🌄夜明け🌄①
私は家族の誰よりも早く起きた。
鳥よりも、夜が明けるよりも早く。
コーヒーを飲み、トーストをガツガツと食べ、短パンとスエットを身に着け、緑のランニングシューズのひもを結ぶ。
そして裏口の扉からそっと出て行く。
足、膝裏の腱、腰をストレッチし、うーっと声を上げてから、
霧が立ち込めひんやりした道へとようやく踏み出す。
一歩踏み出すのは、なぜいつもこう大変なのだろうか。
車も人も動物の気配もない。
私はただ1人だ。
世界に自分1人しかいないような感覚。
立ち並ぶ木々だけが私に気づいているかのようだ。
ここはオレゴン。
木々はずっと何もかもお見通しで、いつも陰ながら支えてくれているかのようだ。
何と美しいのだろうと、周囲を見回した。
穏やかで緑に恵まれた静かな場所。
オレゴンが故郷であることを誇りに思う。
ポートランドは自分が生まれたところだと胸を張って言える。
だが一末の後ろめたさもある。
美しい場所ではあるが、オレゴンでは何も大きな出来事が起きたためしがない、あるいは起こりそうもないと思われがちだから。
オレゴンの人間が世間に誇れるものがあるとするなら、それはこの地に至るまで切り開いてきた古い、古い街道だ。
だがその後、劇的なことは今に至るまで何も起こっていない。
これまで出会った中で最高の先生、素晴らしい男性の1人が、その街道のことを何かにつけて語っていた。
それは私たちが受け継いだものだと、先生は力説していた。
それは私たちの特性、宿命、DNAであると。
「臆病者が何かを始めたためしはなく、
弱者は途中で息絶え、残ったのは私たちだけだ」
と彼は言うのだった。
私たち。
開拓者精神を受け継いだ一部の者だけが、その道の途中で見出されると先生は信じていた。
悲劇的な考えを寄せ付けず、可能性を強く信じる者だけが生き残る。
そしてその血筋を受け継ぎ、残していくのは私たちオレゴン人の仕事だと。
私はうなずいて話を聞き、そんな先生を心から尊敬していた。
大好きな先生だった。
だが実際歩きながら、こう考える時もある。
何だ、ただの土埃にまみれた道じゃないかと。
霧の立ち込めたその日の朝、忘れもしない1962年のことだが、この頃私は自分の道を歩き出していた。
7年間留守にしていた故郷に戻ったのだ。
私は久しぶりの故郷に違和感を覚え、いつもの雨に打たれても、その感覚はぬぐえない。
それ以上に違和感を覚えたのは、両親や双子の妹たちと再び一緒に暮らし、子どもの頃のベッドで寝ることだった。
真夜中にベットで仰向けになると、目に入ってくるのは大学の教科書、トロフィー、陸上競技で勝ち取ったブルーリボンだ。
これが私なのか、そして今も?
私は走るスピードを上げた。
吐く息は白い輪を描いて霧の中に消えてゆく。
体が目を覚まして、頭の中がはっきりしてくる素晴らしい瞬間を味わった。
肋骨や関節がやっと緩み出し、固体から液体になるように体が溶け始める瞬間だ。
もっと速くと、自分に言い聞かせた。
もっと速く。
履歴書上では、私は一人前の大人のようだ。
オレゴン大学という一流大学を卒業。
スタンフォード大学というビジネススクールの最高峰でMBA(経営学修士号)を取得した。
フォート・ルイスとフォート・ユーティスというアメリカ陸軍の軍用施設でも1年間鍛えられた。
そこで兵士としての知力と技能を身に付けたと評価された。
24歳にして十分に…。
それなのになぜ私は自分をまだ子供だと思うのだろうか。
しかも、自分の中では内気で青白くやせっぽちの子どものままだ。
それは何も経験してこなかったからかもしれない。
特に縁がなかったのは心を駆り立て胸を踊らせるような経験だ。
タバコを吸ったこともなければ、ドラックを試したこともない。
メールに昔から背いたこともなく、まして法律を破ったことなどない。
1960年代という反抗の時代を迎えながら、私はアメリカで反抗を知らないただ1人の若者だった。
羽目を外し、周囲の期待に背いたことをやってやろうなどとは考えもしなかった。
女の子とつきあったことすらなかった。
私が経験しなかったものあれこれ考えると、その理由はごく単純だった。
経験せずともそれがどんなものなのか、自分が1番よく知っていたのだ。
一方で自分が何者で誰なのか、あるいはどのような人間となっていくのかを、口に出して言うのは難しかった。
友人たちと同じように成功を望んでいたのは確かだ。
ただ彼らと違って、成功とはどうどんなものかわからなかった。
金? そうかもしれない。
妻? 子供? 家? もちろん、運が良ければの話だ。
これらを目指すように尻を叩かれ、なんとなく目指してはいた。
だが心の奥深くでは別の何か、もっと大きなものを目指していた。
思っている以上に時間は短く、人生は朝のランニングのように束の間であることを、私は痛切に感じていた。
だからこそ自分の時間を意義あるものにしたかった。
目的のあるもの、創造的で、重要なものに。
そして何より…、人とは違ったものに。
私は世界に足跡を残したかった。
私は勝ちたかった。
いや、そうじゃない。
とにかく負けたくなかったのだ。
そして閃いた。
私の若き心臓は脈打ち始め、ピンクの肺は鳥の翼のように膨れ上がった。
木々が緑に染まるのを見ながら、私は自分の人生もスポーツのようでありたいと思った。
そう、それだ。
まさにピッタリの言葉だ。
幸せのカギは、美や真実の本質は、あるいは私たちが知るべきあらゆることは、ボールが宙に舞う瞬間にあるのではないかと以前から思っていた。
2人のボクサーがゴングの鳴るのを感じる瞬間、
ランナーがゴールにせまり観客が一体となって盛り上がる瞬間だ。
その胸躍る0.5秒の中に何もかもがくっきりと浮かび上がり、勝敗が決まる。
それが何であれ、こうした人生を送ることを、日々そんなことを望んでいた。
偉大な作家、偉大なジャーナリスト、偉大な政治家に憧れていたこともあった。
だが究極の夢は偉大な陸上選手になることだった。
残念ながら、いい選手にはなれても、偉大とまではいかなかった。
オレゴン大学のトラックを走り、3、4年の間は頭角を現した時期もあったが、そこまでだった。
24歳になって私はやっとその事実を受け入れた。
1マイルを6分ペースで走り続け、昇る太陽が松の葉の先端まで照らし出した時、私は自問した。
アスリートになれなくても、アスリートと同じような気分を感じる方法はないだろうか。
仕事ではなく、常にスポーツをプレイする気分を味わう方法はないだろうか。
あるいは、それに近い気分を味わえるほど仕事を楽しむ方法はないだろうか。
世界は戦争や苦痛、貧困に溢れていて、単調な毎日は心身を消耗させ、不公平なことばかりだ。
そんな中でのただ1つの解決策は、けた外れに大きくてあり得ない夢、
追い求める価値があり、自分に見合った楽しい夢を見つけて、アスリートのように一心にそれを追い求めることだ。
好もうと好むまいと、人生はゲームだ。
その事実を否定しプレーを拒む者は、脇に取り残されるだけだ。
そうはなりたくない。
それだけは絶対に避けたい。
(つづく)
(「SHOE DOG」フィル・ナイト著 大田黒奉之訳より)
私は家族の誰よりも早く起きた。
鳥よりも、夜が明けるよりも早く。
コーヒーを飲み、トーストをガツガツと食べ、短パンとスエットを身に着け、緑のランニングシューズのひもを結ぶ。
そして裏口の扉からそっと出て行く。
足、膝裏の腱、腰をストレッチし、うーっと声を上げてから、
霧が立ち込めひんやりした道へとようやく踏み出す。
一歩踏み出すのは、なぜいつもこう大変なのだろうか。
車も人も動物の気配もない。
私はただ1人だ。
世界に自分1人しかいないような感覚。
立ち並ぶ木々だけが私に気づいているかのようだ。
ここはオレゴン。
木々はずっと何もかもお見通しで、いつも陰ながら支えてくれているかのようだ。
何と美しいのだろうと、周囲を見回した。
穏やかで緑に恵まれた静かな場所。
オレゴンが故郷であることを誇りに思う。
ポートランドは自分が生まれたところだと胸を張って言える。
だが一末の後ろめたさもある。
美しい場所ではあるが、オレゴンでは何も大きな出来事が起きたためしがない、あるいは起こりそうもないと思われがちだから。
オレゴンの人間が世間に誇れるものがあるとするなら、それはこの地に至るまで切り開いてきた古い、古い街道だ。
だがその後、劇的なことは今に至るまで何も起こっていない。
これまで出会った中で最高の先生、素晴らしい男性の1人が、その街道のことを何かにつけて語っていた。
それは私たちが受け継いだものだと、先生は力説していた。
それは私たちの特性、宿命、DNAであると。
「臆病者が何かを始めたためしはなく、
弱者は途中で息絶え、残ったのは私たちだけだ」
と彼は言うのだった。
私たち。
開拓者精神を受け継いだ一部の者だけが、その道の途中で見出されると先生は信じていた。
悲劇的な考えを寄せ付けず、可能性を強く信じる者だけが生き残る。
そしてその血筋を受け継ぎ、残していくのは私たちオレゴン人の仕事だと。
私はうなずいて話を聞き、そんな先生を心から尊敬していた。
大好きな先生だった。
だが実際歩きながら、こう考える時もある。
何だ、ただの土埃にまみれた道じゃないかと。
霧の立ち込めたその日の朝、忘れもしない1962年のことだが、この頃私は自分の道を歩き出していた。
7年間留守にしていた故郷に戻ったのだ。
私は久しぶりの故郷に違和感を覚え、いつもの雨に打たれても、その感覚はぬぐえない。
それ以上に違和感を覚えたのは、両親や双子の妹たちと再び一緒に暮らし、子どもの頃のベッドで寝ることだった。
真夜中にベットで仰向けになると、目に入ってくるのは大学の教科書、トロフィー、陸上競技で勝ち取ったブルーリボンだ。
これが私なのか、そして今も?
私は走るスピードを上げた。
吐く息は白い輪を描いて霧の中に消えてゆく。
体が目を覚まして、頭の中がはっきりしてくる素晴らしい瞬間を味わった。
肋骨や関節がやっと緩み出し、固体から液体になるように体が溶け始める瞬間だ。
もっと速くと、自分に言い聞かせた。
もっと速く。
履歴書上では、私は一人前の大人のようだ。
オレゴン大学という一流大学を卒業。
スタンフォード大学というビジネススクールの最高峰でMBA(経営学修士号)を取得した。
フォート・ルイスとフォート・ユーティスというアメリカ陸軍の軍用施設でも1年間鍛えられた。
そこで兵士としての知力と技能を身に付けたと評価された。
24歳にして十分に…。
それなのになぜ私は自分をまだ子供だと思うのだろうか。
しかも、自分の中では内気で青白くやせっぽちの子どものままだ。
それは何も経験してこなかったからかもしれない。
特に縁がなかったのは心を駆り立て胸を踊らせるような経験だ。
タバコを吸ったこともなければ、ドラックを試したこともない。
メールに昔から背いたこともなく、まして法律を破ったことなどない。
1960年代という反抗の時代を迎えながら、私はアメリカで反抗を知らないただ1人の若者だった。
羽目を外し、周囲の期待に背いたことをやってやろうなどとは考えもしなかった。
女の子とつきあったことすらなかった。
私が経験しなかったものあれこれ考えると、その理由はごく単純だった。
経験せずともそれがどんなものなのか、自分が1番よく知っていたのだ。
一方で自分が何者で誰なのか、あるいはどのような人間となっていくのかを、口に出して言うのは難しかった。
友人たちと同じように成功を望んでいたのは確かだ。
ただ彼らと違って、成功とはどうどんなものかわからなかった。
金? そうかもしれない。
妻? 子供? 家? もちろん、運が良ければの話だ。
これらを目指すように尻を叩かれ、なんとなく目指してはいた。
だが心の奥深くでは別の何か、もっと大きなものを目指していた。
思っている以上に時間は短く、人生は朝のランニングのように束の間であることを、私は痛切に感じていた。
だからこそ自分の時間を意義あるものにしたかった。
目的のあるもの、創造的で、重要なものに。
そして何より…、人とは違ったものに。
私は世界に足跡を残したかった。
私は勝ちたかった。
いや、そうじゃない。
とにかく負けたくなかったのだ。
そして閃いた。
私の若き心臓は脈打ち始め、ピンクの肺は鳥の翼のように膨れ上がった。
木々が緑に染まるのを見ながら、私は自分の人生もスポーツのようでありたいと思った。
そう、それだ。
まさにピッタリの言葉だ。
幸せのカギは、美や真実の本質は、あるいは私たちが知るべきあらゆることは、ボールが宙に舞う瞬間にあるのではないかと以前から思っていた。
2人のボクサーがゴングの鳴るのを感じる瞬間、
ランナーがゴールにせまり観客が一体となって盛り上がる瞬間だ。
その胸躍る0.5秒の中に何もかもがくっきりと浮かび上がり、勝敗が決まる。
それが何であれ、こうした人生を送ることを、日々そんなことを望んでいた。
偉大な作家、偉大なジャーナリスト、偉大な政治家に憧れていたこともあった。
だが究極の夢は偉大な陸上選手になることだった。
残念ながら、いい選手にはなれても、偉大とまではいかなかった。
オレゴン大学のトラックを走り、3、4年の間は頭角を現した時期もあったが、そこまでだった。
24歳になって私はやっとその事実を受け入れた。
1マイルを6分ペースで走り続け、昇る太陽が松の葉の先端まで照らし出した時、私は自問した。
アスリートになれなくても、アスリートと同じような気分を感じる方法はないだろうか。
仕事ではなく、常にスポーツをプレイする気分を味わう方法はないだろうか。
あるいは、それに近い気分を味わえるほど仕事を楽しむ方法はないだろうか。
世界は戦争や苦痛、貧困に溢れていて、単調な毎日は心身を消耗させ、不公平なことばかりだ。
そんな中でのただ1つの解決策は、けた外れに大きくてあり得ない夢、
追い求める価値があり、自分に見合った楽しい夢を見つけて、アスリートのように一心にそれを追い求めることだ。
好もうと好むまいと、人生はゲームだ。
その事実を否定しプレーを拒む者は、脇に取り残されるだけだ。
そうはなりたくない。
それだけは絶対に避けたい。
(つづく)
(「SHOE DOG」フィル・ナイト著 大田黒奉之訳より)
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