🌄夜明け🌄②
そう考えるうちに行き着いたのが、いつもの馬鹿げたアイディアだ。
もしかすると、自分の馬鹿げたアイディアにもう一度立ち返るべきかもしれない。
馬鹿げたアイデアは現実する…かもしれない。
おそらく。
いや、おそらくではない。
私は走るスピードを速めた。
もっと、もっと。
誰かを追いかけ、同時に誰かに追いかけられるかのように。
私のアイディアはうまくいく。
絶対実現する。
そこに、おそらくという言葉などない。
突然、笑みがこぼれた。
声を出して笑いそうになった。
汗にまみれになりながらもフォームを崩さず走り続けるうちに、
馬鹿げたアイデアが目の前で輝くさまが浮かぶと、
そこまで馬鹿げているとも思えなくなっていた。
それはアイディアにすら思えなかった。
それは一定の範囲を占める場所であり、人であり、私が生まれるずっと前から存在し、私の一部でもあると同時に私から切り離されている生きる力に見えた。
私を待ち構えながら、同時に私の見えないところに隠れているような力。
少しばかり高望みで少しばかり馬鹿げているかもしれないが、
それこそ、あの時私が抱いた思いだった。
あるいは、錯覚だったのかもしれない。
記憶が独り歩きしてあの至福の瞬間を拡大させたか、
あるいは多くの至福の瞬間をあの一瞬に凝縮させていたのかもしれない。
あるいはその瞬間があったとしても、ランナーズハイに過ぎなかったのかもしれない。
今となってはわからないし、何とも言えない。
口から出る丸くて白い吐息のように、その後の長い月日の中で多くのことが収束し、消え去ってしまった。
かつて重くのしかかり、かき消すことができないと思えた、顔、数字、決意などはすべて消えてしまった。
24歳の私には馬鹿げたアイディアがある。
唯一残ったのはこの力強い確信だった。
この確固たる真実は消え去ることはない。
私もまた、20代半ばの若者なら誰もが抱く、将来に対する実存主義的な怒りや不安、自分への疑念に翻弄されていた。
だからわかったのだ。
世界は馬鹿げたアイデアでできているのだと。
歴史は馬鹿げたアイディアの連続なのだと。
私が一番好きなもの、書物、スポーツ、民主主義、自由独立の精神はいずれも馬鹿げたアイディアから始まったのだ。
私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。
ハードだし、苦痛やリスクを伴う。
見返りは少ないし、何も保障されない。
楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。
少なくともその努力にきちんと報いるものはない。
走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。
それを決めるのは自分自身だ。
走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。
すべては自分の中で、それらをどう形作り、どう自らに納得させるか、なのだ。
ランナーなら誰もがこのことを知っている。
何マイルも何マイルも走って走りまくっても、なぜそうするのかは自分でもわからない。
ゴールを目指して走り、快感を追い求めているのだと自分に言い聞かせるが、
実は止まるのが怖くて走っているのだ。
1962年のあの日の朝、私は自分にこう言い聞かせてた。
馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ…
走り続けろ。
立ち止まるな。
目標に達するまで、止まることなど考えるな。
"そこ" がどこにあるのかも考えるな。
何が起ころうと立ち止まるな。
いきなり天から降りてきたこの大人びたアドバイスは、後々重要な意味を持つことになる。
私はそれを胸に秘めた。
50年後の今思い返しても、私にとってそれは最良のアドバイスであり、
かけるべき言葉はそれしかなかっただろう。
(「SHOE DOG」フィル・ナイト著 大田黒奉之訳より)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/7e/d262d29d3ed15d7974b1135aa68d4433.jpg
そう考えるうちに行き着いたのが、いつもの馬鹿げたアイディアだ。
もしかすると、自分の馬鹿げたアイディアにもう一度立ち返るべきかもしれない。
馬鹿げたアイデアは現実する…かもしれない。
おそらく。
いや、おそらくではない。
私は走るスピードを速めた。
もっと、もっと。
誰かを追いかけ、同時に誰かに追いかけられるかのように。
私のアイディアはうまくいく。
絶対実現する。
そこに、おそらくという言葉などない。
突然、笑みがこぼれた。
声を出して笑いそうになった。
汗にまみれになりながらもフォームを崩さず走り続けるうちに、
馬鹿げたアイデアが目の前で輝くさまが浮かぶと、
そこまで馬鹿げているとも思えなくなっていた。
それはアイディアにすら思えなかった。
それは一定の範囲を占める場所であり、人であり、私が生まれるずっと前から存在し、私の一部でもあると同時に私から切り離されている生きる力に見えた。
私を待ち構えながら、同時に私の見えないところに隠れているような力。
少しばかり高望みで少しばかり馬鹿げているかもしれないが、
それこそ、あの時私が抱いた思いだった。
あるいは、錯覚だったのかもしれない。
記憶が独り歩きしてあの至福の瞬間を拡大させたか、
あるいは多くの至福の瞬間をあの一瞬に凝縮させていたのかもしれない。
あるいはその瞬間があったとしても、ランナーズハイに過ぎなかったのかもしれない。
今となってはわからないし、何とも言えない。
口から出る丸くて白い吐息のように、その後の長い月日の中で多くのことが収束し、消え去ってしまった。
かつて重くのしかかり、かき消すことができないと思えた、顔、数字、決意などはすべて消えてしまった。
24歳の私には馬鹿げたアイディアがある。
唯一残ったのはこの力強い確信だった。
この確固たる真実は消え去ることはない。
私もまた、20代半ばの若者なら誰もが抱く、将来に対する実存主義的な怒りや不安、自分への疑念に翻弄されていた。
だからわかったのだ。
世界は馬鹿げたアイデアでできているのだと。
歴史は馬鹿げたアイディアの連続なのだと。
私が一番好きなもの、書物、スポーツ、民主主義、自由独立の精神はいずれも馬鹿げたアイディアから始まったのだ。
私は走ることが好きだが、馬鹿げているといえば、これほど馬鹿げたものもないだろう。
ハードだし、苦痛やリスクを伴う。
見返りは少ないし、何も保障されない。
楕円形のトラックや誰もいない道路を走ったりしても、目的地は存在しない。
少なくともその努力にきちんと報いるものはない。
走る行為そのものがゴールであり、ゴールラインなどない。
それを決めるのは自分自身だ。
走る行為から得られる喜びや見返りは、すべて自分の中に見出さなければならない。
すべては自分の中で、それらをどう形作り、どう自らに納得させるか、なのだ。
ランナーなら誰もがこのことを知っている。
何マイルも何マイルも走って走りまくっても、なぜそうするのかは自分でもわからない。
ゴールを目指して走り、快感を追い求めているのだと自分に言い聞かせるが、
実は止まるのが怖くて走っているのだ。
1962年のあの日の朝、私は自分にこう言い聞かせてた。
馬鹿げたアイディアだと言いたい連中には、そう言わせておけ…
走り続けろ。
立ち止まるな。
目標に達するまで、止まることなど考えるな。
"そこ" がどこにあるのかも考えるな。
何が起ころうと立ち止まるな。
いきなり天から降りてきたこの大人びたアドバイスは、後々重要な意味を持つことになる。
私はそれを胸に秘めた。
50年後の今思い返しても、私にとってそれは最良のアドバイスであり、
かけるべき言葉はそれしかなかっただろう。
(「SHOE DOG」フィル・ナイト著 大田黒奉之訳より)
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