雨の記号(rain symbol)

視聴率は稼いだけれど

テレビドラマ「華麗なる一族」から

 キムタクはやっぱり凄い。良くも悪くも演技が軽いとか、今風過ぎるとか、とかくの批判があったりした(多分)ようだが、これだけの視聴率をたたき出してしまうのだからやっぱり凄いというほかない。
 これがキムタク主演でなしに他の誰かがやったとしたらここまでの視聴率は取れなかっただろうと思う。
 内容は正直いって古臭いものである。昭和のある時代を背景としているから仕方ない面もあるが、今日の茶の間の視聴者の感覚とはずいぶんかけ離れているように思った。キムタクを連れてこなければ、視聴率も最初はよかったにしてもどんどん下降していった可能性がある。それを押し留め、最後の視聴率アップに結びつけたのはキムタクの今風な演技(存在感?)だったと言えるかもしれない。
 キムタクという現代ヤングの象徴ブランドに導かれ、若者を中心とした茶の間の視聴者が我慢して見ているうち、いつしか古風な話の世界に馴染まされていってしまった結果と僕は見ている。それが多様の世代にうねりを引き起こし、最後の驚異的な視聴率に結びついたのであろう。
 キムタクワールドで、北大路欣也や鈴木京香、その他の俳優陣も気力のこもった演技で活き活き光り輝いていた。
 これは不思議というほかない。彼らも、茶の間世界での知名度や印象度、好感度などがグーンとアップしたことであろう。別の番組に出て目に止まったら、名前はわからなくたって、この人は確か「華麗なる一族」であの役をやってた人、という風に思い出してもらえるはずである(茶の間というところは不思議なところである。タレントの名前をろくに知らない人が多数を占めるのだ)。僕なんかが保証しても何にもならないが、間違いない。
 さて、このドラマだが、いくら昭和四十年代の話とはいえ、万俵鉄平の猟銃自殺によって収束していく流れは、繰り返すが平成時代の茶の間においては相当違和感であった。これは僕一人の意見ではなく、ほかの人の意見も加えてのものである。 
 今日、いろいろの事情で自殺していく人は年間三万人を超える。茶の間はそういうものを正視するには(たとえドラマであれ)、もっとも不向きの場所である。したがって、国民的人気を持つキムタクを起用するにあたって、この辺はずいぶん議論されたことと察する。
 そういう苦心のあとは、抑制されたラストの場面作りに感じられた。だが、主人公のこのような死をもって、すべてのわだかまりを浄化に導くような演出は甘いというほかない。
 茶の間には老若男女多様の人たちがいる。多様の人たちがここでは妥協しあっている。このドラマのラストを見て、下手をすると誰かのために自死の賛美をする人たちがここから出てきかねないと僕は感じた。
 茶の間において、このようなドラマの主人公像はとうてい受け入れがたい。単純明快にいうと、当人こそが何事にもくじけず前向きに生きていなければならない。鉄平は妻子を連れて、別の生き方へと力強く旅立って行かねばならなかった。一介の鉄の技術者でもよかったではないか。
 僕はひそかにそれを願っていた(鉄平の思いは妹夫婦の生き方に託されてはいたが)。もちろん、原作者はそれを許さなかったであろう。しかし、今の茶の間の人たちが求めたのは、それであった、と僕は確信できる。
 このラストなら茶の間のテレビでなく、観賞する人を限定する劇場公開の映画であるべきだった。
 視聴率は稼いだけれど、妥協なしのこのラストに充足した人は少ないだろう。主人公の死に泣いた人たちの涙も、半分は欲求不満と落胆の涙だったと僕は見ている。
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