現在TOKYO MXで最放送中のまどか☆マギカ。
9,10話が放送されたら記事を書こうと思ってたんで、
色々作品に対する思いを募らせてたわけなんだけど、とりあえずこんな感じで。
http://yaplog.jp/lucyman/archive/1804 10話 感想
http://yaplog.jp/lucyman/archive/1816 11、12話 感想
http://yaplog.jp/lucyman/archive/1875 引っかかるショット
過去記事。
まどか憎しはこの辺で既に語ったような気がするので今回はあまり触れない。
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個人的に10話で印象的だったのはこの1ショットの変化。
当時見たときはほむらの歩みの力強さと、
まどかを助けるための永久機関化、
エネルギー化したっていうのを何度も挿入される飛んでいく盾の描写に、
ほむらを載せることでそういう意味合いが付加されてるようで、
まどかの自分を助けて欲しいという魔法少女になってからの罪深い願いが、
こういう描写で描かれてるなと思ったんですが、
今見返してみると新たな発見も。
一つ目は盾が導く先とは正反対に歩いて行く姿。
盾は過去へとほむらを誘うはずが、ほむらはそれについていこうとはしていない。
それは彼女が未来へと進むための道のりを歩いているからに他ならない。
その姿にはやはりグッと来るものがある。
二つ目はほむらが魔女化したまどかを背にして歩き出すという点。
それは杏子がさやかにぶつかっていったことを踏まえるとまるで正反対。
考えてみれば彼女は魔女になったまどかを幾度となく見捨てているのである。
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大切な人とどう対自するのかというのを対比したのが9,10話なのではないかと最近思う。
杏子はさやかにぶつかっていき、対してほむらはまどかを置いて過去に戻る。
9話で杏子の作る壁はそんな2人の対比に触れているとも思える。
合理的じゃないけれども不条理に屈しない杏子。
合理的に動いても不条理に潰されるほむら。
また2人の対比は作品における魔女の立ち位置も二分するものである。
杏子は魔女を個人として扱い、その存在を肯定する。
対してほむらは魔女を絶望の総体として扱い、その存在を否定する。
ワルプルギスの夜が複数の魔女の姿で描かれていることもその一端を担っていると言える。
ほむらはまどかの魔女化をまどかの変化として受け止めず、
魔女という別の個体への変化と捉えている節がある。
10話でほむらに寄った物語も、
最終話で魔女まどかをアルティメットまどかが消し去るという展開を用意している。
10話以降、最終話付近でまどかが条件を満たしていないのにも関わらず魔女になるのは、
キュウベイの悪意=魔女がまどかを毒牙にかけたことを強調するためだろうと推測できる。
ここからは個人的な問題だが、
しかしそれは、杏子の祈りの尊さを踏みにじる行為だというところにある。
魔女になったさやかを魔女としてではなくさやかとして扱おうとした杏子を、
せせら笑う行為だとしか受け取れない。
杏子をそそのかしたのはキュウベエだということは理解している。
しかし、魔女をさやかとして扱うということを否定して欲しくはなかった。
彼女が取り戻そうとしたのは魔女の存在とキュウベエの悪意は=ではないというところにある。
魔女にも魔法少女だった元の魂があるはずであり、
魔女の存在はさやかが生きていたという証でもあったはずなのだ。
しかし10話以降で魔女の魔法少女時代を振り返るような素振りは見せず、
まどかはなぜか魔女になっており、アルティメットまどかが自らが生んだ魔女を滅ぼす。
私が嘆いても、杏子が見せた姿を肯定する要素が、この物語には存在しないのだ。
なぜか。
上にも挙げたように、ほむらの歩みは未来に向かっている。
まどかを背にしているのと同じくして盾も背にしている。
それは過去に拘らずただ前へ前へとただ歩んでいく姿だ。
10話以前、杏子の物語が踏みにじられるのも、この勇ましさのためなのだ。
未来を掴むためには、その過去を捨てないとダメなのだ。
だから10話以前は必要のない物語なのだ。
そしてまどかを助けるために魔女たちはその悲劇性、物語を奪われるのだ。
ただの悪意の塊としか認識されないのだ。
それも皆が魔女という存在にならないためなのだ。
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しかし、物語に蹂躙され、天地がひっくり返っても起こることない奇跡を願い続ける杏子の姿が、
たまらなく愛おしく、彼女の願いが成就する作品こそが私にとってのアニメだと考える。
私が求めるハッピーエンドを探して、今日も私はアニメを見る。
9,10話が放送されたら記事を書こうと思ってたんで、
色々作品に対する思いを募らせてたわけなんだけど、とりあえずこんな感じで。
http://yaplog.jp/lucyman/archive/1804 10話 感想
http://yaplog.jp/lucyman/archive/1816 11、12話 感想
http://yaplog.jp/lucyman/archive/1875 引っかかるショット
過去記事。
まどか憎しはこの辺で既に語ったような気がするので今回はあまり触れない。

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個人的に10話で印象的だったのはこの1ショットの変化。
当時見たときはほむらの歩みの力強さと、
まどかを助けるための永久機関化、
エネルギー化したっていうのを何度も挿入される飛んでいく盾の描写に、
ほむらを載せることでそういう意味合いが付加されてるようで、
まどかの自分を助けて欲しいという魔法少女になってからの罪深い願いが、
こういう描写で描かれてるなと思ったんですが、
今見返してみると新たな発見も。
一つ目は盾が導く先とは正反対に歩いて行く姿。
盾は過去へとほむらを誘うはずが、ほむらはそれについていこうとはしていない。
それは彼女が未来へと進むための道のりを歩いているからに他ならない。
その姿にはやはりグッと来るものがある。
二つ目はほむらが魔女化したまどかを背にして歩き出すという点。
それは杏子がさやかにぶつかっていったことを踏まえるとまるで正反対。
考えてみれば彼女は魔女になったまどかを幾度となく見捨てているのである。
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大切な人とどう対自するのかというのを対比したのが9,10話なのではないかと最近思う。
杏子はさやかにぶつかっていき、対してほむらはまどかを置いて過去に戻る。
9話で杏子の作る壁はそんな2人の対比に触れているとも思える。
合理的じゃないけれども不条理に屈しない杏子。
合理的に動いても不条理に潰されるほむら。
また2人の対比は作品における魔女の立ち位置も二分するものである。
杏子は魔女を個人として扱い、その存在を肯定する。
対してほむらは魔女を絶望の総体として扱い、その存在を否定する。
ワルプルギスの夜が複数の魔女の姿で描かれていることもその一端を担っていると言える。
ほむらはまどかの魔女化をまどかの変化として受け止めず、
魔女という別の個体への変化と捉えている節がある。
10話でほむらに寄った物語も、
最終話で魔女まどかをアルティメットまどかが消し去るという展開を用意している。
10話以降、最終話付近でまどかが条件を満たしていないのにも関わらず魔女になるのは、
キュウベイの悪意=魔女がまどかを毒牙にかけたことを強調するためだろうと推測できる。
ここからは個人的な問題だが、
しかしそれは、杏子の祈りの尊さを踏みにじる行為だというところにある。
魔女になったさやかを魔女としてではなくさやかとして扱おうとした杏子を、
せせら笑う行為だとしか受け取れない。
杏子をそそのかしたのはキュウベエだということは理解している。
しかし、魔女をさやかとして扱うということを否定して欲しくはなかった。
彼女が取り戻そうとしたのは魔女の存在とキュウベエの悪意は=ではないというところにある。
魔女にも魔法少女だった元の魂があるはずであり、
魔女の存在はさやかが生きていたという証でもあったはずなのだ。
しかし10話以降で魔女の魔法少女時代を振り返るような素振りは見せず、
まどかはなぜか魔女になっており、アルティメットまどかが自らが生んだ魔女を滅ぼす。
私が嘆いても、杏子が見せた姿を肯定する要素が、この物語には存在しないのだ。
なぜか。
上にも挙げたように、ほむらの歩みは未来に向かっている。
まどかを背にしているのと同じくして盾も背にしている。
それは過去に拘らずただ前へ前へとただ歩んでいく姿だ。
10話以前、杏子の物語が踏みにじられるのも、この勇ましさのためなのだ。
未来を掴むためには、その過去を捨てないとダメなのだ。
だから10話以前は必要のない物語なのだ。
そしてまどかを助けるために魔女たちはその悲劇性、物語を奪われるのだ。
ただの悪意の塊としか認識されないのだ。
それも皆が魔女という存在にならないためなのだ。
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しかし、物語に蹂躙され、天地がひっくり返っても起こることない奇跡を願い続ける杏子の姿が、
たまらなく愛おしく、彼女の願いが成就する作品こそが私にとってのアニメだと考える。
私が求めるハッピーエンドを探して、今日も私はアニメを見る。