絵のタイトルは、「古色営み」です。
国立にあった古民家です。
市から依頼された人が、囲炉裏で焚火をし藁屋根を燻していました。
北風を防ぐ雁木が5mの屏風のようでした。
土の庭から土間を覗くと、妙に落ち着きました。
郊外型からコンパクトシティー構想に変わりつつある。
東京一極集中は終わっているはずである。
広軌と狭軌で郊外路線が互いに連結し、東京は通過点となっている。
広島から見ると、埼玉、千葉、神奈川を含めて、ぜーんぶ大東京である。
宝塚に住む人も、大阪から来たという。
バブルがはじけて、赤字が膨らんで借金経営が無理だった、ダウンサイジングに気づいたが遅かった。
大手スーパーと土地デベロッパーが消えた。
貸し倒れになった銀行が続いた。
潰すと大やけどとなる、大手銀行と地方銀行に返済なしの税金が投入された。
今日のタイトルは、「ダウンサイジング」です。
子育ての時は、子供部屋を確保するために二階家が必須であった。
150m2の土地には、二階家。
60m2の土地には、法律が変わり3階建てとなる。
子が育ち、夫婦二人になったら3部屋で足りる。
独居になったら、リビング(テレビを観ながら寝る)と台所の2部屋で足りる。
施設に入れば、一部屋である。
私たちの周りの家の二階の部屋はカーテンが閉まったままである。
それなのに、私たちの暮らしはダウンサイジングに不向きである。
会社で上役を経験された方は、いつまでも中心にいたい。
不必要な交際費が年金暮らしを圧迫します。
東北大地震のあと、情報管理のためサーバーが2つ以上必要になった。
東京の他に、関西にも置いた。
サーバーを新たに設置するために、これまでの事務所をダウンサイジングすることになった。
捨てるもの(10%)、必要の可否を検討するもの(70%)、残すもの(20%)の比率であった。
「一年間使わなかった」をキーワードにし再度挑戦した。
捨てるもの(70%)、決められないもの(5%)、残すもの(25%)となった。
やればできると、大いに捨てた。
一人一つの事務机も、会社にいない日が多い営業とサービスは人数分ないフリーの机となった。
個人の持ち物は、キャリー付袖机とコンピューターだけであった。
なんの支障もなく、他部署と情報交換ができ新鮮でさえあった。
かつて勤めたエンジニアリング会社は、一年に2回部署間移動があった。
仕事によって、アメーバのごとく人が動いた。
震災後には、こんなこともあった。
卸問屋(中間ストック)は消えていて、世界中から即納で部品調達するのが主流であった。
風呂の底蓋やドアのノブが調達できず、建築工事は完工できなかった。
20%の電気節減は、震災前には業界ごとの大反対が、2か月で達成された。
コロナ以降、事務所を閉鎖し、サーバーだけを置くスペースを確保し、社員は自宅で仕事をした。
駅近しの価値が、駅から遠くても住みやすい環境を選択するようになった。
原子力発電が停止しても、太陽光発電が出現し今や日中の電気が余る時代になりつつある。
AIが発達し、大型コンピューター用の新たな発電設備が求められている。
地方創生を達成するには、インターネット用のインフラ設備(有線&無線)とサーバー基地が急務となった。
広大な中国では、電話回線(インフラ)を引くより無線の携帯電話が先に普及した。
大豆油を搾る工場が次々出来た。
搾りかす(これを得るために油を搾る)を中国の内地の農場にトラックで運ぶより効率的と船で日本へ輸出した。
家族構成に従って移り住み、必要とするものに明け渡す。
住宅事情がそんな風に変化する時代はいつ来るのか。
事情の分かる地方自治体が、ニッチの仕事を地方に落とし空き家のリニューアルをする。
美しくなった家に住みたい人が引っ越す。
あるいは、旅行者に貸し出す。
食堂もカフェも旅行案内も残ったものがやればよい。
補助金の使い道を一ひねりしたいものです。
不便でも、品不足であり高くても近くの雑貨店でものを買い、残った食堂で食べる。
そんな生活ができたらよい。
どこにも誇れるもの(景観)があり、頑張り屋がいるはずです。
ダウンサイジングは、不便さを排除し安近短を助長するものではない。
転勤や転職のたびに、泣きながら近所の付き合いを閉じた。
嫁入り道具で持ってきた3点セットのタンスを大型ごみで出した。
家族を取り巻く環境も時代と共に変化する。
オーストラリアの時給が高い(3倍以上)と、日本人の若い技能者が移り住む。
保護主義が、今もまた世界中で議論噴出である。
長い歴史の中で、人々は流れ移り、文化が混じり文明ができた。
一国だけの鎖国は到底無理なことなのに、今日の寝床と明日の飯のために賛成する。
人々よ、柔軟になり少しだけ我慢しよう。
漫画家が言ってたように、なぜ差別したり反対するのか興味を持つようになれば、
自らの至らなさ(狭さ)に気づき、新たな世界(視野)が広がる。
そして、膨張する得体のしれない欲望をダウンサイジングすることで、
人を許せるようになるはずである。
2024年11月1日
(あとがき)
まとまりのない散文になりました。
ダウンサイジングは、私たちの世代では終活ととらえられがちですが、
昔から営々と続いてきた暮らしの知恵ともいえるのではないでしょうか。
「目からうろこ」の発見がきっとあるはずだと、柔軟に考えたいと思っています。
(筆者)
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