hideyukiさんの、令和もみんなガンバってますね!笑み字も!Webにも愛と光を!

日々の楽しい話、成長の糧などを綴ります。
楽しさ、感動、知恵が学べる。
(^_^)私はとっても普通の人です。

悟りの四つの型

2018-05-19 18:14:09 | 伝統的考え方
悟りの四つの型


臨済禅師の語録である『臨済録』には、「四料揀(しりょうけん)」と呼ばれる独自の考えがある。

師、晩参(ばんさん)、衆に示して曰く、

「ある時は奪人不奪境(だつにんふだっきょう)、

ある時は奪境不奪人(だっきょうふだつにん)、

ある時は人境倶奪(にんきょうぐだつ)、

ある時は人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」。

と原文には簡単に臨済禅師の言葉が記されている。

四つの料揀(りょうけん)だが、
料ははかること、揀は選ぶこと、
四つの悟りの型といっていい。

臨済禅師の教えの1つに、
「随処(ずいしょ)に主となる」
というのがある。

どんな所でも自らの主体性を持てという意である。

主体性を実際にどうはたかせていくか、
そこに四通の型を臨済禅師は説かれたのだと受け止めている。

数学的には難しい問題である。

そもそもこの「四料揀」自体が、臨済禅師が直接解かれたものではなく、
後世につけられたという説もある。

しかしながら、ここでは、あまり難しく詮索するよりも、
お互いの人生を歩んでゆく道において、
そのよすがになるものとして学んでみたい。

あえて人間学的に学んでみようと試みる。

要は、人と境との関わりに四通があるということだ。

人とは主観であり、境とは客観である。

人は自分であり、境は外の世界だ。

お互いの生活は、この人と境との入り組みにすぎない。

自分と外の世界との関わり合いしか、ありはしない。

その自分と外の世界との関係を、臨済禅師は四つに分けられたのだ。

第一の、
「奪人不奪境(だつにんふだっきょう)」は主体を奪い、客体を奪わないという。

自分が無くなって外の世界だけになり切ることだ。

第二の、
「奪境不奪人(だっきょうふだつにん)」とは客体を奪い、主体を奪わない、
外の世界が無くなり自分だけになることだ。

この時、自分だけの天下になる。

第三の、
「人境倶奪(にんきょうぐだつ)」とは主体も客体もともに奪う。

自分も外の世界もともに無くなるのである。

第四の、
「任人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」とは、主体と客体ともに奪わない、
自分も外の世界もそれぞれがおもうがまま自由に振る舞うのである。


我々修行道場では、迷い苦しみ世界から脱しようと日夜修行に励んでいる。

毎年春になれば、大学を出たばかりの青年修行僧が、修行道場の門を叩く。
今も昔ながらの生活を守り、畑を耕し、薪わ割り、薪で煮炊きをして坐禅修行に励んでいる。

この修行の道に、四つの型を当てはめて考察してみよう。

修行道場に入門するには、まず第一の「奪人不奪境(だつにんふだっきょう)」が課せられる。
まず自分を完全に否定される。

今まで積み上げてきたつもりの自分というものを完膚なきまでに叩き壊してしまう。

入門にはに庭詰(にわづめ)といって、
玄関に二日間も頭を下げ続けることを課す。

これは今まで学んだもの、積み上げてきたものをすべて奪い取るのだ。

そして入門すれば、毎日毎日叱られ続けて、自分を完全に奪われ、無くしていく。

これが修行の大事なところで、教育でも同じことかと思われる。

初めから好きにどうぞと言っていたならば、わがままになるだけであろう。

まずは徹底して自分を否定し、修行道場なら道場の規則に、その伝統にはまり込むこと、
それこそ「奪人不奪境」であろう。


しかし、それだけで終わるのであれば、実に主体性の無い人間になってしまう。

規則通りにしか行動できなくなってしまう。

そこで次の、「奪境不奪人(だっきょうふだつにん)」がある。

私自身も道場に入門した頃に、ご指導いただいた老師から言われたことがある。

「今はまだ新入りで、座禅堂の中でも隅っこに座らされ、

毎日毎日先輩から叱られ通しであろうが、

座禅堂の座布団の上に座ったら、

たとえ隅っこで座っていても、

天下の主になったと思って座れ。

隅っこで小さくなって座ったらいけない」

と教えられて、大いに感動したことであった。

たしかに、どんな新人りであろうが、座布団にどんと座ったら、天下の主だ。


居眠りをしたら警策(けいさく)という棒で打たれるが、
しっかり座ってさえいれば、誰も指一本触れられはしない。

外の世界も、煩瑣(はんさ)な規則もない「天地の中に我一人」の世界だ。


しかしながら、そんなところにとどまっていては、
わがままな鼻持ちならぬ禅僧になってしまう。

それでは自由が効かない。

さらに12月に、臘八大摂心(ろうはつおおせつしん)という1週間を通して横にならずに座り抜く修行をする。
そこで自分も、外の世界もともに無くなったところを経験する。

臘八の摂心をやっていると、座禅堂も外の世界もありはしない、
座っている自分すら無くなってしまう、
「人境倶奪(にんきょうぐだつ)」の世界だ。

「我も無く 人もなければ 大虚空 ただ一枚の 姿なりけり」
と古人は詠っている。

この世界があるから、禅は尊い。

この人境ともに奪いきるところは、禅の修行の醍醐味であろう。

この世界があるから、禅は強い。

無に徹した者ほど強いものはない。

そして、それで終わるのではない。


最後には、「任人境倶不奪(にんきょうぐふだつ)」。

人も境ともに奪わずに活かす世界が開かれる。

修行道場で言えば、臘八の大摂心を終えれば、お風呂で背中を流し合う。

時には無礼講となって、お互い語り合って認め合う世界がある。

これがあるから、座禅堂で同じ釜の飯をいただいた者同士は、いつまでたっても、親しい間柄でいることができる。

道場の修行にはこの四料揀がきちんと具(そな)わっている。


実社会でも同じことが言えるのではないだろうか。

初めはやはり、「奪人不奪境」だろう。

自分を否定して、会社なり組織なり、その規則や習慣をひたすら身に付けねばなるまい。

初めから自分を認めて好きにするわけにはいかないであろう。

しかし、自己否定だけではいけない。

次には必ず、「奪境不奪人」であって、
大いにその人を認めて力を出させてあげることだ。


その人ならではの力を認めてあげて、引き出してあげる場を作ることが大事だろう。

否定の次は肯定である。

肯定されて終わっては、いい気になって増上慢(ぞうじょうまん)になってしまいかねない。

それでは、それ以上成長しない。

さらに、「人境倶奪」であって、
何か1つのことに打ち込んで、
自分も外の世界も一切忘れ去る世界を持つことだ。

一人山に登るのもよかろう。

広い道を汗を流して走るのもよかろう。

仕事に関係のない本を読みふけって我を忘れることもよかろう。

会社や組織のことも、自分すらも忘れる世界だ。

これがあると強くなれる。
そして最後が、「人境倶不奪」だ。


自分も生かし、会社や組織も生かしていく世界だ。

自分も心から楽しみながら、会社も栄えてゆくという理想の世界である。

要は、自己否定だけでもダメであり、
肯定するばかりでも行きづまるのだ。

臨済禅師はこの四つの型を説かれた。
四通りを自由に活用すればいい。

たとい自己を否定されて落ち込んだとしても、
今はそういう時なのだ、また肯定される時がくると思えば耐えられよう。

そして、
今は自己否定の時だ、
今は己を活かす時だ、
今は我も世界も忘れよう、
今は自分も社会もともに生かそうと、

それぞれの場に応じて自由に活動できれば、
もっと道を楽しんでゆけるであろう。

四料揀に学ぶものは大きい。


(「致知」六月号 横田南嶺さんより)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿