海ほたるに、大きな掘削刃が展示されていました。
タイトルは、「トンネル掘っちゃった」です。
川崎と木更津をつなぐ夢道路でした。
島から都会に通ずるフェリーも橋も、
島の働き手が欲しかった都会のニーズから始まった。
行くばっかりじゃない、帰ることも可能です。
昨日のゴルフは、散々でした。
もう少しで、妻に負けそうでした。
体重が500g少なくなったことで良しとしましょう。
過日、市役所主催の「未来総合計画」の話し合いに参加してきました。
話し合いのあと、コンセプトを皆が一人ずつ発表しました。
私は、「親離れ子離れ」(今日のタイトル)とし、説明しました。
20歳で、こんな島嫌だと東京に出ました。
親離れです。
還暦を迎え再婚を機に、自分の家を出ました。
子供が引き継いでくれればよいと考えていました。
そう簡単には行きませんでした。
家族が残したゴミを捨て、傷んだ家を治し、我が家の屋根を覆う裏山の木を伐りました。
亡くなったかみさんの義兄の後見と家の解体をしました。
所謂、子離れに10年かかりました。
故郷へ帰るときは、子供を連れて帰らなければ、迷惑をかけるだけだと思っていました。
高齢の親や兄嫁を助けられるんじゃないかと、逡巡もなく故郷に帰ることにしました。
終の棲家として、島に家を買いました。
さてこれからというときに、二人とも他界されました。
恩返しの真似事もできませんでした。
実家が空き家になり、育ててくれた農地が耕作放棄地になりました。
これから10年かけて、ルーツ離れをしようと模索しています。
終の棲家に住むにつき、すべての名刺を捨て、アドレスを消去しました。
故郷故、血縁関係と地縁が残っていました。
都会に住み縁遠かった血縁関係は、自ら薄くしてしまいました。
地縁といっても、浦島太郎状態でした。
残像のような多島美が見たくて、許可をもらい耕作放棄地を再生しました。
思い出がつまった畑が荒れるのが忍びない。
近所の年寄りの要請で、困りごとの手伝いや耕作放棄地の草刈りをすることになりました。
時間持ちになって、「こんな暮らしがしたかった」と、外に出ています。
親離れする前より、地域に密着しています。
地縁・血縁ではなく、個人の資格で行っていることです。
親離れも子離れも、故郷さえも縁遠くなってできることでした。
故郷が人口減少で過疎になっています。
耕作放棄地が増えています。
害獣対策の柵がないと畑は作れません。
棘のように刺さっていた後ろめたさはいつしか消えていました。
この際、親離れも子離れも卒業したい。
地縁・血縁からも逃れたい。
故郷を終の棲家と決めた限り、一個人として生きてもよいと思うようになりました。
誰かの助けになろうとも考えない。
何事もニュートラルに判断したい。
故郷を出たものの、簡単ではなかった生きざまが後押ししてくれました。
これからの地域活性は、地縁・血縁や故郷という枠組みから離れ、
隣村とも一緒に賑やかに、世界規模で発展を捉えていきたい。
島は、エンドではない、始まりでもある。
住みたい外国人(地縁・血縁のない都会人も)がいれば、門戸を開放し、
耕作放棄地を継承していただき、穀物や野菜を作ることも可能です。
多くが暮らしていたころは仲違いもしたが、限界集落ともなれば協力せざるを得ません。
多民族国家のように、おらが村の自由を発信すればよい。
故郷(ある地域)だけが、住んでいる人だけがよくなることなんて、もうないのです。
2024年2月1日