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ニーハオ餃子①

2018-01-10 09:58:09 | 色んないい物を勝手に応援!
你好餃子①


(パリッとして肉汁たっぷりの「羽根つき餃子」は広く愛されていますが、八木さんはその生みの親だと聞きます)

🔹八木、40年ほど前、自己流で餃子を研究していた時に、薄皮をつける大連の焼きまんじゅうを思い出して、水溶きの小麦粉を少しかけて焼いてみたんです。

自分でも納得できる味と形ができて、お世話になった人に振る舞ったところ、大変喜んでいただきましたね。

これがきっかけとなって你好(ニーハオ)を開店することになりました。

今年で33年になります。

(いろんなところに出展されているようですね)

🔹八木、東京に12店舗あります。

100人ほどのスタッフが働いてくれていますが、餃子はすべて蒲田にある本店でつくっているんです。

なぜかというと、どの店に行っても同じ味の餃子を食べてほしいから。

嬉しいことに、「まずい」「味が違う」と文句を言ってくるお客様は1人もいません。

朝6時半に店に行って、その日お店で出す餃子を仕込むのが、私の1番の仕事です。

多いときには1万個をつくりますから、50キロの小麦粉を捏ねて皮を作り、

具は重さが100kgぐらいになります。

仕込みが終わるのが10時半くらいかな。

それを創業以来、私が1人でやってきました。

誰にも任せない。

(33年間、毎日ご自身で仕込みを続けてこられた)

🔹八木、私は83歳になりますが、これまで休んだ日は1日もありません。

他の人に仕込みをやらせると味つけが変わってくるから、いくら忙しくても手を抜かない。

それに、おいしい餃子をつくるにはいい材料が欠かせません。

肉はひき肉ではなくブロックを買って、自分たちで2時間くらいかけて挽きます。

野菜も機械ではなく自分たちの手で刻みます。

いろいろなやり方を試してきて、おいしい餃子をつくるにはこれが1番だと納得できたんです。


(八木さんは戦前の中国にお生まれになり、戦争や文化大革命など激動の時代を生き抜いてこられていますね)

🔹八木、私のお父さんは日露戦争で日本から中国に渡りました。

戦争が終わっても中国に残って商売を続け、儲けた金で旅順に食堂を開きました。

その頃、中国人の女性と知り合って結婚し、1934年に長男の私が生まれたんです。

ところが、42年頃になると、戦争でお米やお酒が配給になり、売るものがなくなってしまった。

内モンゴルでホテルを経営していたお父さんの友人から

「内モンゴルには食堂もないし、営業してくれないか」

と声がかかり、お父さんに続いてお母さんと私たち兄弟も行くことになりました。

そこで4年ほど生活したわけですが、戦争が終わる頃になると、夜、銃声が絶えないんだね。

兵士や市民の死体が街の大通りにたくさん転がっている。

お父さんから

「ここにいては危ないから、先に旅順に帰りなさい」

と言われ、お母さんは子供たちを連れて1週間かけて旅順に帰りました。

お父さんは長男の私に

「もし自分が死んだり、旅順に帰ることができなくなったりしたら、あとのことはお前に頼む。

お母さんを支えて生きていってほしい」

と言って家族を見送ってくれました。

いま考えると、お母さんは本当に偉い。

食べ物もないのに、11歳から1歳までの子供4人を連れて満員の汽車を何度も乗り継ぎ、2,000キロもの道程を移動したのだから。

旅順の駅に着いた途端、へたへたとホームに座り込んでしまったお母さんの姿を、今もはっきりと覚えておりますね。

(まさに命がけの旅でしたね)

🔹八木、幸いだったのは旅順の店がそのまま残っていたことです。

内モンゴルを発つ時、お父さんは5人にそれぞれ5万円の貯金通帳渡してくれました。

お前は今のお金に計算すると5000万円くらいの金額でしょうか。

だけど、終戦の間際で銀行に行ってもそのお金が下ろせない。

わずかな生活費だけで生きていく毎日が始まりました。


(戦後の混乱生をどのようにして過ごされましたか)

🔹八木、私たちはお父さんの帰りを待ちました。

待っても待っても待っても何の連絡もこない。

周りの中国の人たちも親切に励ましてくださいましたが、生活は苦しくなるばかりでしたね。

お母さんは掃除の仕事をしながら、大切な着物や指輪を市場に行って少しずつ売るんです。

確か1つの指輪が、とうもろこしのパン2つと同じ値段でしたね。

私は長男ですから、生きるために働かなくてはいけません。

石炭ガラの山からコークス状になったものを拾い、市場に持っていくと多いときには二角(一角は現在の1.5円程度)で売れました。

そのお金でピーナツや飴を買ってソ連軍のいるところで売り、ヘレバ(黒パン)を買って弟たちに食べさせました。

ゴミ捨て場に行くとじゃがいもの皮やキャベツの葉、パンの耳などが捨ててあったので、

それを持ち帰って大豆の搾りかすと一緒に家族で食べたりもしました。

だけど、それだけでは十分な栄養は摂れません。

弟のおなかは大きく膨らんで、動くこともできなくなりました。

ほんとに、可哀想でね。

それで私は14歳の頃かな。

お母さんも栄養失調で倒れたんです。

(お母様までが)

🔹八木、ある時、黄(こう)というお金持ちの農家のおばあさんが15キロほどのトウモロコシを持ってやってきて、

「このトウモロコシで子供2人を引き取りたい」と言いました。

黄おばあさんには子供はなく、わが家の窮状を誰かから聞いたのでしょうね。

だけど、お母さんは泣きながらそれを断りましたよ。

「生活がどんなに苦しくても、私たちは、いつも一緒です。

死ぬことになったら、皆で死にます」

って。

黄おばさんは、トウモロコシを置いて黙って帰ってきました。

それからしばらくした頃、親戚の人の紹介でお母さんは再婚しました。

お父さんとは全く連絡が取れなかったから、もう死んでしまったと諦めていたんですね。

その頃から、少しずつだけど生活が楽になり、弟たちを学校にいかせてあげることもできるようになりました。


(八木さんは、その後どのような生活を)

🔹八木、養父が来たといっても私が働かなくては食べてはいけなかったので、苦しいのは相変わらずでしたね。

16歳になってからは土木作業員として建築会社に勤め始めました。

1日中汗水流して働いても、カビが生えたような腐りかけたトウモロコシ1キロと、わずかなお金しかもらえない。

家族ことに気づかれないように布団の中で泣いたこともあります。

18歳の時にはテーブルや椅子、タンスをつくる大工の仕事を始めました。

親方に認めてもらいたい一心で一所懸命に働き、しばらくすると私の腕は先輩方を追い越すくらいまでになりました。

その頃の私のあだ名は「夜鬼」、仕事の鬼ですね(笑)。

大工になって3年目には、20人ぐらいのグループを任せられる組長になったんです。

旅順で大工としての腕を磨いた後、私は大連にある第二建築公司に転職し、建築現場で働くようになりました。

大連市から3年連続、労働優秀青年の表彰を受け、現場監督としての働きぶりは皆の手本でもありましたが、

その頃から中国全土に文化大革命の嵐が吹き荒れ始めていました。

(文革では数多くの中国人が血の犠牲になり、反日感情も一気に高まったと言われていますね)

🔹八木、おっしゃる通り、この政治闘争は多くの国民を巻き込み、絶望へと追いやりました。

私たちの家族は皆中国人としての名前を持っていましたが、父親が日本人であることは知られていました。

紅衛兵が家の中にまで踏み込んできて日本との関わりを示すような物を見つけたりしたら大変です。

大事にしていたたくさんの写真を燃やしました。

お父さんからもらった貯金通帳も、日本語で書いてあって危険なので燃やしました。

2万人がいる私の公司でも、

「劉承雄(八木氏の中国語名)は日本のスパイだ」

と書かれた壁新聞がたくさん貼り出されました。

自分は日本国籍である事は明らかあって明かしたことはありませんが、私の昇進をねたむ人たちがいつの間にか調べあげたのでしょうね。

そうなると、私を吊るし上げる討論会が開かれて、

「歴史的反革命分子」として拷問や強制労働などに追いやられるはずですが、

そうは、ならなかった。

(どうしてですか)

🔹八木、工場長が最後まで私をかばい続けてくれたんです。

「劉は走資派(資本主義に走る考え方)ではない。

模範労働者だ。産毛1本触ってはいけない」

と言って皆を説得してくれました。

そのことがあったからか、私に対して

「あいつは日本人だから敵だ」

という声は出なくなりました。


(八木さんの真面目な働きぶりが文学の嵐から命を守ってくれたのでしょうね)

🔹八木、だいたい、現場監督は50代、60代にならないとやれない仕事なのですが、

私はまだ30代で現場監督になり、他の労働者と比べて2倍位の賃金をもらっていました。

生活は安定し少し貯金もできるようになって、

本当ならこの仕事をずっと続けていたかったのですが、

それがまさか本籍がある日本に帰ることになるとは思ってもみませんでした。


(つづく)

(「致知」2月号 ニーハオ食品 八木功さんより)

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