2011.8.20(土)曇、雨
三国岳(616,4m)は解りやすい名前だが、あまりに月並みな名前でもある。丹波、丹後、若狭を分ける山だからそういわれるのだろうが、何となく行政主導の命名みたいで嫌な感がする。ことほど左様に近江、若狭、丹波を分ける三国岳(776m)近江、丹波、山城を分ける三国岳(959m)などもあって面白くない。三つ目の三国岳は旧名挙坂岳(よみかた不明)というそうだが、老富の三国岳も旧名とか地元の呼び方が無いものかと思っている。少なくとも大唐内、市茅野では三国岳と呼んでいるようで他の呼び方を聞いたことはない。
三国岳山頂も展望はきかない。右老富、左関屋とあり。
丹後側、若狭側からはしっかりと望めるようで何か呼び方があるかも知れないが、丹波側からは見えないところが多いのでそれほど重要視されていないのかも知れない。もっとも古代の人々にとっては山は猟場、木材資源の場として重要であったろうが、山頂そのものは重要視されるものではなかったかもしれない。むしろ通行の要である峠の方が重要だったのだろう。
そういう意味で三国岳の南にある小突起に過ぎない丸山(545m)が村人にも認知され、各種文献にも現れるというのはどういう意味があるのだろう。
丸山については今後詳しく紹介、考証していくのでここでは述べないが、先日市茅野を訪問して感じたことを少し書いておこう。
まず市茅野から丸山は見えるかということだ。残念ながら見えない。坪坂峠の東の尾根が見えるだけである。谷の最奥に近い人家で丸山のことを聞いたが、丸山という名前もご存じでなかった。小さい頃に峠を越えて関屋に降りたという話をされていたのでもともと地元の方であろうと思う。もっと沢山の方に聞いてみないといけないのだが昼の時間で人影が無くて聞けなかった。
正面の尾根は坪坂峠の東の尾根と思われる。
丹波負笈録、市茅野村の項にはサントラ山、三俵山、イモリケ嶽と丸山について詳しく書かれているのだが、現在の市茅野では見えることも行くこともない無関係な山となっているのだろうか。
坪坂峠への道についても聞いてみると、「以前に女性の登山者が数人降りてきたことがあったけど、今は誰も行かないし荒れとるんと違うかなあ」という応えであった。
山の斜面に赤土が見えている。佐分利から国境稜線に上がり関屋に向かう林道が完成しているという。早い内に猪鼻峠から坪に向かう峠道を歩いておかないと通れなくなるかもしれない。
結局丸山のあの特異な山容は小唐内の谷からしか見えない訳だ。古代の葬地あるいは聖地では、という私の発想もどうやら見当違いのようだ。やはり東北の葉山信仰の葉山のように村から親しく見えていなければならないからだ。そしてもしそうであるなら、宗教的な遺跡、伝説などがあっても良さそうなのだが、そういったものは一向に見つからないのである。
もう一度丸山の姿を見るべく小唐内谷に向かう。冬場の坊主頭のような山容と違って緑の衣をまとった丸山は随分立派な、やはり聖地を思わせる山であった。
小唐内の入口に二ヶ所お地蔵様が数体壊れて放置されている。どのようないきさつがあったのか知れないが、かつては村の境として村人や旅人の安全を願って鎮座していただろうお地蔵が、随分痛ましい姿である。
【作業日誌 8/20】
芝刈り(2-1)
今日のじょん:じょん君叱られるの巻
もう一年ぐらい行かなかった、チコとこへ脱走した。朝はノーリードなので府道に降りると危険なのだ。こっぴどく叱ったら一日中しょげること、いじけること、気の毒なぐらいだ。