の姉妹編のようなもの。
笑ってしまうほど真似て書いた事が素人でもわかる。私だったらもっと上手にかけますよ。
これは、一連の和田家文書が偽書だという有力な根拠になります。
こんな本を信じる価値はゼロですね。
9話では終わりそうもありません。まだ続けたいと思います。
偽書「東日流外三郡誌」の正体10
偽書「東日流外三郡誌」の正体2
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
偽書「東日流外三郡誌」の正体4
偽書「東日流外三郡誌」の正体6
偽書「東日流外三郡誌」の正体7
偽書「東日流外三郡誌」の正体8
この偽書を信じたいという方は、このブログのタイトルの1からすべてをしっかり読んでいただきたい。
参考文献にしたこの古本を買って読んでいただければ一番いいのだが、それも大変でしょうから無料のこの記事を読んでください。
和田氏は自分の履歴についても明らかな嘘をついているのですが、その辺はカットしました。
私が書きたいと思っていることは、まだまだこれからです。 本物の歴史家や学者が多くの矛盾をこの『外三郡誌』から証拠を出しているが、それでも信じて新たな書籍が出版されています。
まるでオーム真理教の信者が今でも絶えないのと同じように、次々とこの本の信者が今でも増えているようです。
それでは、参考にした本に戻ります。 現在引用している本は『偽書「東日流外三郡誌」事件』から抜粋しています。
民俗学者で近畿大学民俗学研究所を務める谷川健一の見解
「東日流外三郡誌」は、明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。(中略)「東日流外三郡誌」上巻十四ページに次の文章がある。
「依って都人の知謀術数なる輩に従わせざる者は蝦夷なるか。 吾が一族の血肉は人の上の人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮らしを以て祖来の業とし・・・・」。
元禄十年七月に秋田頼季が書いたとある文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷きにしているのを見るとき唖然とするのである。(『白鳥伝説』1986年)
その後、谷川は和田家から見つかったとされる福沢の書簡について、さらにこう語っていた。
「嘘の上塗りをするために、和田があらたにねつ造した偽りの手紙であることは明白である」 単刀直入。擁護派にとっては、これ以上ない厳しい言葉だった。
これについては前記事の正体8に記載した通りだ。
『外三郡誌』に対して警鐘を鳴らしている人物としては、谷川の他に偽史研究家の籐野七穂がいた。 藤野は「偽史」という専門の観点から、次のように多くの疑問符を突きつけていた。
「写本」そのものは未公開であり、「偽書」ではないか、という疑いは払拭されていない。 (中略)極端な右上がりの特徴の字癖を持つ現「写本」は、「なぜかほとんど楷書」で当用漢字(旧字は國など極めて僅小)を使用しており、ごく新しいものとしか思えない。(中略)古代・中世の史料としての援用はおろか、江戸期の史料としての使用すら悲観的にならざれをえない。
(「東日流外三郡誌」の秘密とその問題点)「北方の楽園みちのくの王国」一九九二年)
また地元の青森県では舌鋒鋭い評論で知られる松田弘州(故人)が、『外三郡誌』の偽書性を厳しく指摘していた。
「東日流外三郡誌」は現代人によって執筆された、現代人のための《偽作・盗作》であった。 昭和三十年代、四十年代にさまざま執筆された地方史に影響された津軽人が、図に乗って、古文書や金石文に過ぎない。
”歴史物語”をたまたま書き上げたら、そのフィクションがどうしたわけか、「ウソでも、本当らしい」と受け取られ、歴史学会などにも少なからず影響を与え、テレビ番組にもなったが、まともな歴史家はこれをアヤシゲなものと否定した。 だが、いまだに一部読者の「アヤシゲだがロマンがある」なんていう、ヘンテコな倫理に支えられてているのが「東日流外三郡誌」というものなのである。
(『吉田史学の大崩壊』1991年)
このような批判があることは、擁護派の面々も承知しているはずだった。 それなのに何故、こうした疑惑にほおかむりしたまま、新たな”発見”を宣伝し、マスコミに接触してくるのか、私には大きな謎だった。 それは、ほかの記者も同様のはずだった。
青森市内の古本屋にぶらりと入った。やはり、視線はいつしか歴史コーナーへ向かった。 すると、ある、ある。『外三郡誌』の影響を受けた・・・もしくはそのまま引用した本が、そんな広くもない店内にずらりと並んでいた。
ジャンルは研究書にはじまり、小説、サブカルチャー、コミック、歴史専門誌と多様で、中には有名大学の教授が書いた論文のようなものまで交じっていた。
地方、中央の出版社が競うようにして、『外三郡誌』を商品化しているのは壮観でもあった。
『外三郡誌』が1975年に『市浦村史資料編』として世に出て以来、二十年間にいかに広く、しかも深く、日本列島に浸透していたのかを改めて思い知らされた。
また『外三郡誌』は歴史業界の中で金になる木なのだな、と実感した。真相論争の側面の一つがおぼろげに見えてきたような気がした。
『謎の東日流外三郡誌』(佐治芳彦)
『津軽出雲 縄文神の血族』(志茂田景樹)
『津軽古代王国の謎』(佐藤有文)
『真実の東北王朝』(吉田武彦)
『日本超古代王朝の謎』(鈴木旭)
『東日流外三郡誌の旅』(小舘衷三)
『東日流外三郡誌と語り部』(佐々木孝二)
『白鳥城物語(長尾まり子)
『古代天皇の秘密』(高木彬光)
『竜の柩』(高橋克彦)・・・・・・
教科書に載っていない、本当の青森の歴史を知りたい(又は東北の歴史が知りたい)という人が多いですね。
面白いことに、偽書騒動が新聞に頻繁に出るようになってから、よけい売れるようになりました。 購買層がそれまでの一部のマニアから一般の人へ広がったんじゃないでしょうか。
偽書騒ぎさまさまですね。
『外三郡誌』関係の書籍は雑誌類も含めて百三十冊を超え、二十一世紀に入ってもその出版ベースに衰えないという。 驚くしかありません。
売れる本だから・・・もうやめて欲しいですね。私がこんな面倒な事を記事にしているのは、東北の歴史に興味を持ち楽しもうとしているアマチュアの歴史家を自分の利益にするのは・・・。
私もその一人になっていました。隠された真実があるのではないか? そうしたら歴史は面白くなる。こんな歴史が本当だったらいいな! そう思ってしまいました。
この偽書は、誰でも知っている本当の史実に付け加えて想像を膨らまし嘘を貫いたのです。しかし本物の歴史家は単純なミスに気が付き相手にしなくなります。
しかし、この事件すらわからない世代にとっては新しくロマンに満ちた歴書に見えてくるのです。もちろん私も・・・
近くの歴史書を書いている人も、あれは偽書だから・・・と問題にしません。
そこで私は、どこが偽書と言われるのか調べるようになったのです。 そうしたら何もかにもが嘘だったわけでした。
私は仕事でよく平泉を訪れていました。 以前はあの国道の脇に「安倍一族の墓」という大きな看板があったのです。 それがある日突然無くなりました。 つまり偽書の作者に騙されて町では墓まで作っていたのです。偽物とわかり看板を外したのでしょう。 私は調べていて「そうだったのか」とその状況が一致しました。
それはのちほど記載します。 この本が真実に思われた原因の一つは、公的な本として、市浦村の資料編になってしまったからでしょう。
公的な場所が歴史書の史料に使ってしまったことは大きな間違いでした。 今は公開していません。
これについても、各書籍の中で詳しく述べていますので、引用してここに記事にしたいと思います。 ブログ管理者「ひー」
地元、五所川原市飯詰地区の人々は・・
「実を言うと、私たちは、『外三郡誌』がここまで大きくなるとは思っていなかったのです。 甘く見ていたんですね。 他の地区の人達から”こうした疑惑があることを知っていながら、なぜ放置したのか。恥ずかしい”と言われ、返す言葉がありませんでした。その通りだからです。 飯詰に住む人たちはみんな、和田さんの家が江戸時代の文書が伝わるほど古い家柄じゃないことを知っています。 もちろん和田さんの親類もです。
私は和田さんの字を知っているので、彼の筆跡は一目見ればわかります。とても特徴がありますからね。
かなり前のことですが、和田家文書の写本と呼ばれるものを見たことがあります。 残念ながら、彼の筆跡でした。 これでは駄目だと思いました。『外三郡誌』自体も、少しの歴史の知識があれ人なら、おかしいと思う内容です。
逆にあまりにもお粗末すぎるために、だれも取り合わなかったのかも知れません。そうした面倒くさいことには関わりたくないという曖昧な姿勢が、この問題を大きくしたのかも知れません。
ねぶた師の”告発”
じつは『外三郡誌』に絡んでちょっと興味深い話があるんです。 和田家文書の一つに『東日流六郡誌絵巻』というのがありますよね。 あの中に出てくる挿絵が、ある画集からの盗用なんです。
『東日流六郡誌絵巻』に掲載されている挿絵が、昔のカラー画集の絵と酷似している。 その画集は日本史の名場面をまとめた『國史画帖大和櫻』(こくしがちょうやまとざくら)と呼ばれるもので、一九三五年に東京の省文社から出版された。
酷似しているのは、画集に掲載されている絵六十一枚のうち二十枚以上。
ねぶた製作者として知られる千葉作龍(青森市)が気付き、「盗用である」と指摘している。
千葉と言えば、青森県に住む人ならばだれでも知っている「ねぶた師」だった。
武者絵をねぶたのモチーフに使うねぶた師たちは『國史画帖』のような歴史に題材をとった画集を参考資料にするんだそうです。
偽書騒ぎが起きてから『東日流六郡誌絵巻』と見比べてみてびっくり。これはほうっておくことができない思ったらしいです。
問題の『六郡誌絵巻』とは『東日流六郡誌大要』『東日流六郡誌考察図』など和田家文書とされるもの十巻以上を一冊にまとめたもので、1986年に弘前市の出版社から発行されていた。
簡単にいえば『外三郡誌』の姉妹編のようなもの。
笑ってしまうほど真似て書いた事が素人でもわかる。私だったらもっと上手にかけますよ。
これは、一連の和田家文書が偽書だという有力な根拠になります。
こんな本を信じる価値はゼロですね。
9話では終わりそうもありません。まだ続けたいと思います。
偽書「東日流外三郡誌」の正体10
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