『自分は祈られてきた~「死にたい」という言葉に隠された思い~』
「船越さん(仮名)」という人と出会ったのはもう18年くらい前です。
ぼくが医療ボランティアをやり始めて間もない時期でした。
病室に行き、「こんにちは」と言いましたが返事はありません。
彼は43歳の時に車の事故で首の骨を損傷し、全身まひになってしまいました。のどを切開しているので声も出せません。
でも意識ははっきりしています。
目も見えるし、耳も聞こえる。
そういう状態で20年間、ずっとベッドの上で過ごしてきました。
彼には動かせるものが一つだけありました。それは眼球です。
看護師さんがひらがな表を持ってきて、眼球の動きを見て一文字一文字確認しながら、言いたい言葉を見つけてあげます。
この作業をしていると1時間なんてすぐに経ってしまいます。
「看護師さんが、医療の現場で患者さんのためにこれほどの時間を割き続けることは難しい」と思った私たちは、「ここにボランティアが介在する必要がある」と思いました。
船越さんとのコミュニケーションが上手くいくようになってきた頃、船越さんからこう言われました。
「死にたい」と。
私の頭は真っ白になり、思わず「諦めるな! 頑張れ」と言いそうになりました。
でも船越さんは今までずっとずっと頑張って生きてきたんです。
その人に「もっと頑張れ!」とは言えませんでした。
私は「死にたいと思うほど苦しいのですね」と、船越さんの気持ちを言葉にしました。
そして「どうして死にたいんですか?」と尋ねました。
すると船越さんは自分の気持ちを話し始めました。
船越さんが事故に遭った時、奥さんは30代で、小さい子どもが2人いました。
奥さんは働き始め、さらに介護も入ってきて、さぞかし苦しかっただろうと思います。
船越さんは全てを理解していました。
その家族を思うがゆえの「死にたい」だったのです。
船越さんは「自分の家に帰りたい」という希望を持っており、病院に許可をもらいました。
家に帰れると分かった日、船越さんは体を震わせながら口を開けて笑っていました。
船越さんの喜びに溢れた声なき声が聞こえたような気がしました。
家に入ると、船越さんはもう涙、涙でした。
隣のおじさんがやってきて、「おまえ帰ってこれたのかよ」と優しく言いました。
近所のおばちゃんもやってきて、家に入ってくるなり言いました。
「あら船越さん、死んだんじゃなかったと?」と。
普通はそんなこと、口が裂けても言えません。
でもきっと事故に遭う前、おばちゃんと船越さんはそういう冗談めいた言葉のやり取りができる間柄だったのです。
私は船越さんをお寺に連れていき、一緒にお経を唱えました。
船越さんは「『いつも自分は祈られてきたんだ』と知って胸がいっぱいになった」と言いました。
船越さんは病院に戻る時、私たちに「生きててよかった。もっと生きたい」と言ってくれました。
その言葉を聞いて私は、「久しぶりに家に帰れたことが嬉しかったからそう言ったのだろう」と思っていました。
でも別の意味が含まれていることが分かりました。
それは、「みんながお友だちのように関わってくれたことが嬉しかった」ということでした。
つまり「かわいそうな人やなぁ。気の毒やから俺たちが助けてやる」という気持ちを持たずに関わってくれた。
そのことが何より嬉しかったということなのです。
(「みやざき中央新聞」2018.1.15飛騨千光寺住職 大下大圓さんより)
「船越さん(仮名)」という人と出会ったのはもう18年くらい前です。
ぼくが医療ボランティアをやり始めて間もない時期でした。
病室に行き、「こんにちは」と言いましたが返事はありません。
彼は43歳の時に車の事故で首の骨を損傷し、全身まひになってしまいました。のどを切開しているので声も出せません。
でも意識ははっきりしています。
目も見えるし、耳も聞こえる。
そういう状態で20年間、ずっとベッドの上で過ごしてきました。
彼には動かせるものが一つだけありました。それは眼球です。
看護師さんがひらがな表を持ってきて、眼球の動きを見て一文字一文字確認しながら、言いたい言葉を見つけてあげます。
この作業をしていると1時間なんてすぐに経ってしまいます。
「看護師さんが、医療の現場で患者さんのためにこれほどの時間を割き続けることは難しい」と思った私たちは、「ここにボランティアが介在する必要がある」と思いました。
船越さんとのコミュニケーションが上手くいくようになってきた頃、船越さんからこう言われました。
「死にたい」と。
私の頭は真っ白になり、思わず「諦めるな! 頑張れ」と言いそうになりました。
でも船越さんは今までずっとずっと頑張って生きてきたんです。
その人に「もっと頑張れ!」とは言えませんでした。
私は「死にたいと思うほど苦しいのですね」と、船越さんの気持ちを言葉にしました。
そして「どうして死にたいんですか?」と尋ねました。
すると船越さんは自分の気持ちを話し始めました。
船越さんが事故に遭った時、奥さんは30代で、小さい子どもが2人いました。
奥さんは働き始め、さらに介護も入ってきて、さぞかし苦しかっただろうと思います。
船越さんは全てを理解していました。
その家族を思うがゆえの「死にたい」だったのです。
船越さんは「自分の家に帰りたい」という希望を持っており、病院に許可をもらいました。
家に帰れると分かった日、船越さんは体を震わせながら口を開けて笑っていました。
船越さんの喜びに溢れた声なき声が聞こえたような気がしました。
家に入ると、船越さんはもう涙、涙でした。
隣のおじさんがやってきて、「おまえ帰ってこれたのかよ」と優しく言いました。
近所のおばちゃんもやってきて、家に入ってくるなり言いました。
「あら船越さん、死んだんじゃなかったと?」と。
普通はそんなこと、口が裂けても言えません。
でもきっと事故に遭う前、おばちゃんと船越さんはそういう冗談めいた言葉のやり取りができる間柄だったのです。
私は船越さんをお寺に連れていき、一緒にお経を唱えました。
船越さんは「『いつも自分は祈られてきたんだ』と知って胸がいっぱいになった」と言いました。
船越さんは病院に戻る時、私たちに「生きててよかった。もっと生きたい」と言ってくれました。
その言葉を聞いて私は、「久しぶりに家に帰れたことが嬉しかったからそう言ったのだろう」と思っていました。
でも別の意味が含まれていることが分かりました。
それは、「みんながお友だちのように関わってくれたことが嬉しかった」ということでした。
つまり「かわいそうな人やなぁ。気の毒やから俺たちが助けてやる」という気持ちを持たずに関わってくれた。
そのことが何より嬉しかったということなのです。
(「みやざき中央新聞」2018.1.15飛騨千光寺住職 大下大圓さんより)
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