雨の記号(rain symbol)

映画「痴漢男」を見た

 「痴漢男」は昨年話題となった「電車男」とほぼ同類の映画であった。
 「電車男」は酔漢に絡まれている女性を助けようとしてブザマをさらしたオタク男が、その女性への思いを成就する話だったが、これもある女子大生から「痴漢」に間違えられた男が、その女性の友達と出会って恋に落ち、やっぱり、純情一途の恋を添い遂げる話である。
 冴えないオタク男(相手はきれいで心優しい女)――純情――恋の成就という若者男女の物語は、いかにも非現実的である。だからこそ逆に、憧れに似たロマンチックでピュアな世界を現出させていた。
 若い男女の純なる愛情物語は、今や死んだといっても過言でないかもしれない。男女七歳にして席を同じゅうせず、に始まった男女の恋愛プロセスは、クラスメート、部活動、友達の妹とか従姉妹、同じ職場とか文通とか、かなり限定されたところから出発し、その後、男女交際の場は急速に広がりを見せてきた。共学校が増え、女性の社会進出や発言力アップでその勢いも借りてか、恋愛も旧来の男性主導型よりは協調型のカップルが増えてきたように思われる。
 テレビが家庭に入り込んで恋愛ドラマが登場しだした頃も、男は男、女は女というような、いわゆる、らしさ、の分別があった。しかしその定型もマンネリズムを許さぬ茶の間の絶えざる期待と願望の中で崩れていってしまった。
 めざましい経済発展とともに消費社会が現出し、モノも価値観も次々生まれては消えていくようになった。終わればまた始めればいい。恋愛もそういうサイクルでとらえられるようになった。
 ユニセックス化も進み、女形(言葉つきなども)姿で登場した男らが”女として”女たちにあたたかい心で迎えられるようになり、逆に女たちも男風な衣装や言語感覚でにぎやかに登場したりもした。
 その結果、男女は向き合うというよりは、小さな時から、となりのお友達として共に成長していきあうことになる。性の目覚めも身近に異性がいるから、おそれおののくようなショックや抵抗もないまま受け入れられる。近くにいる男の子や女の子を見てごく自然に恋をするようにもなるであろう。
 しかし、そういう恋はどういう恋かというと、多分、衝撃的ではないだろう。体中が燃え上がるような恋愛感情を呼び起こすことは少ないに違いない。その流れよりむしろ、愛情の電気は少しずつ積もっていって、気がつけばハートにいっぱいたまっていたというようなものかもしれない。いや、ハートに思いがたまらないうちお気軽にセックスも行ってしまうことになるかもしれない(その相手はごく身近にいるのだから)。
 電車男と痴漢男がどうして燃えるような思いを相手の女性に対して発生させたかというと、現代社会の持つ多様性の趣向のポケットに彼らが奥深く落ちてしまっていたからである。しかし、彼らはそこから出てくる必要は覚えていない。むしろ、その状況を心地よいものとして感じていたりするのである。
 しかしそれは若者の正常な姿ではない。年頃なのだから、異性に対してきちんと関心を持ってもらわないと困る。
 そこで世を憂える先達は考えた。
「彼らを天岩戸よろしく光の世界に引っ張り出さなければならない」
 そのための役割として女神(きれいで心優しいマドンナ)が選ばれる。なぜなら、彼女には彼らに恋の手ほどきを教える必要があるからなのだ。いや、場合によっては誘惑してでも彼らを外の世界に引っ張り出してこなければならない。
 男女七歳にして席を同じゅうせず、は後のお見合い婚を背景にすえているが、男女の幼稚園からの仲良し育ちは、彼らの将来の恋愛婚を想定している。
 そうやって穴倉に深く閉じこもり、現実の女たちの前に出ていけない男ばかりになったらこの日本の将来はどうなる。やがては、子供もいなくなって滅んでいくだけではないか。
 というようなことを製作者サイドが考えていたかどうかは分からぬが、だいたいはそのような線から生まれた純愛映画だろうと小生には思えた。
 だから物語はハッピーエンドでないと収まりがつかない。上記の映画はその通り韻を踏んでいた。
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