雨の記号(rain symbol)

断片を知っている

 開高健の小説にキング・サーモンを釣りにいった小説がある。外国のどこか、ロシアとアラスカの間、アリューシャン列島の向こう、氷原地帯に出向いた話である。
 別にその小説について語ろうというわけではない。
 サケについてうんちくを述べるくだりで、これまでの自分はサケについて知っていたのはすべて断片である、生きているサケそのものではない、という主人公の述懐が出てくる。
 世界中を回って小説やエッセイを書いていた彼の言葉だけに興味を引かれた。
 もちろん僕も生きているサケをじかに見たことはない。テレビなどの映像を見て知っているだけである。しかし、缶詰のサケ、切り身のサケ、塩漬けのサケ等、僕の見て知っているサケは単に断片である。そこから生の感触は消えている。食卓にのぼってくる死んだサケである。そこからは腐臭さえ漂ってこない。
 小説の主人公は釣った魚をもとの清流に戻すということをやっている。しかし、海での生活を終え、川を上ってきたサケは生まれ故郷にたどり着くと、卵を生み落とし、そこであえなく生涯を閉じる、・・・と言われているが、もちろん僕はそれを確認したわけではない。海から戻ってくるのは一年後なのか二年後なのか三年後なのか、実際は百パーセント分かっているわけではないだろう。中には五年くらい海に逗留するサケがいても不思議はないところである。
 動物たちの生態についても、子供の頃、習ったのとずいぶん違ってきてしまっているではないか。
 人家に姿を見せるシカやイノシシ、サルなどは子供の頃は考えられなかった。その頃に読んだ嘘っぽい童話の世界が出現してきたみたいな不思議の状況となってきている。
 話がそれそうになってしまったが、人間というものについてもそれはあてはまりそうだ。人間について偉そうなことをいう人はいっぱいいるが、人間分かっているのは自分についてだけだとはっきり言えそうである。他者については断片的にしか分からないというのが正確なところだろう。無数の断片を集めて、それが一個の統一体になるというのは、自分という人間からたどってそう思うだけのことに過ぎないかもしれない。したがって人間は自分本位の発想しか出来ないと思える。いくら文献や資料を調べても客観性を保つのは困難である。
 一人の突出した学者によって宇宙論が変われば、すべての価値が根幹から揺らいでしまう。
 人間観察は想像力のレベルでよしとすべし。それで十分である。人間をボロボロに分解しても、そこから出てくるのはただ断片だけである。
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