見出し画像

雨の記号(rain symbol)

「朱蒙」から④朱蒙と召西奴

構想の妙


 「朱蒙」の方がドラマとして中国制作の「三国志」よりはるかに面白いと前に書いた。
 一つめは俳優の演技力が挙げられると思う。中国制作の「三国志」は俳優たちの演技がちょっと未熟に感じられた。表現がオーバーというのでもないが、映画やドラマ制作の歴史が浅いせいか、このドラマでは俳優たちのワンパターン的な演技が気になって仕方がなかった(あまりに細かい演技をすると現代性が出てきてかえってまずいのだが、要は韻を踏んだところで演技をこなす器用さがまだ足りないと感じた)。吉川英治作品を土台にした横山光輝のコミックを参考にでも置いたか、ストーリーや人物像があまりに単純で平板になり、話が奥行きを欠いたものとなって重厚なはずの戦闘シーン(シーン自体は悪くないのだが)まで軽くなったりしてしまった(レッドクリフはかなりマシになっていたが、あれは映画だし登場人物もいろいろで中国純正作品とも言えないし)。どうせ参考にするなら吉川英治作品の方であるべきだったろう。
 しかしいずれ克服され、彼らの手ですばらしい「三国志」が制作されてくるだろうが、まだ少し先のことかもしれない。その時の「三国志」は物凄い迫力となってきそうで楽しみであるが。
 二つめは朱蒙と召西奴の恋愛模様が壮大な話の全編にわたって巧みに描きこまれたことである(三国志にはこれがない。董卓と呂布に絡ませ、彼の専制を悪行扱いするための演出で女を登場させたりするが、全体の流れでは部分的なものである)。
 これがこのドラマの活力と豊穣さを生み出すことになった。「三国志」に比べ「朱蒙」の方は朱蒙と召西奴の対等とも見える恋愛模様を巧みに組み込むことで、儒教的(女性蔑視傾向→この時代は世界どこもだったろうが)ドグマを無視できない中国圏歴史ドラマに現代性(男女同権の)のパイプを無理なく与えてしまった感がある。この時代にそんなことあるはずもないが、歴史ドラマもそれを楽しむ者が現代人である以上、多数の視聴者獲得を目指す以上、彼らの期待や枷から逃れることはできない。韓国ドラマはハリウッドの影響をいい意味で受けている感がある。
 朱蒙と召西奴の恋を自由恋愛型と呼ぶなら、朱蒙とイエソヤの恋(ほとんど恋とは言えない。しかし、互いに親愛は持ち合っているようなのであえて恋の範疇にいれよう)は見合い型恋愛と呼んでいいだろう。
 自由恋愛は結ばれてしまえば、他者に伝えるべき話はハッピーエンドとして集結してしまう。したがって朱蒙と召西奴が簡単に結ばれてしまってはこの話は長続きしない。その時点で終わってしまう。その後、朱蒙がいくら領土を広げる話を展開したところで視聴者の関心は薄らいでいくだけだろう。
 ゆえにこのドラマは朱蒙と召西奴が婚姻する何十年も前から話が始まる。本来なら朱蒙が若き日に出会い、次王であるユリ王をもうける女性(ここではイエソヤになっている。どこかの貴族の娘として夫余に神女として仕えたプヨンになるとの話もあったらしい)をヒロインとするところだろう。だがこのヒロインでは、普通に立ち上げる朱蒙興国の流れとともに全編に渡って大恋愛の模様を張っていくのは難しい。早くにユリ王が生まれてしまうからだ。
 そこで召西奴にお呼びがかかったわけだ。朱蒙と召西奴を早く出会わせ、二人の恋愛と興国の苦労を平行して描いていけば、壮大なロマン活劇となっていくではないか。
 「朱蒙」が殺伐とした戦国の歴史を扱いながら、恋愛ドラマとしても視聴者を最後まで引っ張っていけたのは構想の妙にあったのだ。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「韓国ドラマ「朱蒙」」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事