(奥の細道【十二】文知摺石)
黒塚のある観世寺を出て、国道四号線を北上する。
途中、国道115号線を右折し文知摺橋を渡り、
文知摺観音の案内に沿って進むと、
正面に大きな「史跡 文知摺観音」の看板が見える。
道路は左へ曲がっているが、その曲がり角に駐車場はある。
(文知摺観音の看板と鐘楼)
入口の小さな橋を渡り、
左手に鐘楼、右手に芭蕉の立像を見て進むと料金所があり、
拝観料大人400円(中学生以下200円)を払うと、
「正面が芭蕉句碑、左手に文知摺石があります」と案内してくださる。
宝物館は入場料をいただきましたから無料ですが撮影禁止とのこと。
この中から見える多宝塔がいちばん美しく、
東北唯一の多宝塔遺構は、福島県指定重要文化財になっているとのこと。
およそを聞いて、中へ進む。
(松尾芭蕉の像)
(その台石)
右手の芭蕉立像の台石に、「おくのほそ道」の冒頭部分と、
(信夫の里)の項が記されている。
「二本松より右にきれて、黒塚の岩屋一見し福島に宿る。
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍(しのぶ)のさとに行。
遙か山陰の小里に石半ば土に埋もれてあり。
里の童部(わらべ)の来たりて教ける、
「昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人麦草をあらして、
この石を試み侍るを憎みて、この谷につき落とせば、
石の面下ざまにふしたり」と言う。さもあるべき事にや。
・早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」と刻まれている。
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋ねて、忍(しのぶ)のさとに行。
遙か山陰の小里に石半ば土に埋もれてあり。
里の童部(わらべ)の来たりて教ける、
「昔は此の山の上に侍りしを、往来(ゆきき)の人麦草をあらして、
この石を試み侍るを憎みて、この谷につき落とせば、
石の面下ざまにふしたり」と言う。さもあるべき事にや。
・早苗とる 手もとや昔 しのぶ摺」と刻まれている。
拝観料を払って入るとすぐ目の前の上段に、芭蕉句碑がある。
碑面には、
「早苗とる
手もとや
昔志のぶ摺」
手もとや
昔志のぶ摺」
とある。
(一段上にある芭蕉句碑)
(芭蕉句碑)
(芭蕉句碑2読めますでしょうか)
(芭蕉句碑の拓本)
その先に石の柵に囲まれて、
伝説の石 信夫文知摺り石とその手前にある石は、
忍ぶ草などを摺り付け布に写したもぢ摺石が置いてある。
(柵の中の信夫文知摺り石)
(染物用のもぢ摺り石)
伝説は、信夫文知摺保勝会によれば、
(遠い昔の貞観年中(九世紀半ば過ぎ)のこと、
陸奥の国按察使(あぜち 監察官) 源融公が、おしのびでこの辺りまで参りました。
夕暮れ近いのに道もわからず、困り果てていますと、
この里(山口村)の長者が通りかかりました。
源融公は、出迎えた長者の娘 虎女の美しさに思わず息をのみました。
虎女もまた、公の高貴さに心をうばわれました。
こうして二人の情愛は深まり、
公の滞留は一月あまりになりました。
やがて、公を迎える使いが都からやってきました。
公は始めて身分をあかし、また逢う日を約して去りました。
再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく、
「もちづり観音」に百日詣りの願をかけ、
満願となりましたが、都から何の便りもありません。
嘆き悲しんだ虎女が、ふと見ますと、「もちづり石」の面に、
慕わしい公の面影が彷彿と浮かんで見えました。
懐かしさのあまり虎女がかけよりますと、
それは一瞬にしてかきうせてしまいました。
虎女は遂に病の床にについてしまいました。
・みちのくの 忍ぶもちづり 誰ゆえに
みだれそめにし 我ならなくに
河原左大臣源融
みだれそめにし 我ならなくに
河原左大臣源融
公の歌が使いの手で寄せられたのは、ちょうどこの時でした。
もちづり石を、一名「鏡石」といわれるのも、
このためと伝えられます。)とある。
「文字摺り石」の右へ進むと河原左大臣の歌碑がある。
(河原左大臣の顔が写ったと言う信夫文知摺石)
(河原左大臣源融の歌碑)
その先左に池があり、藤が美しく咲いていた。
池を左に見て進むと、虎女と河原左大臣のお墓がある。
ずいぶん立派なもので、想い慕われ睦んだ比翼塚と言うところであろうか。
(藤が美しく咲いている池)
(藤が美しく咲いている池2)
(虎女と河原左大臣源融のお墓)
戻って、河原左大臣の歌碑の正面に、もちずり観音堂があり正岡子規の句碑がある。
・涼しさの 昔をかたれ 忍ぶずり
(もちずり観音堂31)
(子規の句碑14)
もちずり観音堂を左に下りていくと、重要文化財の安洞院多宝塔がある。
普通多宝塔といえば三重塔や五重塔が多いが、ここでは二重の塔である。
(安洞院多宝塔21)
宝物館の中には、芭蕉の真蹟「しのぶもちずり」、西郷隆盛の真蹟、
小川芋銭画「耕作図」等があるが、
何といっても、ここの休憩場から見る多宝塔が、
杉木立に囲まれとても美しく筆舌に尽くしがたい。
(宝物館:傳光閣)
(宝物館から見た多宝塔)
・人情の 積もりて池の 藤の花 hide-san
ハッピーエンドでよかったです。
源融は、旧中山道の埼玉県の鴻巣宿の箕田で生活をした、箕田源氏の基となる人、嵯峨天皇の皇子で子孫に羅生門の妖怪を退治した源雷光が居ます。(伝説ですが)
本日は、新旧役員交代呑み会です。
当時は名代が現地に派遣されたのかな?
と思いきや
源融や源護などは地方官として現地に下ったようです。
それにしても歌によせる情がみごとです。
元気に続けてくださいね。
歳を経てから応えますから、ほどほどにされますよう。
福島県の白河から先は、野蛮人が住むところみたいな印象が強いです。
関東は夕方になると大荒れのようですが今日はどんな感じかしら?
源融は嵯峨天皇の第12皇子で貞観14年(872年)には
左大臣に就任されているお方だから
奥州までお忍びで出かけることが可能だったのかしら?
信夫山といえば昔のお相撲さんを思い出しますし福島駅の先で新幹線がトンネルで抜ける山でしたね。
画像で拝見していたら鎌倉などより奥州の方が小さいけど歴史のあるお寺などが多いような感じですね。
まあ~ 鎌倉は戦乱で何度も焼けているから古い建造物は少ないかな。
この所、立派な寺院にお参りしております。
何といっても、芭蕉が選んだ名所旧跡ですから。
300年も前に既にあったと思うと、
身がしまる思いがします。
寺院は田舎へ行けば行くほど立派になりますね。
衣の染料にしていたのでしょうか?
当地でも藍染が~関心の人が多いですが
陸奥も江戸に近いほうでは人の往来も多く
江戸文化が浸透さりつつあつたのですね。
北海道の感覚では陸奥は下北や津軽が先ず連想されますが
江戸に住む人とは感覚的な違いもありますね。
江戸時代までは、白河以北は陸奥であったようですね。