以前に、伊達(だて)それとも(いだて)の記事で紹介しようと思ってましたが写真を添えた方がわかりやすいと思い敢えてこの神社の話はしませんでした。
伊達神社 (いだてじんじゃ)
加美郡色麻町四竃字二
ここを通る旅に伊達の文字と屋根の三引両の紋が気になってましたが、やっと訪れることが出来ました。
小さな神社かと思いきや・・・意外な歴史がそこにありました。
色麻町には古墳群があり、この神社じゃは直径50m、高さ6mの御山古墳という円墳の墳頂に建てられている。
埴輪(はにわ)も出土しているという。
御祭神
五十猛命(いそたける)・ 經津主命(ふつぬし)・ 武甕槌命(たけみかづち)
・ 大日靈命・ 火産靈神(ほむすび)
由緒 (あーさんから頂いた全国神社名鑑による)
坂上田村麿、蝦夷追討の際、当地に香取・鹿島の両社を勧請し社殿を建立、その後文禄二年羽黒修験に改宗。宝永年中より維新に至るまで伊達氏に崇敬篤く寄進も行なわれ、明治五年現社号に改称。
『延喜式』式内社:播磨国飾磨郡印達郷(はりまこくしかまぐんいだてきょう)の射楯神社(いだてじんじゃ)(射楯兵主神社、兵庫県姫路市)を勧請したとする説がある。江戸時代には、伊達氏を憚って「香取様」と呼ばれた。
この横には「合祀神社・熊野社、塩竈社、田村社、今熊野社、八坂社二社、小河社、田中社」と刻まれていました。
中には・・・
かなり痛んでますね。 こうなる前になんとかならなかったものですかね。
神門の前の狛犬は、かなり粗めの石ですね。 ちょっとがっかりしたのですが社殿には立派なのがありました。
参道階段
昭和七年のようですね
御神木これはかなり太かったですよ。
鐘楼 神仏分離の象徴みたいなものですね。
伊達家の三引両が・・・
今気付きました、地酒のわしが国(酔漢さんのお知り合い)
いつも長々と写真が多くご迷惑かけてます。
1話で終わらせたいのと、見ていただきたいのが理由です。
伊達神社 (いだてじんじゃ)
加美郡色麻町四竃字二
ここを通る旅に伊達の文字と屋根の三引両の紋が気になってましたが、やっと訪れることが出来ました。
小さな神社かと思いきや・・・意外な歴史がそこにありました。
色麻町には古墳群があり、この神社じゃは直径50m、高さ6mの御山古墳という円墳の墳頂に建てられている。
埴輪(はにわ)も出土しているという。
御祭神
五十猛命(いそたける)・ 經津主命(ふつぬし)・ 武甕槌命(たけみかづち)
・ 大日靈命・ 火産靈神(ほむすび)
由緒 (あーさんから頂いた全国神社名鑑による)
坂上田村麿、蝦夷追討の際、当地に香取・鹿島の両社を勧請し社殿を建立、その後文禄二年羽黒修験に改宗。宝永年中より維新に至るまで伊達氏に崇敬篤く寄進も行なわれ、明治五年現社号に改称。
『延喜式』式内社:播磨国飾磨郡印達郷(はりまこくしかまぐんいだてきょう)の射楯神社(いだてじんじゃ)(射楯兵主神社、兵庫県姫路市)を勧請したとする説がある。江戸時代には、伊達氏を憚って「香取様」と呼ばれた。
この横には「合祀神社・熊野社、塩竈社、田村社、今熊野社、八坂社二社、小河社、田中社」と刻まれていました。
中には・・・
かなり痛んでますね。 こうなる前になんとかならなかったものですかね。
神門の前の狛犬は、かなり粗めの石ですね。 ちょっとがっかりしたのですが社殿には立派なのがありました。
参道階段
昭和七年のようですね
御神木これはかなり太かったですよ。
鐘楼 神仏分離の象徴みたいなものですね。
伊達家の三引両が・・・
今気付きました、地酒のわしが国(酔漢さんのお知り合い)
いつも長々と写真が多くご迷惑かけてます。
1話で終わらせたいのと、見ていただきたいのが理由です。
道路から見ると下の境内しか見えないから、たいしたことが無いと思ってたのですが、意外でした。
奈良時代に播磨国飾磨(シカマ)郡あたりから加美郡に入植した人々が
同国伊達郷の射楯(イタテ)神社(祭神:五十猛命)を勧請したもので、
さらに延暦11年(792年)坂上田村麻呂が東征の際に香取、鹿島の両社を勧請したものだそうです。
また、神紋が三引両なのは江戸時代に伊達家が社殿その他を寄進したためのようで、
元の神紋は抱柏(カカエカシワ)だと『全国神社名鑑』に出ているそうです。
ついでに蛇足ながら、藩政時代には
色麻が訛った(?)「塩竃」がくっついて「香取塩竃神社」とも呼ばれていたとか・・・
確信しました。
伊達神社は伊達家より先にあったものだと思います。
伊達の殿様になった時、殿様と同じ名前では申し訳なく思い香取様と呼ぶようになり、その後伊達家の崇敬をいただき明治になってから元の社号伊達神社に直したのではないかと思います。
あの遊びは日本全国で行われたのですかね?
やっぱり「グリコス」でしたね。
チョキがチョコレートで、
パーがパイナップル。
でも何故か
「チヨコレート」の「パイナツプル」でしたね。
祭神や三引両の紋所を考えれば、確かに「伊達」神社ですよね。
でも確か加美郡は戦国時代は大崎領。
となると、ちょっと解せません。
松島の瑞巖寺は、再興される前は確か円福寺とかいったと思います。
神社にそのような例はないのでしょうか。
例えば伊達領になってから例の二柱を祀り、社名を変えたというような・・・
延喜式の神名帳にも「伊達神社」とあるかどうかがポイントですね。
でも建立当時から「伊達神社」だったら・・・
分らなくなってしまいます。
あの像は素人に造れる物じゃありませんからね~
つぐづく感じますよ。
かなり傷んでましたね~。
本当、なんとかならなかったのかと・・
すごく残念ですね。
今にも崩れそうな感じで可哀相です。
痛んでいる木像、痛々しいですが、首を傾げているようにも見えてしまいます。
田舎町ですがね。
どうも昔のイメージがあり色麻村のイメージが・・・
普段は、通り過ぎてしまうところ場合です。
色麻町はいろいろと歴史があって
行ってみたいですね。
狛ちゃんも立派ですし、御神木も大きい!
魅力のある町ですね。
伊達神社そのものは、意外と各地にあるようです。
伊達家に憚り、香取社と呼んだということは、伊達家の領地になる前からあったということですね。
もう少し調べれば面白いかも・・・
やっぱり、「グリコス」だっちゃね。
俺の勘違いなのかなと悩んでました。
今日帰ってきて、又明日も泊まりです。
寝ます。
H1N1に侵されたかと思いましたよ。
そうかぁ・・喜寿かぁ・・
両社を合祀したこのお社をお祭するのに相応しいのは、藤原姓の伊達家・・・っうことだっちゃねぇ~
ところで昭和40年前後の多小じゃジャンケン・・・は、ただ「グリコス」っていってたと思うよ。
中校庭の木造校舎の階段で毎日やってたおんねぇ~~♪
狛犬さん設立から、今年が喜寿のお祝いですね
紋が公方さんのと同じ (^ー^)
古墳時代は、沢山あったでしょうから・・・いずれ、この辺の領主の墓ですかね。?
古墳の主が誰であるか?
それによって
意味合いも違ってきますね (^_-)~☆
昔は、参拝の方々が沢山居たはずです。
ジャンケン・・・・
今は、もう誰も知らないと思いきや・・・
2年前、20代のカップルが
駅の階段でやっているではありませんか。
チヨコレイト・・パイナツプル
グリコなのですが、自分の頃は、グリコスと言ってたようなきがします。
横浜の人は、グリコだろうと言います。
本当は、皆何と言っていたのでしょうか?
たとえその規模が大ききなくとも、またそれほどには名前が知られていなくとも。
小さい頃は笠神の仁和多利神社が遊び場でした。
小山のてっぺんにあり周辺一帯が私の世界の全てでした。
五年ほど前帰省した際、何十年ぶりかに神社に足を運んでみました。
面影は残っていましたが、その小ささと寂れように足が動かなくなってしまいました。
伊達神社にも子供たちの歓声に包まれていた時代があったのでしょうね。
階段では「じゃんけんグリコ」で盛り上がっていたのかもしれません。
狛さんだけが知っている~てところですか・・・
行って見て驚きでした。しかし、参拝者はあまり居ないようで、寂しく感じましたね。
立派なお社なのに・・・
梵鐘ですか~ 実は、去年に羽黒山を訪れたとき立派な梵鐘で色々説明があり気になっていたところです。
年代的には、古いものが多いはず、面白い着目ですね。
名神大社とはっ!! オドロキです。
道理で 鹿島・香取の神様が鎮座されてる訳ですね。
梵鐘にも手を広げようかなと思っています。