故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

親離れ子離れ

2024-02-01 00:43:31 | よもやま話

海ほたるに、大きな掘削刃が展示されていました。
タイトルは、「トンネル掘っちゃった」です。
川崎と木更津をつなぐ夢道路でした。
島から都会に通ずるフェリーも橋も、
島の働き手が欲しかった都会のニーズから始まった。
行くばっかりじゃない、帰ることも可能です。


昨日のゴルフは、散々でした。
もう少しで、妻に負けそうでした。
体重が500g少なくなったことで良しとしましょう。
過日、市役所主催の「未来総合計画」の話し合いに参加してきました。
話し合いのあと、コンセプトを皆が一人ずつ発表しました。
私は、「親離れ子離れ」(今日のタイトル)とし、説明しました。

20歳で、こんな島嫌だと東京に出ました。
親離れです。
還暦を迎え再婚を機に、自分の家を出ました。
子供が引き継いでくれればよいと考えていました。
そう簡単には行きませんでした。
家族が残したゴミを捨て、傷んだ家を治し、我が家の屋根を覆う裏山の木を伐りました。
亡くなったかみさんの義兄の後見と家の解体をしました。
所謂、子離れに10年かかりました。

故郷へ帰るときは、子供を連れて帰らなければ、迷惑をかけるだけだと思っていました。
高齢の親や兄嫁を助けられるんじゃないかと、逡巡もなく故郷に帰ることにしました。
終の棲家として、島に家を買いました。
さてこれからというときに、二人とも他界されました。
恩返しの真似事もできませんでした。
実家が空き家になり、育ててくれた農地が耕作放棄地になりました。
これから10年かけて、ルーツ離れをしようと模索しています。
終の棲家に住むにつき、すべての名刺を捨て、アドレスを消去しました。

故郷故、血縁関係と地縁が残っていました。
都会に住み縁遠かった血縁関係は、自ら薄くしてしまいました。
地縁といっても、浦島太郎状態でした。
残像のような多島美が見たくて、許可をもらい耕作放棄地を再生しました。
思い出がつまった畑が荒れるのが忍びない。
近所の年寄りの要請で、困りごとの手伝いや耕作放棄地の草刈りをすることになりました。
時間持ちになって、「こんな暮らしがしたかった」と、外に出ています。
親離れする前より、地域に密着しています。
地縁・血縁ではなく、個人の資格で行っていることです。
親離れも子離れも、故郷さえも縁遠くなってできることでした。

故郷が人口減少で過疎になっています。
耕作放棄地が増えています。
害獣対策の柵がないと畑は作れません。

棘のように刺さっていた後ろめたさはいつしか消えていました。
この際、親離れも子離れも卒業したい。
地縁・血縁からも逃れたい。
故郷を終の棲家と決めた限り、一個人として生きてもよいと思うようになりました。
誰かの助けになろうとも考えない。
何事もニュートラルに判断したい。
故郷を出たものの、簡単ではなかった生きざまが後押ししてくれました。

これからの地域活性は、地縁・血縁や故郷という枠組みから離れ、
隣村とも一緒に賑やかに、世界規模で発展を捉えていきたい。
島は、エンドではない、始まりでもある。
住みたい外国人(地縁・血縁のない都会人も)がいれば、門戸を開放し、
耕作放棄地を継承していただき、穀物や野菜を作ることも可能です。
多くが暮らしていたころは仲違いもしたが、限界集落ともなれば協力せざるを得ません。
多民族国家のように、おらが村の自由を発信すればよい。
故郷(ある地域)だけが、住んでいる人だけがよくなることなんて、もうないのです。

2024年2月1日
コメント
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