旧宮床伊達家住宅
仙台藩一門、宮床伊達氏だが、四代藩主の綱村は父では無い、つまり養子に入ったわけだがその背景から記してゆきたい。
三代藩主である綱宗は故ありて21歳の若さで逼塞を命じられ、一生を江戸の仙台屋敷で過ごすのです。
このことを発端に始まった事件を「寛文事件」または「伊達騒動」という。これについてはHPに纏めているが、まだ書き足さなければいけないので、編集途中だが興味があればご覧ください。
http://sanpomichi114.web.fc2.com/datesoudou.html
そして、綱村は幼少でありながら家督を相続するのです。
四代綱村の正室は幕府老中稲葉美濃守正則(相州小田原城主九万五千石)の娘で、四代将軍家綱の命により綱村と婚約した。当時共に十五歳であった。二人の婚儀は四年後の延宝五年(1677)四月六日に行われている。
綱村の正室「千姫」である。
しかし・・・・・・
最初の子は長男「扇千代」だったが、僅か五歳でこの世を去る。生きていれば藩主になったことでしょう。
扇千代の二歳年下だった「栄姫」もその一年前二歳でこの世を去っている。
扇千代を失って二年後に三人目のお子を産んだ「高姫」と呼ばれた姫君である。しかしこの姫君もそれから二年後元禄二年(1689)、わずか三歳で早死した。
歴代藩主の中には一人のお子にも恵まれなかった夫人は三人いる。千姫は三人ものお子を産んだのにすべて失ったのは千姫ただ一人である。
当時の綱村は藩主としては珍しく側室は一人もいなかった。
夫人の養子として迎えられたのが伊達肥前宗房の長男であった村房である。 のちの吉村です。
父の宗房は、仙台藩二代藩主・伊達忠宗の八男で、仙台藩一門第七席・宮床伊達氏初代当主です。
つまり、三代藩主綱宗の弟にあたります。
村房は、延宝八年(1680)六月二十八日に黒川郡宮床に生まれました。元禄八年(1695)十二月二十六日、綱村の後継者となり、よく二十七日に名を藤二郎と改めます。この年二十六歳でした。
吉村が正式に仙台藩五代藩主となったのが元禄十六年(1703)八月二十五日で、翌二十六日に陸奥守に任じられた。
吉村の正夫人、冬姫。
内大臣通誠の養女であるが、実際には通誠の兄で従三位権中納言通名人道知足静斉の二女で、母は静斉の側室松向栄珠院という。
元禄十五年(1702)四月二十八日に、吉村のもとに嫁いできた。
夫人は時に十四歳、吉村は二十三歳であった。
五代藩主吉村は後世から「御中興の英主」といわれ、また徳川八代将軍からも《段々国元の仕置又は行跡等聞かされ候に、当時陸奥守程に折入吟味諸事申し付け、一分の慎等も、外にはこれ無き程》と激賞された程である。
また、《父朝臣(伊達肥前宗房)の病むや親しく之に侍し、湯薬自ら甞め。聊か近侍に委せず。其生母(片倉小十郎藤原景長の娘。阿松の方)病むや。幕府に暇を乞い国に帰て親しく其病に侍す。》というように、孝行な立派な藩主であり、吉村のやさしさが表れている。
借金で火の車だった藩の財政を立て直すなど、並の藩主ではなかった。
そして冬姫自身も、このような夫に負けない位の賢夫人であったようだ。
八代将軍吉宗は吉村を高く評価したが夫人をも「殊の外、人柄勝れ、女には珍敷」と賞揚したという。
《女にはめずらしき》と吉宗が言っているのは、<女には珍しい位、気のしっかりした>という意味で、別の言葉で言えば「芯の通った気の強い」ともいえる。
重複しますが、過去の記事にも掲載しています。
仙台藩伊達家歴代藩主の正室たち
仙台藩(伊達藩)歴代藩主の側室たち 3代~13代
HP伊達騒動
今日は3/11です、やっぱり東北は大事であり東北が復興しないで日本の復興はないと実感しています。隈さんも関わっているんですね!国立競技場も聖火台で一悶着。身体が足りないくらいのでは?と。
私も5年前の3/11も子供のインフルエンザで拘束されていて、今年もインフルエンザでしがらみもなくなり謹慎の身になりやっと伊達について詳しく知る機会になりました。
そして以前綱永井さんに綱村についてや梵天丸という幼名の付いてびっくりしたのもあり伊達さんには相当の知識があったと思っていました。伊達さんとの接点もなかったんですがいよいよと。伊達さんは私の中でこわ~い存在でもありますので。
ただ今回、切替の時期があったこと、亀の幼名や出雲と関わっていること、そしてここ最近調べたのが徳川家康の始めの奥様と長男さんの血筋がどう動いていったかなので、稲葉さんが現れる事や家康の意向がある事やまた側室がなかった事がなんとなく理解出来るように思いました。タイミングが良すぎで。
伊達さんの歴史を深く理解する事もきっと東北の復活に必要不可欠な事なのではと思いました。
また、数日前の3/8がお誕生日の亀さん、そしてそのお母様が必死になり守り続けた事ももっと昔の歴史の中にも同じようなエピソードもあり母の愛情は凄まじい物であるなあと実感しました。お家を繋ぐ事への使命感、現代にはすっかりなくなってしまってますが意識の中で先祖が必死で守っていたからこそ、婿に入ると怒るのかなあ?(綱永井さんプログに連動しちゃいました)とも。私も父の家を引継ぐために息子をと思ってましたがそれを許さない主人の関わる先祖の意向を感じており安心と思うまでは出来ないと止まっております。諦めるべきなのでしょうね。
今回の伊達さんの件でも家康さんの思惑がそれが違う方向にいってしまったのか?とも。過去の真実は所詮妄想の延長ですが、きちんと調べて研究されてされている方々がいる事、素晴らしいと思います。
吉村さんから先ももっときちんと知識を持って見て行きたいと思います。
ありがとうございました。
歴史をきちんと今の生活に活かさないといけないと思いました。3/11で亡くなった方々のためにも東北以外の方が考える日になります、伊達さんの研究はとても役に立つと思います。応援しております。4338、3966
世継ぎと件で、思い出すのは、米沢藩の上杉家です。
過去に記事を書いていますのでご覧ください。
ここは例の吉良家からも養子に来ています。ですから米沢の人は「忠臣蔵」を見ないそうです。
上杉神社:上杉鷹山公
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/6c4eab111b988326c32e36a489cf90e3
伊達家は将軍家や天子絡みで色々事件が起きているわけです。
梵天丸の件はここに書いています。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/8b3a8dae9ba05d2c513976ba2f52ec30
過去プログにも色々書きましたが、亀岡文殊堂の件でこちらからお知らせします。蔵王権現と阿弥陀三尊と馬頭観音は、父に関わる縁者です。それが共存している。また文殊堂なのに普賢と対に虚空蔵がいるような情報もありました。これも私の周りの関係で納得です。中国から獅子に乗っかり文殊さんがやってきてるのですが虚空蔵に変身しているかもしれませんね。知恵ですので。父が好きだった山寺もどうやら近いようですし、古墳もいっぱいあるようです。山形は古い歴史があるのは間違いないですね。文化、風習、そして融合。関わる方もわあ、やっぱりと思う方ばかり。本当に素晴らしい情報ありがとうございました。
1310、鎌倉時代後半?そうだ鎌倉の八幡とも間接的に関連していましたね。