山王社 日吉神社
山王村の「書出」によれば、中山王にあり、社殿は九尺造りで、祭日は三月と八月の十五日、別当は当村の羽黒派修験である日吉山光禅院とある。山王の地名は当社が鎮座することによったものである。
当社には良縁と眼病の平癒が願われる。 ~多賀城市史による~
安永(あんえい)3年(1774年)の風土記御用書出によれば、いつ、誰が勧請(かんじょう)したのか不明であるが、竪27間、横21間の敷地に、一辺9尺の南向きの社があったこと、祭日は3月15日と9月15日(市史の説明では8月)であったことが記されています。
名称については、山王社、山王権現と呼ばれ、山王村の名はこの神社が鎮座していたためとも記されています。
さらに、この神社について知る手掛かりとして、明治40年(1907年)の「神社由緒調」(宮城県庁文書)があります。これには、維新前(江戸時代)は山王大権現との名称であったが、明治4年7月に日吉神社と改称し村社に列せられたこと、勧請された時代は不明であるが、国分盛重(伊達政宗の叔父)の崇敬があって多くの寄進があったこと、四代藩主伊達綱村が武運を祈るため家臣であった成田氏に命じて社殿を改築したこと、以後、成田氏の子孫が祭典当日に参詣し、その他諸藩の武士からも多少の祭典料の寄進があって、祭典が盛大に行われたことも記されています。
さて、成田氏によって改築された社殿は、明治32年(1899年)に類焼し、明治34年(1901年)6月に再建したことが「神社由緒調」には記されています。これを裏付けるように、平成26年度に実施した陸奥総社宮の建築学的調査で、日吉神社が明治34年に新築された際の棟札が発見され、そこには明治32年に社殿が類焼したことも記されていました。
明治43年(1910年)、日吉神社は政府の地方改良運動の一環で、南宮神社(南宮)、稲荷社(新田)、大日霊賣神社(高橋)、八幡神社(南宮)とともに奏社宮に合祀されましたが、村の鎮守であったことから、小社を置いてその歴史をしのぶ縁とし、今日に至っています。
この山王社と南宮神社の間に伝説があります。 その伝説は、南宮社の記事に掲載しています。
南宮神社/津波に流された女神
ホームページ多賀城
山王村の「書出」によれば、中山王にあり、社殿は九尺造りで、祭日は三月と八月の十五日、別当は当村の羽黒派修験である日吉山光禅院とある。山王の地名は当社が鎮座することによったものである。
当社には良縁と眼病の平癒が願われる。 ~多賀城市史による~
安永(あんえい)3年(1774年)の風土記御用書出によれば、いつ、誰が勧請(かんじょう)したのか不明であるが、竪27間、横21間の敷地に、一辺9尺の南向きの社があったこと、祭日は3月15日と9月15日(市史の説明では8月)であったことが記されています。
名称については、山王社、山王権現と呼ばれ、山王村の名はこの神社が鎮座していたためとも記されています。
さらに、この神社について知る手掛かりとして、明治40年(1907年)の「神社由緒調」(宮城県庁文書)があります。これには、維新前(江戸時代)は山王大権現との名称であったが、明治4年7月に日吉神社と改称し村社に列せられたこと、勧請された時代は不明であるが、国分盛重(伊達政宗の叔父)の崇敬があって多くの寄進があったこと、四代藩主伊達綱村が武運を祈るため家臣であった成田氏に命じて社殿を改築したこと、以後、成田氏の子孫が祭典当日に参詣し、その他諸藩の武士からも多少の祭典料の寄進があって、祭典が盛大に行われたことも記されています。
さて、成田氏によって改築された社殿は、明治32年(1899年)に類焼し、明治34年(1901年)6月に再建したことが「神社由緒調」には記されています。これを裏付けるように、平成26年度に実施した陸奥総社宮の建築学的調査で、日吉神社が明治34年に新築された際の棟札が発見され、そこには明治32年に社殿が類焼したことも記されていました。
明治43年(1910年)、日吉神社は政府の地方改良運動の一環で、南宮神社(南宮)、稲荷社(新田)、大日霊賣神社(高橋)、八幡神社(南宮)とともに奏社宮に合祀されましたが、村の鎮守であったことから、小社を置いてその歴史をしのぶ縁とし、今日に至っています。
この山王社と南宮神社の間に伝説があります。 その伝説は、南宮社の記事に掲載しています。
南宮神社/津波に流された女神
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色々伝説は残っているみたいですが。