你好餃子②
(帰国のいきさつについてお話しください)
🔹八木、まだ文革の頃でしたが、死んだと思っていたお父さんから突然手紙が来たんです。
(生きていらした)
🔹八木、はい。日本に帰ってきて東京に住んでいました。
終戦後、内モンゴルにいたお父さんは戦後の大混乱で旅順の家族のもとに行くこともできず、
他の避難民と合流しながら命からがら日本に引き上げ、故郷の松山に帰り着いていました。
私たちとの再会を心から待ちわびながら、どうすることもできずにいたようです。
いろいろなコネを頼っても家族の消息はつかめず、最後に中国にパイプのある日本の国会議員をとおして首相の周恩来に直接お願いしたんです。
本当なら日本からの手紙は徹底的に調べ上げて厳しく検閲されるのですが、
周恩来の計らいというので特別に私たちに届けられたのでしょう。
お父さんの日本語の手紙を翻訳してもらうと、
そこには自分は元気で生活していることや、
早く一緒に暮らしたいといったことが書かれてありました。
それを聞いてお母さんも私も泣きましたよ。
その後、お父さんからは何通も何通も帰国を促す手紙が届きました。
(それで帰国を決断される)
🔹八木、いいえ、なかなか決断はできませんよ。
年も若くないし、日本語は完全に忘れていました。
それに、人以上の給料をもらっていたので、日本に来てまたゼロから始めようという気にならなかったんです。
ところがお父さんだけではなく、周りの人からも次々に
「帰ってこい」と手紙が届く(笑)。
私は「じゃぁ、1時帰国ということにして、1年したらまた中国に戻ろう」と考えて、
女房を中国に残したまま、子供たちだけを連れて日本に帰りました。
私は45歳の時です。
(久々に再会したお父さまの印象はいかがでしたか)
🔹八木、髪は真っ白で背中は丸くなって、すっかり年を取っていましたね。
さすがに涙をこらえきれず、
成田空港ではお互いに抱き合って、大きな声で泣きました。
それから一緒に生活する中で、お父さんはいつも、
「自分は老い先短い。30年以上も離れて暮らしたのだから、中国には帰らないで欲しい。
奥さんも呼んで一緒に暮らせばいいじゃないか」
と強く私を説得しました。
日本での生活に不安でいっぱいでしたが、
私はお父さんの思いを断ることはできませんでしたね。
(永住することにされた)
🔹八木、はい。3ヶ月後には女房を日本に呼び寄せていました。
江戸川区のアパートに住んで生活保護を受けながら生活し、葛西小学校の日本語学校に通いました。
少しずつ会話ができるようになったら、小松川第二中学校の夜間学校に通って勉強しました。
…、で、私がなぜ店を開くようになったのかという話なのですが、
学校の先生方が私たち家族を心配してよく遊びに来てくださっていたんです。
その時、私がご馳走するのは中国で覚えた水餃子でした。
「おいしい、おいしい」と言って食べてくださるのが本当に嬉しかった。
日本に来るまでにない餃子をつくろうと女房と2人で研究して考えたのが、先ほどお話しした「羽根つき餃子」ですね。
そのうち先生が、
「八木さん、小さい料理店でもいいから出しなさい」
と、アルバイトをしながら調理師の免許を取ることを勧めてくださったんです。
恵比寿にある中華料理学校で調理師の資格を取り
「もう自信があります。やります」
と報告すると、先生方は地元の有力者など37名を集めて学校の調理室で私のための会を開いてくださった。
いろいろな料理をつくって振る舞ってていた時、
先生が突然
「皆さん、これから八木さんが店を開きます。
でもお金がない。
協力していただけませんか」
と。
皆さんから一斉に
「やりましょう、やりましょう」
という声が上がって、ありがたいことに370万円のカンパを寄せてくださり、
それを運転資金として蒲田に你好をオープンしたんです。
(你好は地元の皆さんの協力によってできたお店なのですね)
🔹八木、そのとおりです。カンパして下さった皆さんが、いろいろな人に声を掛けてくださったのでしょうね。
オープン初日から長い行列ができました。
自慢の「羽根つき餃子」はたちまち評判になって、
遠くからわざわざ足を運んでくださる方が日に日に増えていったんです。
時には雨の中、1時間くらい外で立って待ってくださっている。
これは気の毒でね。
お客を持たせるのが申し訳ない、来たらすぐに温かい料理を食べていただきたいという思いもあって一軒一軒新しい店を増やしていったんです。
(お客様の視点に立った経営を心掛けていらっしゃる)
🔹八木、でも、新しい店を作っても閉めてしまったことがあります。
なぜ閉めたのか。
支店を任せていたスタッフが私の言うことを聞かずに儲けることばかり考えていたんです。
「設けるという考え方は絶対に失敗するから駄目だ」
と言ったけれども、「はいはい」というばかりで全く耳を貸そうとしない。
私はお客様からよく
「你好の材料は量が多いですね」
と言われます。
もう少し減らしてもいい、と言う人もいますが、絶対に減らさない。
戦争が終わって食べるものがなかった時代を思い出すと、お客様にはたくさん食べていただきたいというのが私の正直な思いです。
うちは高級料理店ではないから値段も安い。
「安くておいしい料理をたくさん食べられるから、また来ます」
と言ってお客さんは喜んで帰られます。
你好が繁盛してる理由はそこにあると思っているんです。
家賃が高い都心の店は別として、「羽根つき餃子 六個 300円」という値段設定は33年前の開店当初から今も同じです。
(それは八木さんの1つのこだわりなのですか)
🔹八木、私が餃子の値段を上げようとしないのは、皆さんに応援していただいてこの店ができた。
そのことを絶対に忘れてはいけないという思いがあるからです。
見てください。
この店内には最初にカンパをしてくださった76名の名前を記した額が掲げられているでしょう。
実は開店時から売り上げは伸びていたので、いただいたお金は1年半で全て返そうとしたんです。
だけど
「八木さんを応援するためにお金を集めたのに、なんで返すの」
と逆に怒られちゃった(笑)。
これには涙が出るくらい感動しました。
そのお金で内装を新しくしたのですが、皆さんの愛情を思うと値段を上げる気にはなりません。
(「儲けはいけない」というお言葉には、恩を忘れてはいけないという意味も込められているのですね)
🔹八木、そのとおりです。33年間を振り返ると、いろいろなことがありました。
店を開店した当時、日本語がまだ上手くしゃべれないためにお客様から思わぬ苦情が寄せられることがありましたし、
店舗の賃貸問題で私を追い出そうとした人もいました。
妻から「もう店をやめて中国に帰ろう」と相談を受けたこともあります。
しかし、その度にいろいろな方々に助けていただきながら、
餃子という小さな食べ物で自分の道を歩いてくることができたんです。
(八木さんの人生は、苦しいことや悲しいことをチャンスに変えていく活機応変の言葉そのものの人生でしたね)
🔹八木、私にはなかなか難しい言葉ですが(笑)、
お世話になった人たちや亡くなった両親への感謝の気持ちが人生を変えていく力を持っていることは確かですね。
私の激動の時代を生き延びてこられたのも、そういう思いがあったからかもしれません。
(おわり)
(「致知」2月号 ニーハ食品 八木功さんより)
(帰国のいきさつについてお話しください)
🔹八木、まだ文革の頃でしたが、死んだと思っていたお父さんから突然手紙が来たんです。
(生きていらした)
🔹八木、はい。日本に帰ってきて東京に住んでいました。
終戦後、内モンゴルにいたお父さんは戦後の大混乱で旅順の家族のもとに行くこともできず、
他の避難民と合流しながら命からがら日本に引き上げ、故郷の松山に帰り着いていました。
私たちとの再会を心から待ちわびながら、どうすることもできずにいたようです。
いろいろなコネを頼っても家族の消息はつかめず、最後に中国にパイプのある日本の国会議員をとおして首相の周恩来に直接お願いしたんです。
本当なら日本からの手紙は徹底的に調べ上げて厳しく検閲されるのですが、
周恩来の計らいというので特別に私たちに届けられたのでしょう。
お父さんの日本語の手紙を翻訳してもらうと、
そこには自分は元気で生活していることや、
早く一緒に暮らしたいといったことが書かれてありました。
それを聞いてお母さんも私も泣きましたよ。
その後、お父さんからは何通も何通も帰国を促す手紙が届きました。
(それで帰国を決断される)
🔹八木、いいえ、なかなか決断はできませんよ。
年も若くないし、日本語は完全に忘れていました。
それに、人以上の給料をもらっていたので、日本に来てまたゼロから始めようという気にならなかったんです。
ところがお父さんだけではなく、周りの人からも次々に
「帰ってこい」と手紙が届く(笑)。
私は「じゃぁ、1時帰国ということにして、1年したらまた中国に戻ろう」と考えて、
女房を中国に残したまま、子供たちだけを連れて日本に帰りました。
私は45歳の時です。
(久々に再会したお父さまの印象はいかがでしたか)
🔹八木、髪は真っ白で背中は丸くなって、すっかり年を取っていましたね。
さすがに涙をこらえきれず、
成田空港ではお互いに抱き合って、大きな声で泣きました。
それから一緒に生活する中で、お父さんはいつも、
「自分は老い先短い。30年以上も離れて暮らしたのだから、中国には帰らないで欲しい。
奥さんも呼んで一緒に暮らせばいいじゃないか」
と強く私を説得しました。
日本での生活に不安でいっぱいでしたが、
私はお父さんの思いを断ることはできませんでしたね。
(永住することにされた)
🔹八木、はい。3ヶ月後には女房を日本に呼び寄せていました。
江戸川区のアパートに住んで生活保護を受けながら生活し、葛西小学校の日本語学校に通いました。
少しずつ会話ができるようになったら、小松川第二中学校の夜間学校に通って勉強しました。
…、で、私がなぜ店を開くようになったのかという話なのですが、
学校の先生方が私たち家族を心配してよく遊びに来てくださっていたんです。
その時、私がご馳走するのは中国で覚えた水餃子でした。
「おいしい、おいしい」と言って食べてくださるのが本当に嬉しかった。
日本に来るまでにない餃子をつくろうと女房と2人で研究して考えたのが、先ほどお話しした「羽根つき餃子」ですね。
そのうち先生が、
「八木さん、小さい料理店でもいいから出しなさい」
と、アルバイトをしながら調理師の免許を取ることを勧めてくださったんです。
恵比寿にある中華料理学校で調理師の資格を取り
「もう自信があります。やります」
と報告すると、先生方は地元の有力者など37名を集めて学校の調理室で私のための会を開いてくださった。
いろいろな料理をつくって振る舞ってていた時、
先生が突然
「皆さん、これから八木さんが店を開きます。
でもお金がない。
協力していただけませんか」
と。
皆さんから一斉に
「やりましょう、やりましょう」
という声が上がって、ありがたいことに370万円のカンパを寄せてくださり、
それを運転資金として蒲田に你好をオープンしたんです。
(你好は地元の皆さんの協力によってできたお店なのですね)
🔹八木、そのとおりです。カンパして下さった皆さんが、いろいろな人に声を掛けてくださったのでしょうね。
オープン初日から長い行列ができました。
自慢の「羽根つき餃子」はたちまち評判になって、
遠くからわざわざ足を運んでくださる方が日に日に増えていったんです。
時には雨の中、1時間くらい外で立って待ってくださっている。
これは気の毒でね。
お客を持たせるのが申し訳ない、来たらすぐに温かい料理を食べていただきたいという思いもあって一軒一軒新しい店を増やしていったんです。
(お客様の視点に立った経営を心掛けていらっしゃる)
🔹八木、でも、新しい店を作っても閉めてしまったことがあります。
なぜ閉めたのか。
支店を任せていたスタッフが私の言うことを聞かずに儲けることばかり考えていたんです。
「設けるという考え方は絶対に失敗するから駄目だ」
と言ったけれども、「はいはい」というばかりで全く耳を貸そうとしない。
私はお客様からよく
「你好の材料は量が多いですね」
と言われます。
もう少し減らしてもいい、と言う人もいますが、絶対に減らさない。
戦争が終わって食べるものがなかった時代を思い出すと、お客様にはたくさん食べていただきたいというのが私の正直な思いです。
うちは高級料理店ではないから値段も安い。
「安くておいしい料理をたくさん食べられるから、また来ます」
と言ってお客さんは喜んで帰られます。
你好が繁盛してる理由はそこにあると思っているんです。
家賃が高い都心の店は別として、「羽根つき餃子 六個 300円」という値段設定は33年前の開店当初から今も同じです。
(それは八木さんの1つのこだわりなのですか)
🔹八木、私が餃子の値段を上げようとしないのは、皆さんに応援していただいてこの店ができた。
そのことを絶対に忘れてはいけないという思いがあるからです。
見てください。
この店内には最初にカンパをしてくださった76名の名前を記した額が掲げられているでしょう。
実は開店時から売り上げは伸びていたので、いただいたお金は1年半で全て返そうとしたんです。
だけど
「八木さんを応援するためにお金を集めたのに、なんで返すの」
と逆に怒られちゃった(笑)。
これには涙が出るくらい感動しました。
そのお金で内装を新しくしたのですが、皆さんの愛情を思うと値段を上げる気にはなりません。
(「儲けはいけない」というお言葉には、恩を忘れてはいけないという意味も込められているのですね)
🔹八木、そのとおりです。33年間を振り返ると、いろいろなことがありました。
店を開店した当時、日本語がまだ上手くしゃべれないためにお客様から思わぬ苦情が寄せられることがありましたし、
店舗の賃貸問題で私を追い出そうとした人もいました。
妻から「もう店をやめて中国に帰ろう」と相談を受けたこともあります。
しかし、その度にいろいろな方々に助けていただきながら、
餃子という小さな食べ物で自分の道を歩いてくることができたんです。
(八木さんの人生は、苦しいことや悲しいことをチャンスに変えていく活機応変の言葉そのものの人生でしたね)
🔹八木、私にはなかなか難しい言葉ですが(笑)、
お世話になった人たちや亡くなった両親への感謝の気持ちが人生を変えていく力を持っていることは確かですね。
私の激動の時代を生き延びてこられたのも、そういう思いがあったからかもしれません。
(おわり)
(「致知」2月号 ニーハ食品 八木功さんより)
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