(両国駅)
(回向院)
両国とは、何処とどこの国を指すのだろうかと先ず疑問に思う。
墨田観光協会の受付のお姉さんに聞くと、
武蔵の国と下総の国の両国と言う。
両国橋はこの両国をまたぐ橋だから両国橋ということも聴いて知った。
武蔵の国は、今の神奈川、東京、埼玉にまたがった地域、
下総の国は、東京、埼玉、千葉にまたがっており、
江戸川(利根川)より西、隅田川流域までの地域を言うそうである。
(両国橋)
(両国にある下総の名残の食堂)
両国と聞くと、思い浮かべるのが、回向院、本所松坂町の吉良邸がある忠臣蔵、
もっと近くなって、池波正太郎の小説の世界、両国の国技館と大相撲、
両国の花火と、江戸東京博物館、数えだしたらもっとあるに違いない。
(回向院の門)
(江戸東京博物館)
(両国国技館の呼び出し太鼓の櫓)
まず回向院、普通、寺院には山門がつき物であるが、
東京の都市の中にあって、近代的な門がある。
門前に、「諸宗山 回向院」参道の石碑がある。
あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、
諸宗山無縁寺回向院と言ったらしい。
ここで最初に思い出すのは、大相撲である。
日本の国技である大相撲は、
江戸時代には社会事業の資金集めの勧進相撲興行の形をとっていた。
両国の国技館が出来るまで長い間回向院相撲が行われていた。
この回向院の門をくぐると、左側に大相撲の名残りの「力塚」がある。
これは、相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものらしいが、
その後は新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、
現在も相撲と回向院とのつながりを示す象徴になっている。
(回向院門前の石碑)
(力塚)
(名力士双葉山の名がある石垣)
奥へ入っていくと、道は左に折れ、
その先の右手にねずみ小僧次郎吉の墓があります。
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、
大名屋敷から千両箱を盗み、闇夜に町人の長屋に、
お金をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は昔より盛んで、
今でも、特に合格祈願の受験生たちが後を立たないらしい。
ねずみ小僧次郎吉のお墓の前に、義士墓がある。
これは、回向院の裏門を出て、左へ行ったところが本所松坂町跡で、
ここに吉良上野介のお屋敷があり、ここへ赤穂浪士47人が、
大石蔵之助を頭にして討ち入りを果たし、
回向院で休息することにしていたのが、
寺院側では山門を開けませんでした。
その後の沙汰で全員切腹したのを悼んで立てられたものと思われる。
忠臣蔵赤穂の四十七士の本来のお墓は東京都港区の泉岳寺にある。
(ねずみ小僧次郎吉の墓)
(ねずみ小僧次郎吉の墓2)
(義士墓)
(本所松坂町の吉良邸跡)
そこで、ボクのいつもの好奇心が湧いてきて、忠臣たちが歩いた道のりを
本所松坂町跡から泉岳寺まで歩いてみたいと思った。
(つづく)
(泉岳寺中門)
(回向院)
両国とは、何処とどこの国を指すのだろうかと先ず疑問に思う。
墨田観光協会の受付のお姉さんに聞くと、
武蔵の国と下総の国の両国と言う。
両国橋はこの両国をまたぐ橋だから両国橋ということも聴いて知った。
武蔵の国は、今の神奈川、東京、埼玉にまたがった地域、
下総の国は、東京、埼玉、千葉にまたがっており、
江戸川(利根川)より西、隅田川流域までの地域を言うそうである。
(両国橋)
(両国にある下総の名残の食堂)
両国と聞くと、思い浮かべるのが、回向院、本所松坂町の吉良邸がある忠臣蔵、
もっと近くなって、池波正太郎の小説の世界、両国の国技館と大相撲、
両国の花火と、江戸東京博物館、数えだしたらもっとあるに違いない。
(回向院の門)
(江戸東京博物館)
(両国国技館の呼び出し太鼓の櫓)
まず回向院、普通、寺院には山門がつき物であるが、
東京の都市の中にあって、近代的な門がある。
門前に、「諸宗山 回向院」参道の石碑がある。
あらゆる宗派だけでなく人、動物すべての生あるものを供養するという理念から、
諸宗山無縁寺回向院と言ったらしい。
ここで最初に思い出すのは、大相撲である。
日本の国技である大相撲は、
江戸時代には社会事業の資金集めの勧進相撲興行の形をとっていた。
両国の国技館が出来るまで長い間回向院相撲が行われていた。
この回向院の門をくぐると、左側に大相撲の名残りの「力塚」がある。
これは、相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものらしいが、
その後は新弟子たちが力を授かるよう祈願する碑として、
現在も相撲と回向院とのつながりを示す象徴になっている。
(回向院門前の石碑)
(力塚)
(名力士双葉山の名がある石垣)
奥へ入っていくと、道は左に折れ、
その先の右手にねずみ小僧次郎吉の墓があります。
時代劇で義賊として活躍するねずみ小僧は、
大名屋敷から千両箱を盗み、闇夜に町人の長屋に、
お金をそっと置いて立ち去ったといわれ、その信仰は昔より盛んで、
今でも、特に合格祈願の受験生たちが後を立たないらしい。
ねずみ小僧次郎吉のお墓の前に、義士墓がある。
これは、回向院の裏門を出て、左へ行ったところが本所松坂町跡で、
ここに吉良上野介のお屋敷があり、ここへ赤穂浪士47人が、
大石蔵之助を頭にして討ち入りを果たし、
回向院で休息することにしていたのが、
寺院側では山門を開けませんでした。
その後の沙汰で全員切腹したのを悼んで立てられたものと思われる。
忠臣蔵赤穂の四十七士の本来のお墓は東京都港区の泉岳寺にある。
(ねずみ小僧次郎吉の墓)
(ねずみ小僧次郎吉の墓2)
(義士墓)
(本所松坂町の吉良邸跡)
そこで、ボクのいつもの好奇心が湧いてきて、忠臣たちが歩いた道のりを
本所松坂町跡から泉岳寺まで歩いてみたいと思った。
(つづく)
(泉岳寺中門)
現代まで何が人々をひきつけるのでしょうか?
一足先にhide-san様のブログに~
見飽きた聞き飽きた~ともなく毎年続くのは「武士の心」に
共感する人が多いのでしょうね。
大相撲も1月の正月場所から~
横綱への足がかりをつかんだ日本人力士、希勢里
期待されるところです。
昔、宿場に入ると高札場がありましたが、
その高札場に第一に掲げられた、人が守るべきもの、
「人たる者五倫の道を正しくすべき事」とある。
人の重んずべき五つの人間関係をいい、
1.父子の親
父と子の間は親愛の情で結ばれなくてはならない。
2.君臣の義
君主と臣下は互いに慈しみの心で結ばれなくてはならない。
3.夫婦の別
夫には夫の役割、妻には妻の役割があり、それぞれ異なる。
4.長幼の序
年少者は年長者を敬い、したがわなければならない。
5.朋友の信
友はたがいに信頼の情で結ばれなくてはならない。
この五輪の道をなかなか守れないのですが、
忠臣蔵は、よく艱難辛苦して守ったからなんでしょう。
12月14日の討ち入りの日にあわせて、
義士祭が行われるようです。
忠臣蔵のエピソードは、講談師の創作らしいですね。
毎年のように外国人の客人が来られたら、つれてゆきます。
冬でも暖かく、雨も関係なく、夏も涼しいですからね。
そして、安いし。
名横綱双葉山がまだ関脇時代の石碑銘を
私もデジカメを向けましたね。
最後は江戸東京博物館を観てJR両国駅から
八王子のホテルへ向かったかな。