大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙 10章14~21節

2017-10-16 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

2017年10月15日 主日礼拝説教 「手を差し伸べられる神」 吉浦玲子

<私たちは聞かされてきた>
 数年前、あるお子さんとお母さんが教会の前をたまたま通られました。当時そのお子さんが通っていた幼稚園がキリスト教系の幼稚園で、お子さんが、通りすがりに教会の建物を見て「あ、ここはチャペルだ!中を見てみたい」と叫びました。そして親子で教会の中に入って来られました。そのことがきっかけで、そのご家族は今、教会学校に集っておられます。また、あるとき、バイブルアワーに来られた女性はミッションスクールに20年前通っていたと言われました。その方は「学校のとき、クリスチャンではない自分にとって聖書の時間や礼拝の時間が退屈で退屈で嫌だった。それが学校を卒業して長い時間がたってみると、聖書や礼拝がとても懐かしい、教会に来ると心が落ち着きます。不思議です」とおっしゃいました。教会の前を通りかかったお子さんも、また昔、ミッションスクールに通っておられた方々も、それぞれに、「聞いて」こられたのです。信じるべき方のことを。


 本人の好むと好まざるとにかかわらず、人は「聞かされる」のです。神のことを。ここにいる私たちも聞かされてきました。わたしたちに宣べ伝える人たちがいたのです。それは人によっては、直接的に声をかけてくださる人間がいたわけではない場合もあったかもしれません。本や映画や音楽、絵画によって触発されたということもあるでしょう。なにげなく、ふらっと教会に行ってみたという方もあるかもしれません。ふらっと来てみたら、そこで宣べ伝えられた、聞かされたということもあるでしょう。
一方で、聞かされなかった人々もいたのです。キリシタン禁制が解かれた時代以前の日本人がそうだったでしょう。


 「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。」こうパウロは語ります。これは本日の聖書箇所の直前の13節「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」を受けた言葉です。主の名を呼び求めるためには信じることが必要である、信じるためには聞くことが必要であり、聞くためには聞くべきことを宣ベ伝える人がいる。宣べ伝えるためには遣わされなければならない。そうパウロは語ります。そして重要なことは、その宣ベ伝える人を派遣されるのはキリストご自身だということです。私たちが主の名を呼び求めるその源流にキリストご自身が宣べ伝える人を派遣されるという事実があるということです。逆にキリストの派遣がなければ何も始まらないということです。これはパウロ自身の立場でも言えることです。パウロはペトロやヨハネと言った他の使徒たちと異なり、主イエスの直接の弟子ではありませんでした。ですから、パウロ自身、なぜあなたが宣ベ伝えるのか?という批判を受けたり、他の使徒たちと比べ軽んじられたりしました。しかし、パウロは自分で勝手に宣ベ伝えているわけではありませんでした。明確にキリストによる派遣が自分自身の宣教の根拠と考えていました。それは今日においても同様です。宣ベ伝える人間はキリストによって派遣された者です。そしてキリストによって派遣された者が宣ベ伝える言葉は基本的に教会の言葉です。語っている個人の言葉ではなく、教会の言葉なのです。教会の言葉として語られる時、その言葉はまさにキリストご自身が語られている言葉となるのだといえます。


 さらに「良い知らせを伝えるの者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです、とパウロは語ります。これはイザヤ書からの引用です。良い知らせとは、宣べ伝えることの内容を指します。これはキリストの知らせです。福音のことです。それを知らせる者の足は美しい、そうイザヤの語る言葉をパウロは喜びに満ちて記しています。
 そもそもなぜ足なのか?手とか顔ではなく足なのか?これは古代における伝令をイメージしていたからでしょう。王の即位を町々に村々にしらせる喜びの伝令がいたのです。今のように、マスメディアやネットでたちまちにニュースが伝わるのではありません。伝令が走って知らせに行ったのです。ですから「美しい足」なのです。良い知らせとはキリストが私たちの王になってくださった、私たちを治めてくださることになったということにほかなりません。その新しい王の即位を知らせる伝令の足は美しいのです。私たち一人一人のところに、その伝令は走ってやって来ました。美しい足でオリンピック・ランナーのように素晴らしい走りでもってやってきたのです。
 しかしまた不思議なことではないでしょうか?全能の神がなぜ人間を派遣して宣べ伝えられるのでしょう。パウロ自身、コリントの信徒への手紙Ⅰ(1:21)で「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」と言っています。テレパシーのようなもので、ひとりひとりに伝えていくのではなく、神は宣べ伝える者を遣わされるのです。人が人に伝えていくというのは実に効率の悪いやり方です。しかし逆にそこに神の人間への愛にもとづいた信頼があります。神は愛をもって用いてくださるのです。パウロも最初はキリスト者を迫害する者でありながら用いられました。遣わされました。そのことを通じてパウロ自身、神の愛を深く知ったのです。
 私たちのそれぞれに神の御用のために遣わされ、用いられる者です。愛によって派遣されるものです。直接に働くべき内容はそれぞれに異なるかもしれません。ある人は職業生活において、ある人は家庭において、それぞれに愛によって派遣され主に用いられて喜びの業のなすのです。


<本当に聞くということ>
 一方でパウロは言います。「16節しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。」ここでパウロのトーンは変わります。それまでのまさに走るような勢いの語り方から、重い感じに変わります。ここからパウロの意識の内にあるのは、これまでも繰り返し語って来たイスラエルのことです。「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか?」とパウロは再びイザヤ書を引用して問うています。イスラエルは信じなかったのです。イスラエル人であるパウロは胸を痛めながら、イスラエルを思いつつなお語るのです。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことにより始まるのです。」
 キリストの言葉を聞くということは、単に、聖書の言葉や、解説や、メッセージを耳で聞いたり頭で解釈するということではありません。聖霊によって聞くことです。聖書に限らず小説や映画などで、昔読んだり見たりしていたのに、時間を置いて改めて読んだり見たりすると、新しい良さを発見したり、以前とはまったく違う印象を持ったりすることがあると思います。それは、こちらの年齢が増したり生活経験が積み重なって以前は理解できなかった感覚が分かるようになることが理由の一つでしょう。もちろん、反対もあって、若い時だけ共感できる感覚というのもあります。


 聖書の御言葉でも以前は通りすぎていた言葉が急に生き生きと迫ってくることが起こります。しかしそれは単にこちらの人生経験が深まったからとか、聖書の解釈が深まったといった人間側の理由ではないのです。聖霊の働きの問題なのです。
聖霊が生き生きと働かれる時、私たちはキリストの言葉を良く聞き取ることができます。聖霊によって、キリストの言葉を、ほんとうに自分自身に語られている言葉として受け取らせていただきます。逆に、私たちが自分の思いや考えに固執してキリストの言葉を聞く時、私たちは本当の言葉を聞くことはできません。聖霊の働きを阻害するのです。
 私たちは一般的に、さまざまな情報に接したとき、それが自分にとって必要か不要か判断して取捨選択をします。ある本を読んだとき、その本の中で自分のためになりそうなところを参考にします。しかしキリストの言葉を聞くというのは、聞き手の側に取捨選択の主体があるわけではありません。これはクリスチャンであってもよく陥る間違いなのです。そしてそれはとても本質的な大きな間違いなのです。聖書の言葉の、語られるキリストの言葉の、ここは自分の考えにあう、ここは合わないと評価して合うところだけを受け入れましょうというのはキリストの言葉を聞くという姿勢ではありません。私たちは、自分の思いをひととき、わきに置き、ただキリストの言葉の前に静まる、静まっているとき、聖霊によって聞こえてくるのがキリストの言葉です。

 かつてのイスラエルもその言葉を聞くことができませんでした。彼らは神の言葉を聞かされなかったわけではありません。むしろ神から選ばれた民として、その神の声は響き渡るほどに響かされたのです。そしてパウロの時代にも、主イエスのことについては聞かされていたのです。彼らは耳ではたしかに聞いたのです。しかし、信じることはなかったのです。みずからがイスラエル人であるパウロにとって痛切なことです。


<手を差し伸べられる神>
 一方でイスラエルの頑なさのゆえに救われた民がありました。それが異邦人であるわたしたちです。「わたしは、わたしの民でない者のことで あなたがたにねたみを起こさせ
愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と申命記の言葉を引用してパウロは語っています。そもそも神に選ばれていたイスラエルが信じなかったゆえに、そのイスラエルにねたみを起こさせるために、用いられたのが、「愚かな民である異邦人」です。異邦人を救い、そのことによってイスラエルに妬みを起こさせ、神へと心をむけようとなさっている神の愛があります。
 一方で「愚かな民と言われた!」と異邦人である私たちは怒る必要はありません。たしかに私たちは、神から遠い民であったのです。神を神とせず、長く偶像崇拝、自然崇拝をしてきた民でした。現代でも朝の情報番組で<今日の星占い>などが流れている、まことの神から離れた状況です。その愚かな民を、神はイスラエルへの愛ゆえに、逆に選ばれたのです。そしてキリストの声を聞く者としてくださいました。そして救ってくださいました。何千年にもわたって神を求めて来た者ではない私たちにも神はその声を響かせてくださいました。そのために美しい足を持った伝令を使わしてくださいました。この教会にもかつてアメリカからやってきた宣教師がありました。雪道をわらじをはいて宣教をしてまわった美しい足の使者がありました。それにつづく多くの美しい足を持った人々がこの教会に教会の言葉をキリストの言葉を響かせました。それを静かに聞いた人々がありました。

「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、私を訪ねなかった者たちに自分を現わした。」
 神を探さなかった私たちのところへ、宣べ伝える者が遣わされてきました。しかし、私たちはまた、その宣べ伝える者の言葉を聞くことのおいても往々にして反抗的でした。いまでもそうです。聞くことにおいて、たえずキリストより自分を上に置く姿勢になりがちです。無意識のうちに自分に都合の良い神の像を自分の中で造る者です。
 しかし「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」とイザヤ書を引用してパウロは語ります。神は忍耐強く手を差し伸べてくださっています。この手は複数形です。両手です。神は両手を私たちに一日中差し伸べてくださっているのです。私たちが自己中心的に生きている時も、身勝手に聖書の言葉を読んでいる時も、しっかりと私たちへと向けて両手を差し伸べてくださっておられます。私たちが主の名を呼び求める者となるために、救われるために、そして聞くことができる者となるように。


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