雨の記号(rain symbol)

台風26号

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 この台風が歴代の大型台風と比べどれほどの爪跡を残していったかはわからない。
 だが、自分には記憶に残る台風のひとつになったのは間違いない。
 まず、職場に到着するまで(正確には数百メートル手前)に車で6時間かかった。車通勤の仕事として、行きはこの日が最長時間を記録した(帰りとしてはあの東日本大震災のあった翌日で、これ以上の時間を要した)。
 台風はたくさんの悲しいドラマの胞子を携えてやってくる。胞子は台風の渦から我々の中に注ぎ込まれ、運命の糸の中にからみつく。
 僕が家を出たのは朝の6時5分前だった。いつものように幹線道路を走った。この時間帯なら4~50分、車を追い抜いて飛ばせば40分足らずで職場には到着する。
 台風直下の中を走るならこうはいかない。強い風に横殴りの大雨となれば、視界は悪化し、前や隣を走る車のタイヤから飛沫を浴びたりする。飛沫をもろに浴びたりすれば前方は一時的に視界ゼロに陥り、本能的にブレーキを踏まざるを得なくなる。前の車も後ろの車もそうなる可能性があるから、スピードなどだせるわけがない。しかし、こんな中でもものすごいスピードを出して走る車は出現する。
 今朝もそうして走る車はあった。自分も追い越し車線の中で走ったから早く走った部類の方だろう。しかし、追い越し追い抜き、ジグザグの無茶な走り方はしなかった。

 道路は至るところで冠水していた。台風下の減速走行だから車は渋滞したが、それをさらに妨げたのは至るところで発生しだした大水だった。
 交差点のところはたいてい大水が出ていた。緩い上り下りの低い場所もそうだった。溢れた水はタイヤに踏まれると左右に飛沫をあげた。
 
 幹線道路はとある場所で全然前に進まなくなった。二車線が信号の先でぎっしり埋まり、全然動かない。車の足元は水が溢れ交差路の方へ流れていた。
 僕は左折して裏道を走ることにした。裏道を知ってるわけじゃない。
 そのつもりで左車線を走っていた。前の車が立て続けに左折していったのでそれについていった方がよいとみたのだった。しかし3台で走っていった車はそれぞれ枝分かれした。僕は二番目の車について右折したが、その車はすぐまた左折したので僕はついてゆかずまっすぐ走った。まっすぐ先は上向き道路で水があふれていないように感じたからだ。
 しかし、その道も結局左に折れて車の多い通りに出たので、それぞれさっきの車はその道に出たものと思われた。
 その道路はまっすぐ行けば姉ヶ崎の表示がされていた。よってまっすぐ走り続けたわけだが、途中、冠水場所にぶつかったらしく、車が戻ってくる。
 僕もUターンしてその車の後についた。戻る方向で左折し、最初のカーブを左折して再び姉ヶ崎方面を目指した。
 しかし、しばらく走ってひどい光景に遭遇した。どういうわけだか大型トラックがそこに走りこんできていて立ち往生していたのだ。大型トラックは転回を試みているようだったが、何だか無理そうである。そのトラックと関係あるのかないのか分からなかったが、若い男が雨の中を走ってきて前の車の者と僕に説明をしだした。
「前方は水が溢れてて行けません。引き返してください」
 僕の後ろには10台ほどの車が続いていた。前の車に続いて僕もUターンした。車は次々Uターンして僕に続いた。 
 再び振り出しに戻った車は幹線道路に向かうのとその反対に向かうのとで二手に分かれた。
 僕は幹線道路に戻ることにした。
 幹線道路はさっきよりも流れがよくなっていた。こんなに急に流れがよくなるわけがない。たぶん、片側の車線にトラブルが発生していたのだろう。結果的には迂回路でそこを抜けたのかもしれなかった。
 流れのよくなった道路をまっすぐ職場に向けて走った。車の流れは比較的スムーズになった。
 しかし、姉ヶ崎あたりから再び冠水箇所が増えだした。ところどころ僕の乗る小型車のタイヤなどはそっくり埋まりそうなところも出てきた。
 実際、冠水の中で動けなくなった車が二台あった。左側車線を走った悲劇だったのだろう。
 僕は右側の車線をとろとろと無事に走り抜けて職場に近づいた。
 この時、雨は弱まりだしていた。
 前方に立体交差の道路が見える。
 やれやれ、もう安心だ、と思ったら左側に長い車列が出来ている。これがぜんぜん動かない。10分経っても20分経っても車二台分も動かない。そこで、反対側車線から職場に入ろうと機転を利かせたつもりだったが、木更津方面に走って転回してもやっぱり車の長い列が出来ている。がっくりきたが、こっちの方が早い気がしてこっちで並び続けることにした。しかし、たかだか数百メートルほどの距離がめちゃくちゃ遠い。
 割り込みしてくる車に苛立ちを覚えたりしながら、待つこと4時間でやっと踏み切りを渡った。
 それからもとろとろ1台分ずつ動いていって、合流地点にあと少し、となった時は達成感も覚え、幸せな気分となったのだった。だが、ふと先の方を見ると長い待ち時間で上がっていった車の何台かが、車を左側に寄せて止まっている。
 僕はサイドブレーキをかけ、エンジンをかけたままにして上の道路に歩いていった。ぜんぜん車は進んでいない。話をしながら職場の方を見ている者たちに訊ねた。
「何かあったんですか?」
「見たらいいよ。一見にしかずだ」
「・・・?」

 僕は車の走る通りに出た。見てびっくりした。
 いったいお金をいくらかけたらこんなセットを用意できるだろう。まるで巨費を投じた映画の一場面みたいな光景が目の前にあったからだ。
 その場所には大冠水が発生していた。と説明しても、それだけならただの大水だが、たくさんのギャラリーがその場所に好奇の目を注いでいるわけだった。
 なぜ、そうなっているのか? 車で走ってきて目の前に大冠水があれば誰もがそれにたじろぐだろう。しかし、その先には職場がある。取引先がある。のっぴきならない用向きでやってきてる人もいるかもしれない。
 しかし、この大水では車が渡る途中にエンコするかもしれない。渡ることに恐れを抱いた者はここでギャラリーと化してしまったわけだ。 
 見ていると大冠水を前に、どの車もいったんは立ち止まる。ダメと見た車は横に逃げ、行くと決めた車は猛然と水の中へ突っ込んでいく。車は続いては行かない。前の車がかなりの場所に進むまで待っている。そうして次に続く。
 まるで高い場所から海にでもダイビングをかけるようにだ。
 こういう冠水の中を突き進むのは車の高性能、自分の度胸をためすことでもあるかもしれない。上手くいけば、一種のヒーロー気分も味わえるだろう。
 ギャラリーと化した無念な人たちの中には、家族や知り合いに電話するだけでなく、携帯でその場面を撮っている者もいた。

 冠水の前に車を出したが、3秒と考えないうち僕は右折のウインカーを出した。水にやられ、すでにブレーキは利かなくなっている。今や年代物のポンコツ車でそこを渡ろうとするなど風車に立ち向かうドンキホーテみたいなものと感じたからだった。

 この台風は”意気地なし”の自分をさらけだしたのかな?



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コメント一覧

諫早

ご訪問、ありがとう。
・・・って、友人にこんなこと書いても仕方ないですね。ご感想・・・じゃないか――ご批評ありがとう。
こんなに褒めて頂いたので、今度、安くておいしい寿司をおごります。
お返しは上等のワイン――ってことで(笑) 
万年 輝
いや-面白かった。さすがの描写。台風の小説に使える。ただ、最後の大きな潅水箇所の部分。主観が入りすぎてる。たぶん、凄すぎて、作家の描写を度返しした光景だったと推察する。この饒舌な部分を除き、主観を入れず目に入る光景のみの描写で終始すれば、十分、ソノママT文に短編として乗せられる。臨場感があり、頭で描く創作ではこうはいかないから。
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