晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(71) 8/20

2011-08-21 | 歴史・民俗

2011.8.20(土)曇、雨

  三国岳(616,4m)は解りやすい名前だが、あまりに月並みな名前でもある。丹波、丹後、若狭を分ける山だからそういわれるのだろうが、何となく行政主導の命名みたいで嫌な感がする。ことほど左様に近江、若狭、丹波を分ける三国岳(776m)近江、丹波、山城を分ける三国岳(959m)などもあって面白くない。三つ目の三国岳は旧名挙坂岳(よみかた不明)というそうだが、老富の三国岳も旧名とか地元の呼び方が無いものかと思っている。少なくとも大唐内、市茅野では三国岳と呼んでいるようで他の呼び方を聞いたことはない。Img_3503

三国岳山頂も展望はきかない。右老富、左関屋とあり。


 丹後側、若狭側からはしっかりと望めるようで何か呼び方があるかも知れないが、丹波側からは見えないところが多いのでそれほど重要視されていないのかも知れない。もっとも古代の人々にとっては山は猟場、木材資源の場として重要であったろうが、山頂そのものは重要視されるものではなかったかもしれない。むしろ通行の要である峠の方が重要だったのだろう。
 そういう意味で三国岳の南にある小突起に過ぎない丸山(545m)が村人にも認知され、各種文献にも現れるというのはどういう意味があるのだろう。
 丸山については今後詳しく紹介、考証していくのでここでは述べないが、先日市茅野を訪問して感じたことを少し書いておこう。
 まず市茅野から丸山は見えるかということだ。残念ながら見えない。坪坂峠の東の尾根が見えるだけである。谷の最奥に近い人家で丸山のことを聞いたが、丸山という名前もご存じでなかった。小さい頃に峠を越えて関屋に降りたという話をされていたのでもともと地元の方であろうと思う。もっと沢山の方に聞いてみないといけないのだが昼の時間で人影が無くて聞けなかった。Img_3540
 
正面の尾根は坪坂峠の東の尾根と思われる。


 丹波負笈録、市茅野村の項にはサントラ山、三俵山、イモリケ嶽と丸山について詳しく書かれているのだが、現在の市茅野では見えることも行くこともない無関係な山となっているのだろうか。
 坪坂峠への道についても聞いてみると、「以前に女性の登山者が数人降りてきたことがあったけど、今は誰も行かないし荒れとるんと違うかなあ」という応えであった。
山の斜面に赤土が見えている。佐分利から国境稜線に上がり関屋に向かう林道が完成しているという。早い内に猪鼻峠から坪に向かう峠道を歩いておかないと通れなくなるかもしれない。
 結局丸山のあの特異な山容は小唐内の谷からしか見えない訳だ。古代の葬地あるいは聖地では、という私の発想もどうやら見当違いのようだ。やはり東北の葉山信仰の葉山のように村から親しく見えていなければならないからだ。そしてもしそうであるなら、宗教的な遺跡、伝説などがあっても良さそうなのだが、そういったものは一向に見つからないのである。
 もう一度丸山の姿を見るべく小唐内谷に向かう。冬場の坊主頭のような山容と違って緑の衣をまとった丸山は随分立派な、やはり聖地を思わせる山であった。
小唐内の入口に二ヶ所お地蔵様が数体壊れて放置されている。どのようないきさつがあったのか知れないが、かつては村の境として村人や旅人の安全を願って鎮座していただろうお地蔵が、随分痛ましい姿である。Img_3544 Img_3546 Img_3547





【作業日誌 8/20】
芝刈り(2-1)

今日のじょん:じょん君叱られるの巻
もう一年ぐらい行かなかった、チコとこへ脱走した。朝はノーリードなので府道に降りると危険なのだ。こっぴどく叱ったら一日中しょげること、いじけること、気の毒なぐらいだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大唐内のこと(70) 8/19

2011-08-21 | 歴史・民俗

2011.8.19(金)曇

 8月16日には大唐内~胡麻峠~三国岳~丸山のコル~大唐内の谷というコースを歩き、今日は自転車で市茅野を訪れた。
 大唐内に日本海からの文化が入ってきたとすると、それは胡麻峠もしくは猪鼻峠しかない。足で歩いて目で見ておかないと構想が沸かない。Img_3495
 
胡麻峠の首なし地蔵。博打打ちが縁起担ぎのため首をもいでいくという説がある。一概に廃仏毀釈のせいではないようだ。


 胡麻峠は舞鶴側から登らないとその目的は達せない。胡麻峠の由来は多門院(たもんいん)の胡麻にあると思われる。いづれ訪れたいと思っているが、多門院といえば佐渡の金山で百足を祀っている寺が多門院であったことを思い出す。百足は毘沙門天の使いで、鉱山に所縁のあるものである。舞鶴の多門院も調べると毘沙門堂などが出てくる、黒部、佐武峠などの地名と合わせて鉱山、金工に関係があるのかも知れない。また、胡麻峠からのもう一つの行き先は与保呂(よほろ)である。変わった地名だとは思っているのだが、いつか調べてみたい。Img_3501

胡麻峠から少し三国岳によったところから多門院、与保呂は左手下方で見えない。


この与保呂川を下ったところに行永(ゆきなが)、金屋町などの地名がある。以前に行永は近江の製鉄豪族息長氏に関連のある地ではないかと言うことを書いたことがある。その行永に国松姓であった知り合いがあり、「元々は鍛冶屋をやってなかったか」と聞いた。「そうなんや、おじいちゃんにきくと元々は鍛冶屋だったらしい」という返事、私はあまりに推理が当たったのに驚いた。鋳物師というのは一国一座の決まりがあり、何鹿郡には上林の清水村、加佐郡は引土村にあったという。清水村では井関家が、引土村では国松家がその任に当たっていたという。西舞鶴の引土から分家などの形で行永に移ってきたのだろうと思うが、やはりそこには金工の素地が行永にあったのだろう。行永と清水は菅坂峠を挟んだ山向こうなのである。
 ちなみに南丹市日吉町の胡麻も鋳物師の村なのだ。胡麻新町の勝田家がそれにあたり、河内国丹南郡日置荘の鋳物師国次の子孫であるということだ。有名な國友銃砲火薬店ももとは國友鉄砲鍛冶である。国の付く姓は鍛冶に関係があるようだ。胡麻周辺は戦中戦後丹波マンガンで沸いた地であるが、地名などで見ても古代の金工の地であることが想像できる。Img_3290
 
向こうの山裾辺りが胡麻新町だが、清水という地名があるのは偶然だろうか。


 そうなると多門院の胡麻、胡麻峠の胡麻も前回までに述べた三つの説以外になにか由来があるのかも知れない。ただそれは今のところ解らないので地形説を念頭に置いて現地を訪ねてみたいと思っている。(大唐内のこと(69)は2011.7.23)

【作業日誌 8/19】
ネギの畝作り
薪割り

今日のじょん:昨晩むね肉ジャーキーを焼いて貰って、少しお相伴したらしい。そして今朝、古いジャーキーが三切れほど残っていたので、ぽんぽこぽんのご褒美にやったら、ペッと吐き出しやがんの。新しいジャーキーが昨晩焼けたことを憶えているのだろう、あなどれないねえ。Img_3535

カトちゃんペッ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする