都営地下鉄浅草線「戸越駅」を下車、
A1出口は、通称第二京浜(国道1号線)に面している。
右は五反田、左は馬込・川崎方面である。
(浅草線戸越駅A1出口)
表題の戸越公園は、この第二京浜を左折、
すぐ先の「戸越三丁目」の交差点をもう一度左折し、
信号を四つ目で都立大崎高校に突き当たる。
ここをさらに左折、右側に交番があり、
向こう側に「文庫の森」公園が見える。
(文庫の森公園の案内)
(文庫の森公園)
ここも元肥後熊本藩下屋敷跡の一部であるが、
目的の戸越公園は交番を右折して100mほど先に武家屋敷の門が見える。
上屋敷門は長屋門であるのに対して、
下屋敷の門は簡素な薬医門で、裏門は冠木門であった。
(戸越公園)
(戸越公園:武家屋敷の薬医門1)
(武家屋敷の薬医門左側から2)
(武家屋敷の薬医門右側から)
(武家屋敷の薬医門後ろ側から)
(裏門の冠木門)
(ここにも戸越公園とある)
薬医門をくぐると、
「薬医門」についての説明板がある。
(本公園は寛文年間(1662年)に熊本藩細川家の下屋敷の一部となって居ました。
この戸越屋敷は、江戸滝の口の上屋敷および芝白金の下屋敷とは性格が異なり、
鷹狩やきじ狩り、あるいは茶会などを行う別荘風の邸宅であったとされています。
したがって、この戸越屋敷に設けられていた武家屋敷門は、
上屋敷や芝白金の下屋敷に構築されていたと長屋門とは異なり薬医門、
冠木門等の簡素なものが中心であったと考えられます。
以上の歴史的背景をふまえ簡素で質実剛健な様式であり、
本公園にふさわしい点からこの藥医門を、
東門として冠木門を構築しました。――後略)とある。(東京荏原ライオンズクラブ寄贈)
な~んだ、昔からあった門ではなく、平成に入ってからライオンズクラブに寄付された門だった。
戸越公園は品川区の公園で説明によれば、
(本公園は寛文2年(1662)、
肥後熊本藩の分家 熊本新田藩主 細川利重が下屋敷として拝領、
寛文6年に本家の所有となり、寛文11年までに数寄屋造りの御殿や庭園からなる
戸越屋敷として整備された屋敷地の一部に当たります。
文化3年(1806)9月、石見浜田藩 松平周防守の屋敷となり、
さらに伊予松山藩 松平隠岐守の手に渡る。
明治の変革により何人かの手に渡り、明治23年(1890)三井家の所有に。
昭和7年(1932)、三井家は学校用地、公園用地として、
現在の戸越小学校、都立大崎高等学校を含む別邸部分を荏原郡荏原町に寄付。
同年10月、東京市城拡張に伴い、荏原町は東京市の一部として荏原区となり、
公園用地は東京市に移管され、昭和10年3月東京市戸越公園として開園する。
――中略――
昭和18年都政施行により東京都の管理となり、
昭和25年9月一部が都立大崎高等学校となるなど変遷を経て、
同年10月現在の公園部分が品川区に移管された。
面積約18万平方メートル、区により歴史的風情を復元させ、
武家屋敷の雰囲気をかもしだすよう再整備した。)(品川区)
約18万平方メートルの広さの中に池を中心に配置された渓谷や滝、
築山などには、大名庭園の面影が、四季折々の花や野鳥を眺めながら、
のんびりと散策できる。
終日開園。
入場無料。
藥医門の右側に白い土塀の先に、面白い生垣を見つけた。
遮蔽垣の一部であるが、
斜めから覗くと内側を見通せる特殊な竹垣である。
これを鉄砲垣と言い、
昔、戦場で横木に鉄砲を立てかけた姿になぞらえて呼んだもの。
この他、建仁寺垣、御簾垣、矢来垣、金閣寺垣、四ツ目垣、
などが園内に観られるとある。
(端正な白い土塀)
(建仁寺垣)
(鉄砲垣)
(四ツ目垣)
(四ツ目垣の広場)
(四ツ目垣のくだり階段)
薬医門を入って、四ツ目垣に沿って右に折れ、
くだり階段を降りると、
左に築山があり、池のある広場に出る。
(築山)
(池のある広場)
池に沿って右に回ると金閣寺垣で囲まれた一角があります。
楼閣「金閣」で知られる京都臨済宗 鹿苑寺で最初に作られ、
この名で呼ばれているそうです。
(池)
(金閣寺垣)
池に沿って進むと渓谷があり、その先に滝があります。
夏の陽の強い時でもあり、子供たちが日陰の渓谷で魚取りに夢中になって居ました。
子供たちの声の中を渓谷の中へ降りて行きます。
飛び石沿いに渓谷を渡り、谷間から上に昇り橋を渡って、
滝から落ちる谷の景観が自然の中に溶け込んだ気分です。
(渓谷)
(飛び石)
(頭上の橋)
(滝)
谷間から階段を上り、山に入ります。
階段の両側を囲む垣根が矢来垣です。
矢来垣は映画の中で磔獄門の時などに、
この矢来垣に囲まれ、衆人が集まって環視の中で行われる様子を見かけます。
(階段を上両側が矢来垣で囲まれる。)
矢来垣に両側を囲まれて道はどんどん昇って行きます。
林の中を登り切ると橋に出て、先ほどの池が見渡せます。
(矢来垣で挟まれて昇る道)
(矢来垣の道)
(矢来垣の山道)
(山上の橋)
(橋の上に出て見渡せる池)
(山上の林の間から見る池)
橋を渡り終えるとさらに山を登ります。
途中、光悦垣を見ることが出来ます。
光悦垣とは、江戸初期の文化人 本阿弥光悦の菩提寺である
京都鷹ヶ峰、日蓮宗光悦寺の茶室に作られていた垣根です。
(光悦垣)
さらに進んで御簾垣があります。
遮蔽垣の一つ、柱に溝を掘り、
横向きに渡した細竹と縦向きの押し縁が特徴で、
その姿が御簾(みす)に似ているところから、
御簾垣と呼ばれます。
(御簾垣)
これで回遊式庭園の戸越公園内を回り終えました。薬医門から出て、文庫の森へと出かけます。
文庫の森一帯も戸越屋敷として細川家が拝領したものの一部です。
(文庫の森の池1)
(文庫の森の池2)
(池の灯篭)
(池の菖蒲)
池の菖蒲に別れを告げ肥後熊本藩細川家下屋敷を後にしたいと思います。
A1出口は、通称第二京浜(国道1号線)に面している。
右は五反田、左は馬込・川崎方面である。
(浅草線戸越駅A1出口)
表題の戸越公園は、この第二京浜を左折、
すぐ先の「戸越三丁目」の交差点をもう一度左折し、
信号を四つ目で都立大崎高校に突き当たる。
ここをさらに左折、右側に交番があり、
向こう側に「文庫の森」公園が見える。
(文庫の森公園の案内)
(文庫の森公園)
ここも元肥後熊本藩下屋敷跡の一部であるが、
目的の戸越公園は交番を右折して100mほど先に武家屋敷の門が見える。
上屋敷門は長屋門であるのに対して、
下屋敷の門は簡素な薬医門で、裏門は冠木門であった。
(戸越公園)
(戸越公園:武家屋敷の薬医門1)
(武家屋敷の薬医門左側から2)
(武家屋敷の薬医門右側から)
(武家屋敷の薬医門後ろ側から)
(裏門の冠木門)
(ここにも戸越公園とある)
薬医門をくぐると、
「薬医門」についての説明板がある。
(本公園は寛文年間(1662年)に熊本藩細川家の下屋敷の一部となって居ました。
この戸越屋敷は、江戸滝の口の上屋敷および芝白金の下屋敷とは性格が異なり、
鷹狩やきじ狩り、あるいは茶会などを行う別荘風の邸宅であったとされています。
したがって、この戸越屋敷に設けられていた武家屋敷門は、
上屋敷や芝白金の下屋敷に構築されていたと長屋門とは異なり薬医門、
冠木門等の簡素なものが中心であったと考えられます。
以上の歴史的背景をふまえ簡素で質実剛健な様式であり、
本公園にふさわしい点からこの藥医門を、
東門として冠木門を構築しました。――後略)とある。(東京荏原ライオンズクラブ寄贈)
な~んだ、昔からあった門ではなく、平成に入ってからライオンズクラブに寄付された門だった。
戸越公園は品川区の公園で説明によれば、
(本公園は寛文2年(1662)、
肥後熊本藩の分家 熊本新田藩主 細川利重が下屋敷として拝領、
寛文6年に本家の所有となり、寛文11年までに数寄屋造りの御殿や庭園からなる
戸越屋敷として整備された屋敷地の一部に当たります。
文化3年(1806)9月、石見浜田藩 松平周防守の屋敷となり、
さらに伊予松山藩 松平隠岐守の手に渡る。
明治の変革により何人かの手に渡り、明治23年(1890)三井家の所有に。
昭和7年(1932)、三井家は学校用地、公園用地として、
現在の戸越小学校、都立大崎高等学校を含む別邸部分を荏原郡荏原町に寄付。
同年10月、東京市城拡張に伴い、荏原町は東京市の一部として荏原区となり、
公園用地は東京市に移管され、昭和10年3月東京市戸越公園として開園する。
――中略――
昭和18年都政施行により東京都の管理となり、
昭和25年9月一部が都立大崎高等学校となるなど変遷を経て、
同年10月現在の公園部分が品川区に移管された。
面積約18万平方メートル、区により歴史的風情を復元させ、
武家屋敷の雰囲気をかもしだすよう再整備した。)(品川区)
約18万平方メートルの広さの中に池を中心に配置された渓谷や滝、
築山などには、大名庭園の面影が、四季折々の花や野鳥を眺めながら、
のんびりと散策できる。
終日開園。
入場無料。
藥医門の右側に白い土塀の先に、面白い生垣を見つけた。
遮蔽垣の一部であるが、
斜めから覗くと内側を見通せる特殊な竹垣である。
これを鉄砲垣と言い、
昔、戦場で横木に鉄砲を立てかけた姿になぞらえて呼んだもの。
この他、建仁寺垣、御簾垣、矢来垣、金閣寺垣、四ツ目垣、
などが園内に観られるとある。
(端正な白い土塀)
(建仁寺垣)
(鉄砲垣)
(四ツ目垣)
(四ツ目垣の広場)
(四ツ目垣のくだり階段)
薬医門を入って、四ツ目垣に沿って右に折れ、
くだり階段を降りると、
左に築山があり、池のある広場に出る。
(築山)
(池のある広場)
池に沿って右に回ると金閣寺垣で囲まれた一角があります。
楼閣「金閣」で知られる京都臨済宗 鹿苑寺で最初に作られ、
この名で呼ばれているそうです。
(池)
(金閣寺垣)
池に沿って進むと渓谷があり、その先に滝があります。
夏の陽の強い時でもあり、子供たちが日陰の渓谷で魚取りに夢中になって居ました。
子供たちの声の中を渓谷の中へ降りて行きます。
飛び石沿いに渓谷を渡り、谷間から上に昇り橋を渡って、
滝から落ちる谷の景観が自然の中に溶け込んだ気分です。
(渓谷)
(飛び石)
(頭上の橋)
(滝)
谷間から階段を上り、山に入ります。
階段の両側を囲む垣根が矢来垣です。
矢来垣は映画の中で磔獄門の時などに、
この矢来垣に囲まれ、衆人が集まって環視の中で行われる様子を見かけます。
(階段を上両側が矢来垣で囲まれる。)
矢来垣に両側を囲まれて道はどんどん昇って行きます。
林の中を登り切ると橋に出て、先ほどの池が見渡せます。
(矢来垣で挟まれて昇る道)
(矢来垣の道)
(矢来垣の山道)
(山上の橋)
(橋の上に出て見渡せる池)
(山上の林の間から見る池)
橋を渡り終えるとさらに山を登ります。
途中、光悦垣を見ることが出来ます。
光悦垣とは、江戸初期の文化人 本阿弥光悦の菩提寺である
京都鷹ヶ峰、日蓮宗光悦寺の茶室に作られていた垣根です。
(光悦垣)
さらに進んで御簾垣があります。
遮蔽垣の一つ、柱に溝を掘り、
横向きに渡した細竹と縦向きの押し縁が特徴で、
その姿が御簾(みす)に似ているところから、
御簾垣と呼ばれます。
(御簾垣)
これで回遊式庭園の戸越公園内を回り終えました。薬医門から出て、文庫の森へと出かけます。
文庫の森一帯も戸越屋敷として細川家が拝領したものの一部です。
(文庫の森の池1)
(文庫の森の池2)
(池の灯篭)
(池の菖蒲)
池の菖蒲に別れを告げ肥後熊本藩細川家下屋敷を後にしたいと思います。
>戸越公園
大きな公園ですね。
渓谷もあり、子供達の遠足に最適ですね。
入場料無料というところがいいです。(笑)
渓谷などは、アスレチックみたいですから、こどもたちにも人気なようすです。
元肥後熊本藩下屋敷跡の一部であるとは、武家屋敷の名残りを勉強できて好いですね。垣根も、いろいろとあるものです。
武家屋敷の方は、iinaから熊本の細川家の大名屋敷をご案内します。さらに、明日に山形の武家屋敷をアップいたします。
http://blog.goo.ne.jp/iinna/e/8be8dbd1e6578f62895559ad80e211e3
熊本城の主細川家の江戸の別荘のような扱いですから、
大きなものです。
芝白金の下屋敷は、忠臣蔵で有名な泉岳寺の裏手にあり、
目白にある永青文庫も肥後熊本藩の下屋敷ですからいくつ持っていたのでしょうね。
水前寺公園は、東海道五十三次を模して造園された桃山式池泉回遊庭なのだそうです。
元内閣総理大臣の細川護熙さんのお別邸だったところで、
後に三井財閥の持ち物になり、東京市が譲り受けた後、
品川区になった時に品川区に移管されていますから、
よく手入れされています。
人口も今の3分の1以下だったとか。
広い敷地(戸越公園)ですね。
よく整備されています。
垣根の種類がたくさんあって、園内に上手く配置されているようです。
これからは垣根を見たら参考にしたいと思います。
>象潟や 雨に西施が ねぶの花
芭蕉が象潟で西施を詠んでいるとは知りませんでした。
西施は昔から中国4大美女の一人として有名だったようですね。
羨ましく感じますね。
大阪市内は大阪城ぐらいしか大きな公園が無く
長居公園や鶴見緑地も樹木が若くて
立派な緑の森に変わるのは30年ぐらい先かも?
六義園と清澄公園ぐらいしか訪れていませんが
貴兄のブログを参考にさせて頂き
この夏か秋に上京する際には
2~3箇所ぐらい訪れて見たいと考える次第。
江戸時代は各藩の重要人物を、
人質として江戸城近くに住ませていました。
それが上屋敷で、別邸として中屋敷、別荘状態のものを下屋敷として持っていました。
それも拝領の形を取っていました。
その一つ一つが大きいですね。
造園のあり方も垣根一つ一つで景色が変わって行くのは面白いですね。