🚢🚢奇跡の大航海🚢🚢②
神戸を出発した陽明丸🚢は、ウラジオストックに向けて出発🍀しました。
1920年7月、子供たちや教職員を乗せた陽明丸は、中継地であるサンフランシスコ🇺🇸に向けて太平洋を東へ➡️と進みます。
最初に立ち寄ったのは、室蘭🌸でした。
室蘭の小学校🏫で両国の子供たちが交流する写真📷が現存🌟していますが、
ビザも何も持たない難民が、なぜ敵対国だった日本🇯🇵に上陸して楽しく交流🔄できたのか。
これもまた大航海の謎👽の1つです。
8月1日には、サンフランシスコに到着し、
その後、パナマ運河を経由🌸して、
8月28日にニューヨーク🇺🇸の港に碇(いかり)を下ろします。
ワシントン🏤のアメリカ赤十字本社🏥から、厄介な報せ🎵が、無線電話で陽明丸にに届いたのは、そういう時でした。☀️
「陽明丸は、直接ペトログラード方面には向かわず、当分の間、フランス🇫🇷に停泊する」
というのです。
フランス🇫🇷に向かおうとしたのは、子供たちの親たち👪が、既にフランスに脱出💨したという情報📡を赤十字🏥が得て✊いたためですが
(後に、それはごく少数と判明🌟)、
陽明丸🚢に乗っていたロシア人🇷🇺教師たちは、これに強く✊反対💢します。
フランス🇫🇷は、ロシアの敵国ポーランドを軍事💣支援🌸している国で、
子供たちが人質😵となることを懸念したからです。
結局、最終目的地🌟はフランスではなく、
ペトログラードにほど近いフィンランドのコイビスト港🚢に決定🌟しました。
ところが、
フランスで燃料🔥を補給🌸し、フィンランドに向かう陽明丸🚢は、
ここで最大🗻の試練⚡️に直面します。
バルト海🌊は北海🌊と同様、第一次世界大戦中💣、連合国海軍とドイツ海軍が激戦💢を繰り広げた海で、
おびただしい数の、機雷💣が敷設されていたのです。
800人の子供たちを乗せた大型船🚢が、危険⚠️極まりない海域を無事🌟に抜けることができるか否かは、
ひとえに、茅原船長🍀の指揮👆能力🌸いかんにかかっていました。
バルト海🌊航海に臨むにあたって、茅原船長🍀は、
まず、機雷💣の実態🌸に詳しい地元の熟練🔧のパイロット(水先案内人)を探し出し👀て、協力🌸を求め🙏ました。
茅原船長🍀や水先案内人🌸をはじめとする船員👮たちは、
24時間🕛態勢💢で目👀を皿のように凝らし、
全神経⚡️を水面に集中🌀させながら、ゆっくりと船🚢を進め、
約1週間をかけて、
無事🌸コイビスト港に投錨⚓️するのです。
この辺りのいきさつは、茅原氏の手記📝には詳しく記されていませんが、
心身ともに極限⚡️状態🌸を強いられる持久戦✊だったことは、想像に難くありません。😊🎵
茅原氏は、このような卓越した能力🌸の持ち主🌟でありながら、
一方では、とても優しく💕あったかい♨️人柄だったことが、彼の手記📝からは窺い知る🌟ことができます。
例えば、ウラジオストックからの船出の部分は、以下のようです。
「大陸 露西亜(ロシア)に生まれて露西亜に育った小児達👦👧だ。
はじめて海🚢に出た嬉しさ💕と珍しさに、歓喜💕🎵を上げて騒ぎ回って喜んで居た。😊🎵
嬉しい💕のか、騒げ、薄幸の小児達!
せめてこれが、幸福🌸への、航路の旅であることを祈りたいぞ!」
この茅原船長🍀の言葉のように、
戦争💣や飢餓😵を経験し、死💀の恐怖😱に怯え続けた子供たちにとって、
陽明丸での3ヶ月の大航海🚢は、文字通り幸福💕な楽園🌸だったようです。
赤十字🏥の潤沢な資金💰によって船内には食べ物🍴🍕や衣料👕がふんだんに積み込まれていたのですからそれだけでも別世界🌁でした。😊
彼らが帰国後に、ずっと隠し持っていた数々の写真📷からは、船上生活🌸の喜び💕が伝わってくるようです。
当時、茅原船長🍀は35歳。
子供たちにとっては、頼もしい父親🍀であり、兄🍀のような存在🌟であったに違いありません。😊🎵
陽明丸🚢の偉業🌸については、この100年間、誰にも語られることがありませんでした。😊🎵
時は日露戦争💢のすぐ後であり、
加えてロシアが社会主義🌸となったことで、
日本🇯🇵では、静かに葬られて💀しまったのです。
すべては、心💓ある日本人🇯🇵とアメリカ🇺🇸赤十字🏥の間で秘密㊙️裏に決行✊された大救出🌸作戦⚡️でした。
陽明丸🚢に関する文献が希少な理由🍀はそこにあります。
もちろん、陽明丸🚢に関わった主要人物🌸が自分の足跡👣を残すことを潔し✨としなかったこともまた、
貴重な史料🌸が少ない😵一因であることは間違い⚡️ありません。
例えば、勝田船主👑は俊敏⚡️かつ短気。
侠客🔪の親分🌸のような毅然とした潔さ⚡️の持ち主☀️でした。
恵まれない社会的弱者😵には、慈父👨のように接し、救助の手✋を差し伸べました。
陽明丸🚢に限らず、教育事業🍀や国民のための社会事業🌸には
巨額の寄付💰も躊躇せず、度々行っています。
その一方で国際主義💚、平和主義❤️の信奉者💕でもありました。
勝田船主の評伝🎵に目をとおすと、
お金💰は天下の回りもの🔄であり、あの世😇まで持っていけるものではないこと、
儲かったお金💰は、すべて吐き出し💨
人々の喜び💕のために使ってこそ意義🌟があること、
自分は終始一貫そのような態度🌸で船会社🏢の経営に当たってきたこと
などが、繰り返し🔄綴られて📝います。
その言葉🍀の如く、勝田船主👑は不景気の煽り😵を受けて船会社が倒産💢、
広大な敷地の邸宅が没収💫されも、
そんな憂いなど、どこ吹く風☁️☁️といった様子🌸で、
小さな一軒家🏠を建てて、晩年まで暮らすのです。😊🎵
地位👑や名誉🌸、財産💰に恬淡(てんたん)として生き抜いた⚡️その人生🍀は、
好んで揮毫(きごう)した、
「敬天愛人(天を敬い人を愛す)」
という言葉🍀に、何よりも象徴🌟されているようにも思います。😊☀️
あるいは青山学院🏫の大学時代に学んだキリスト教✨思想の影響🌝があったのでしょうか。😊
多大なリスク🚨を背負い✊ながらも、
勝田船主👑や茅原船長🍀を、
この救援🌸の大航海に駆り立てた🔥ものは、何だったのでしょうか。☁️
難民😵となった子供たちを、何とかして救わなくてはならない✊という使命感💓、責任感🍀はもちろん大きかったはずです。
しかし、私は人間の欲望💓の中で最後まで残るとされる生への執着✊、
それさえも捨て切った⚡️凄まじい🔥までの、🌟覚悟🌟ではなかったと思えてなりません。😊✊
それは戦争💣で常に死💀と直面🌟し続けてきた男たち👨👴だからこそ、培われていった強さ✊、潔さ✨だったのでしょう。😊💕
彼らの共通🌟して併せ持つ
「義侠心💓(ぎきょうしん)」は、
今回のテーマでも「利他に生きる🍀」こととも重なり合う⏬ものです。
先述のとおり、陽明丸🚢については、まだまだ多くの謎👽が残されたままです。
私はこれだけの大航海🚢を実行に移す上では、別の有力者👑がいたのではないかと見ていますが、
そのことを含めて研究テーマ📝には事欠きません。
陽明丸🚢の真実🍀を突き詰めていくことともに、
100年ぶりに明らか☀️になった誇るべき日本人🇯🇵の偉業🌸、彼らの利他の生き方🍀について、
これからも、語り継ぎ🎵ついていきたいと思っています。😊🎵
(おしまい)
(「致知」5月号 北室南苑さんより)
名もなき、偉大🌸な先人たちが、日本には、たくさんいたのですね。😍💓
神戸を出発した陽明丸🚢は、ウラジオストックに向けて出発🍀しました。
1920年7月、子供たちや教職員を乗せた陽明丸は、中継地であるサンフランシスコ🇺🇸に向けて太平洋を東へ➡️と進みます。
最初に立ち寄ったのは、室蘭🌸でした。
室蘭の小学校🏫で両国の子供たちが交流する写真📷が現存🌟していますが、
ビザも何も持たない難民が、なぜ敵対国だった日本🇯🇵に上陸して楽しく交流🔄できたのか。
これもまた大航海の謎👽の1つです。
8月1日には、サンフランシスコに到着し、
その後、パナマ運河を経由🌸して、
8月28日にニューヨーク🇺🇸の港に碇(いかり)を下ろします。
ワシントン🏤のアメリカ赤十字本社🏥から、厄介な報せ🎵が、無線電話で陽明丸にに届いたのは、そういう時でした。☀️
「陽明丸は、直接ペトログラード方面には向かわず、当分の間、フランス🇫🇷に停泊する」
というのです。
フランス🇫🇷に向かおうとしたのは、子供たちの親たち👪が、既にフランスに脱出💨したという情報📡を赤十字🏥が得て✊いたためですが
(後に、それはごく少数と判明🌟)、
陽明丸🚢に乗っていたロシア人🇷🇺教師たちは、これに強く✊反対💢します。
フランス🇫🇷は、ロシアの敵国ポーランドを軍事💣支援🌸している国で、
子供たちが人質😵となることを懸念したからです。
結局、最終目的地🌟はフランスではなく、
ペトログラードにほど近いフィンランドのコイビスト港🚢に決定🌟しました。
ところが、
フランスで燃料🔥を補給🌸し、フィンランドに向かう陽明丸🚢は、
ここで最大🗻の試練⚡️に直面します。
バルト海🌊は北海🌊と同様、第一次世界大戦中💣、連合国海軍とドイツ海軍が激戦💢を繰り広げた海で、
おびただしい数の、機雷💣が敷設されていたのです。
800人の子供たちを乗せた大型船🚢が、危険⚠️極まりない海域を無事🌟に抜けることができるか否かは、
ひとえに、茅原船長🍀の指揮👆能力🌸いかんにかかっていました。
バルト海🌊航海に臨むにあたって、茅原船長🍀は、
まず、機雷💣の実態🌸に詳しい地元の熟練🔧のパイロット(水先案内人)を探し出し👀て、協力🌸を求め🙏ました。
茅原船長🍀や水先案内人🌸をはじめとする船員👮たちは、
24時間🕛態勢💢で目👀を皿のように凝らし、
全神経⚡️を水面に集中🌀させながら、ゆっくりと船🚢を進め、
約1週間をかけて、
無事🌸コイビスト港に投錨⚓️するのです。
この辺りのいきさつは、茅原氏の手記📝には詳しく記されていませんが、
心身ともに極限⚡️状態🌸を強いられる持久戦✊だったことは、想像に難くありません。😊🎵
茅原氏は、このような卓越した能力🌸の持ち主🌟でありながら、
一方では、とても優しく💕あったかい♨️人柄だったことが、彼の手記📝からは窺い知る🌟ことができます。
例えば、ウラジオストックからの船出の部分は、以下のようです。
「大陸 露西亜(ロシア)に生まれて露西亜に育った小児達👦👧だ。
はじめて海🚢に出た嬉しさ💕と珍しさに、歓喜💕🎵を上げて騒ぎ回って喜んで居た。😊🎵
嬉しい💕のか、騒げ、薄幸の小児達!
せめてこれが、幸福🌸への、航路の旅であることを祈りたいぞ!」
この茅原船長🍀の言葉のように、
戦争💣や飢餓😵を経験し、死💀の恐怖😱に怯え続けた子供たちにとって、
陽明丸での3ヶ月の大航海🚢は、文字通り幸福💕な楽園🌸だったようです。
赤十字🏥の潤沢な資金💰によって船内には食べ物🍴🍕や衣料👕がふんだんに積み込まれていたのですからそれだけでも別世界🌁でした。😊
彼らが帰国後に、ずっと隠し持っていた数々の写真📷からは、船上生活🌸の喜び💕が伝わってくるようです。
当時、茅原船長🍀は35歳。
子供たちにとっては、頼もしい父親🍀であり、兄🍀のような存在🌟であったに違いありません。😊🎵
陽明丸🚢の偉業🌸については、この100年間、誰にも語られることがありませんでした。😊🎵
時は日露戦争💢のすぐ後であり、
加えてロシアが社会主義🌸となったことで、
日本🇯🇵では、静かに葬られて💀しまったのです。
すべては、心💓ある日本人🇯🇵とアメリカ🇺🇸赤十字🏥の間で秘密㊙️裏に決行✊された大救出🌸作戦⚡️でした。
陽明丸🚢に関する文献が希少な理由🍀はそこにあります。
もちろん、陽明丸🚢に関わった主要人物🌸が自分の足跡👣を残すことを潔し✨としなかったこともまた、
貴重な史料🌸が少ない😵一因であることは間違い⚡️ありません。
例えば、勝田船主👑は俊敏⚡️かつ短気。
侠客🔪の親分🌸のような毅然とした潔さ⚡️の持ち主☀️でした。
恵まれない社会的弱者😵には、慈父👨のように接し、救助の手✋を差し伸べました。
陽明丸🚢に限らず、教育事業🍀や国民のための社会事業🌸には
巨額の寄付💰も躊躇せず、度々行っています。
その一方で国際主義💚、平和主義❤️の信奉者💕でもありました。
勝田船主の評伝🎵に目をとおすと、
お金💰は天下の回りもの🔄であり、あの世😇まで持っていけるものではないこと、
儲かったお金💰は、すべて吐き出し💨
人々の喜び💕のために使ってこそ意義🌟があること、
自分は終始一貫そのような態度🌸で船会社🏢の経営に当たってきたこと
などが、繰り返し🔄綴られて📝います。
その言葉🍀の如く、勝田船主👑は不景気の煽り😵を受けて船会社が倒産💢、
広大な敷地の邸宅が没収💫されも、
そんな憂いなど、どこ吹く風☁️☁️といった様子🌸で、
小さな一軒家🏠を建てて、晩年まで暮らすのです。😊🎵
地位👑や名誉🌸、財産💰に恬淡(てんたん)として生き抜いた⚡️その人生🍀は、
好んで揮毫(きごう)した、
「敬天愛人(天を敬い人を愛す)」
という言葉🍀に、何よりも象徴🌟されているようにも思います。😊☀️
あるいは青山学院🏫の大学時代に学んだキリスト教✨思想の影響🌝があったのでしょうか。😊
多大なリスク🚨を背負い✊ながらも、
勝田船主👑や茅原船長🍀を、
この救援🌸の大航海に駆り立てた🔥ものは、何だったのでしょうか。☁️
難民😵となった子供たちを、何とかして救わなくてはならない✊という使命感💓、責任感🍀はもちろん大きかったはずです。
しかし、私は人間の欲望💓の中で最後まで残るとされる生への執着✊、
それさえも捨て切った⚡️凄まじい🔥までの、🌟覚悟🌟ではなかったと思えてなりません。😊✊
それは戦争💣で常に死💀と直面🌟し続けてきた男たち👨👴だからこそ、培われていった強さ✊、潔さ✨だったのでしょう。😊💕
彼らの共通🌟して併せ持つ
「義侠心💓(ぎきょうしん)」は、
今回のテーマでも「利他に生きる🍀」こととも重なり合う⏬ものです。
先述のとおり、陽明丸🚢については、まだまだ多くの謎👽が残されたままです。
私はこれだけの大航海🚢を実行に移す上では、別の有力者👑がいたのではないかと見ていますが、
そのことを含めて研究テーマ📝には事欠きません。
陽明丸🚢の真実🍀を突き詰めていくことともに、
100年ぶりに明らか☀️になった誇るべき日本人🇯🇵の偉業🌸、彼らの利他の生き方🍀について、
これからも、語り継ぎ🎵ついていきたいと思っています。😊🎵
(おしまい)
(「致知」5月号 北室南苑さんより)
名もなき、偉大🌸な先人たちが、日本には、たくさんいたのですね。😍💓
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