晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

丹波西国三十七所道中記 九日目 7/19

2024-07-22 | 徒歩巡礼

丹波西国三十七所道中記 九日目  恐怖の峠越えー1 普門山観音寺~東窟寺~龍源寺百観音堂円通庵
     2024.7.19(金) 晴
 メンバー:小原、山本

 タイム :普門山観音寺(篠山市)発 8:40 ~  9:50 藤岡奥公民館 10:10
      ~ 10:25 東窟寺 10:45 ~  10:50岩谷観音堂  11:05
      ~ 11:15 藤岡奥の谷     ~  11:40二股    
      ~ 12:05 五坊谷池に向かう峠 12:15 ~ 13:25 西ヶ嶽登山道
      ~ 13:35 八柱神社道分岐 その先で昼食 13:55
      ~ P574の尾根を下る(稜線上ロスタイム25分、集落防獣ネットロスタイム25分)県道着15:20
      ~ 18:00 龍源寺 18:30

 経費:バス代(草山温泉~二階町)960円、水 230円、朱印代金 800円、賽銭100円 計2,090円

    

 歩行時間 9:21 距離 25.7Km 登り 772m 下り 824m 

 

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西国三十三所徒歩巡礼四日目ー1

2024-06-23 | 徒歩巡礼

西国三十三所徒歩巡礼四日目ー1  七曲八峠(ななまがりやとうげ)
2024.6.14(金)快晴
メンバー:小原、津田
タイム:栗田駅発7:40~8:00金毘羅神社8:10~8:40最初の峠~9:30栗田由良境の峠9:40~10:35火薬倉庫~
    11:20一の峠11:45~12:20由良脇峠入り口~12:40由良駅

経費:電車代800円(西舞ー栗田、由良ー西舞)、車代500円、カレーライス710円、水130円 計2,140円

 昨年の10月13日(金)にそれとも知らず彷徨って敗退した七曲八峠に再度挑戦の日が来た。峠名は七廻り八峠としてきたが、地元案内看板のとおり「七曲八峠」としたい。地元の方の呼び方は「ななまがりやとうげ」だったか。七曲峠というのは全国に多数あり、峠に至る道がうねうねとカーブしており、必ずしも7回曲がっているというものでもなさそうだ。七曲八峠というのは珍しいが地図を見ると七つの曲り(谷を詰めて渡渉し、峠に至る部分)と八つの峠があるようにも見える。いずれにしてもらしい名前だ。断っておくが今回の拙文をガイドにしないで欲しい。距離6Km、登りも300mに足らない峠道だが、何度も出入りを繰り返し、何度も上り下りを繰り返していると、いったいどの順番だったのかわからなくなっている。
  金毘羅神社の参道右が取り付き。

 今回は資料も地図も収集し、完璧を期す。ただ心配なのは思いがけない高温と熊の出没である。高温対策には菅笠、塩飴、大量の水を用意し、熊対策には熊スプレー、熊鈴、携帯ラジオ、金剛杖を用意する。  
 いつものように西舞鶴に駐車し、丹後鉄道に乗る。乗客は宮津に向かう高校生で、由良では満員となる。これじゃあ降りるの大変と思いきや栗田で海洋高校の生徒さんが降りるのですんなりと降車できる。駅長さんにアプローチや熊情報を聞く。大雲川の橋が工事中で渡れないと聞いたが歩行者は専用通路が作ってあった。熊の出没もあると言うことだ。
 前回取り付いた道を越え、金比羅神社に向かう。参道の横が七曲八峠の取り付きである。地下足袋に履き替え、ダニスプレーをする。国道と線路をくぐるとすぐに「法花経」の石柱に出逢う。
法花経の石柱、法華経でないところが愛嬌

 その先に朽ちた木橋があるのだが、結構谷が深くエイッとばかりに渡る。その先は荒れてはいるが広い道が続き、三間道といわれるとおり荷車がすれ違うにも充分だ。明治の中頃まで街道として使われていたのだから立派なはずだ。小さな峠を越えると谷を遡り、渡って次の峠に向かう。曲が八つあるのなら八曲となるのだろう。次の峠は顕著な峠だが案内看板などは無い。もっとも今回のコースで案内看板があったのは由良の峠入口だけである。つづく

 

 

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丹波西国三十三所道中記 三日目-3

2024-01-28 | 徒歩巡礼

丹波西国三十三所道中記 三日目-3 仁和寺の法師、宝篋印塔を見ずして
2023.8.17(木)快晴
 国道429号線をゆっくり登っていく。この辺り豊富地区は字の通り豊かな田園地帯で、和久川に沿った豊かな土壌が支えているのだろう。新興住宅も建てられていて開放的で明るいところだ。この国道を上っていくと榎峠という恐ろしく狭くて急な坂が青垣町に抜けている。以前に車で通過したが、肝を冷やした思い出がある。なんと国道429号線は兵庫県から岡山県に入り、倉敷まで行っているそうだ。榎峠の先にはもっと凄い生野峠というのがあるらしい。酷道429号線と言われるそうだ。上豊富小学校の先を左に入り、さらに行くとまた左右に分かれる。樽水、甘栗の道標があり、甘栗(左)方面に進む。山沿いに進んでいくと大きな常夜灯に突き当たる。左が観興寺の参道で、右は自動車用の道である。ほとんどの人が自動車で参られるようで、土道の参道は少し荒れ気味だが、問題は無い。
 こんな感じの道を歩いて行くと 常夜灯にたどり着く
 坂道を登っていくと、熊野神社があり、仁王門が現れる。この仁王さんは運慶の作と言われている。庫裏に向い、住職に挨拶し朱印を所望する。本堂の左手に観音堂があり、救苦殿という。
 第五番 普明山 観興寺 福知山市樽水甘栗 0773-34-0335
 臨済宗南禅寺派  十一面観音 
 御詠歌 後の世のおしえ たのもし代々の人 あまくり山の みのりうけえて
 仁王門  救苦殿
観音堂でお参りを済ませ、庫裏に戻ると朱印が用意されていた。境内で昼食を摂るお願いをしていたら丁度檀家の方だろうかお参りに来られて、住職に「接待できませんが、、」といってペットボトルの冷たいお茶をいただく。実は仁王門の奥に、新しく萱の葺かれた茶室があり、昼食には絶好の場所だったのだ。弁当を広げてゆっくりしていると、ご母堂が現れて冷やしたブドウをいただいた。お歳は90歳近くとかとお聞きしたがしっかりしておられて、しばしお話しする。ただ足が不自由とかで、お寺での生活はなにかと大変だろう。バリアフリーのお寺にはお目にかかったことはない。
 素晴らしい茅葺きの茶室 
 昼食を済ませ境内を探索する。お寺にはなんとなくよそよそしいお寺と、親しみを感じるお寺がある。観興寺に親しみを感じるのは、なにも接待を受けたからだけではなさそうだ。
 市の指定文化財に指定されている宝篋印塔の看板を見つける。年代の確定できる石造物では市で最古という、これは見ておくべしとあちこち探し回る。お寺の墓から隣の神社、駐車場まで見て回るがそれらしいものは無い。住職は接客中だし、ご母堂は庫裏に入ってしまわれたし、万事休す。仁王門を入ったところにらしき宝篋印塔が立っているが、どう見ても新しそうだ。でもこれっきゃないかと写真に収めて観興寺を後にする。
  これは新しそうだ
 次回はいよいよ峠を越えて青垣町に入る。蓮根峠を越えるか塩久峠を越えるか思案六法である。住職は蓮根峠と言われていた。「丹波西国三十七所道中記」には、是より氷上郡小倉村高源寺へ三里大峠あり奥塩久村通る小川二つあり、と書かれていてどちらの峠か解らない。ところが陸地測量部図を見て奇妙なことに気づいた。現在の五万図では両峠とも奥塩久に下っているのだが、陸地測量部図では蓮根峠は口塩久に下りている。文中の奥塩久村が現在の奥塩久なら、道中記で歩いているのは塩久峠と言うことになる。ただ観興寺裏から蓮根峠に行く道が出来ているのは、巡礼者は便宜蓮根峠を越えたとも考えられる。もともと両峠とも観興寺から尾根一つ西に越えたところから取り付いているので、今日はその取り付き地点を確認して帰ろうと思う。
 峠道確認に向かう  左の尾根上が蓮根峠入り口
 尾根を越えて樽水に入ると、蓮根峠の取り付きはすぐに確認できた。塩久峠へはもう少し西に沢に沿って登っていくいくようだ。今日は三っつのお寺を廻り、長距離を歩き、次回の確認もできとても満足な一日だった。例の宝篋印塔だけが気になるのだが、、、。上畑中バス停からバスに乗り、歩いてきた道を車上から眺めるのはこれまた気持ちのいいものである。おわり
 次回はこの稜線を越えるのだ。

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丹波西国三十三所道中記 三日目-2

2024-01-25 | 徒歩巡礼

丹波西国三十三所道中記 三日目-2 仁和寺の法師、宝篋印塔を見ずして
 2023.8.17(木)

 荒木の公会堂を後にして、一盃水の峠から榎原に向かう。福知山市の霊園や工場などがあって民家は見当たらない。府道でもなさそうで、多分市道だろうが、昔の街道ではないようだ。室の入り口にお地蔵さんがあり、少しほっとする。
 石柱何が書いてあるか解らなかった。 
 室、市寺辺りも例の水害被害を受けたところだが、その頃市会議員をしていた同級生の谷垣君のHPで被害の様子を見て驚いた事がある。正明寺、市寺と過ぎ高原状の農業地帯を歩く。昔からの田んぼではなく新たに開拓された感じがして、道も野原の真ん中を直線的に進んでいる。昔の街道なら里山に沿ってうねうねと進むのだが、民家がないのでこのようになるのかなあと思いつつ歩む。ため池の付近にお地蔵さまを見つけこれまたほっとする。
 民家も無いところなのだが、花も供えてある地蔵さま
 榎原で府道109号線に出合ったところに神社があり、赤い鳥居なので稲荷さんかな。口榎原で国道429号線に出るところに大歳神社という大きな神社があり、休憩する。暑い中を歩いたせいもあるが、ウオーキングサンダルがはきおろしで足裏の痛みも出てきた。
 今日の道程について、※四番、三番、五番と廻るわけだが、合理的な順序ではあるが、本来の巡礼順としては如何なるものかと不安に思っていた。特に荒木から榎原に抜ける道はさほど古い道ではなさそうで、いぶかしく思っていた。「丹波西国三十七所道中記」(嘉永5年)によると、やはり二番、四番、三番、五番と廻っており、此順よしと述べている。

 それではわたしと同じ道を歩いたのだろうかと、陸地測量部の地形図福知山(明治26年測図)を見てみると、荒木の一盃水の峠から室までの道は無いのである。さすれば荒木からはまた堀に戻り、室に向かっていると考えられるが、それでも三番、四番、五番と廻るよりは近回りなのだろう。とここで現在の5万分の一地形図で、荒木の公会堂の横手から室川の上流に抜ける破線の道を見つけた。陸地測量部図には無いのだけど、この道は傾斜も少なく簡単に室に抜けられそうだ。機会があればこの道を歩いてみたい、巡礼道の痕跡でも見つかれば大発見だ。つづく
※三番 法光寺(荒木) 四番 海眼寺(寺町) 五番 観興寺(樽水甘栗)
   

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丹波西国三十三所道中記 三日目-1

2024-01-22 | 徒歩巡礼

2023.8.17(木)曇  
丹波西国三十三所道中記 三日目-1 消えた観音堂

福知山駅発   8:50 
海眼寺   着 9:10  2Km    発 9:25
一盃水観音 着10:30 8.2Km    発10:40
荒木公会堂 着10:50 8.5Km    発11:30 行動食
榎原三叉路 着13:00                府道出合い、稲荷神社あり
大歳神社  着13:15 15.5Km                                      国道429出合い
観興寺   着14:10 20.5Km           発15:10
峠入り口探し
上畑中バス停着16:20 25.13Km 

経費 交通費 1、580円 朱印・賽銭 800円  合計 2、380円

  台風7号の襲来で予定が立たず、前日に公表したが勿論同行者はおらず、ひとりで思い存分歩いてみたいと意気込む。ところが準備が中途半端で、バスの時刻には間に合わない、車を綾部駅前に置いて電車に飛び乗る。台風一過だが空はどんよりとして今にも雨が落ちそうだ。でも風もあり、涼しいのは有り難い。海眼寺へは厚生会館の西の道を北に行けばいいのだが、そのままでは曹洞宗正眼寺の裏門に行き着く。丁度催事の準備をされている方がおられたので、海眼寺の行き先を聞くと「隣になるので、こちらを通って行って下さい」と案内される。正眼寺の手前を右(東)に折れて、お墓の方から回り込んで行かなければならないようだ。臨済宗南禅寺派のお寺だが、こちらも法要があるようで、取り込んでおられる。ご住職はお話し好きと聴いていたので期待していたのだが致し方ない。朱印を所望すると書き置きでよかったら、、ということだった。大黒さんが丁寧に応対して下さったが、お寺の奥さんはどこでも柔和で清楚だなあと気づく。心経をあげてあとにする。
  海眼寺山門と観音堂
 続いて一宮神社目指して街中を歩く。国道9号線の下をくぐって飛び出すと、東向観音堂の下に出た。国道9号線を通るたびに気になっていた観音堂なんだが、観音堂や地蔵堂が北向とか東向とかとりわけ言われるのか不思議に思っている。南向きというのは無くて、本来が南向きだからそうなのかもしれない。もっと気になるのは「天田郡霊場八十六番札所」と書かれていることだ。天田郡西国三十三霊場というのはあるようだが、八十六番とはいったい何だろう。ネットで調べてみると「天田郡四国八十八ヶ所霊場」というのがあった。まあなんと様々な霊場巡りがあることだ。
 東向観音堂、国道からもよく目立つ
 緩い坂を登っていくと右手に陸上自衛隊福知山駐屯地の正門が現れる。この地はかつて歩兵二十連隊が置かれた地で、わたしの父はこの連隊に招集された。中支(華中)や南方(マニラ方面)に進攻したようだが、果たしてどのような気持ちでこの門をくぐったのだろう。
 駐屯地正門の横に二十連隊の祈念碑がある。
 自衛隊の丘を下っていくと一宮神社からの道に合流し、荒木に向かって登っていく。真夏の太陽がジリジリと照りつける中、日陰があるとたまらなく嬉しい。やがて峠に辿り着く、左に行けば荒木、右に行けば正明寺方面だ。旧道と思われる脇道に素晴らしい水場がある。お地蔵さんの下に地下水が湧き出ており、隣に一盃水観音さまも祀ってあり、峠らしい風情がある。水は水筒にたっぷり持っているが、ここは地蔵さまの水をいただくべしだ。
   
三叉路手前に脇道があり、そこに一盃水と観音さまがある。 
 実際の峠はもう少し荒木よりに行ったところで、下っていくと荒木神社へ登っていく道が右にある。すぐのところに公民館があって、たしかここに観音堂があるはずなんだが、それらしきものは見当たらない。もう少し登っていけばあるのかなと思いどんどん登っていくが、らしきものは見つからず、どこかで尋ねようとするが、真っ昼間の暑さの中では誰も戸外に出てこない。人が居そうな家を見つけて訪ねていく。「法光寺の観音堂を探しているのですけど、、」「ああ、観音堂は何年か前に取り壊しましたよ、公民館の前にあったんですけどね。」円淨寺の住職が、「観音様は公民館に祀られていますよ」と言われた訳がわかった。また公民館のところに戻り、縁台に荷を置いて室内に向かってお参りする。観音堂があった跡は砂利が引かれ、石灯籠と石塔が面影を残しているのみだ。
 第三番(廃寺) 神南山 法光寺 曹洞宗 聖観音(荒木公会堂内)
 御詠歌 野をも過ぎ 里をも過ぎて神奈備の 法の光に あうぞうれしき
 「丹波西国と御詠歌」に残る法光寺観音堂の写真
 2023.8.17現 観音堂は跡形も無い

廃寺は覚悟していたが、写真に残る観音堂さえ無くなっているとはなんともさびしい限りだが、今後も同様の場面に出くわすだろう、建物は無くなっても人の人情は残っていて欲しいと思うのみである。縁台に座って握り飯を頬張りながら向かいの山を眺めていると、所々山崩れの痕が見える。そういえば数年前、2014年だったかこの辺り一帯が大水害に見舞われ、弘法川流域など洪水と土砂災害が起きたことがあった。おそらくその際に崩れた山の傷痕なのだろう。先程訪れたお宅、荒木さんと言ったか、その方も水害の話をしておられた。観音堂の取り壊しもその影響があったのだろうか。つづく
  


 

 

 

 

 

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丹波西国三十三所道中記 二日目ー2

2024-01-16 | 徒歩巡礼

丹波西国三十三所道中記 二日目ー2 初めての同行者
 2023.7.21(金)快晴 一番観音寺~円浄寺(三番法光寺管理)
 お寺は心と身体のオアシスである。われながらいい言葉だと気に入っている。心はイライラで身体は暑さでくたくた、、、それがお寺の山門にたどり着くとすっかり癒やされて、さわやかで活力が湧いてくるから不思議だ。
 円浄寺山門にて、お寺は心と身体のオアシスである。 法光寺朱印
 円浄寺は福知山市堀にある曹洞宗のお寺で、第三番 法光寺(廃寺)の管理をされている。一宮神社の東にあり、禅宗らしいたたずまいの立派なお寺である。観音堂は無さそうだがご住職にお願いして本堂にてお参りし、法光寺の御朱印をいただく。法光寺の観音さまは荒木の公民館内におまつりされているということだ。本来なら今日お参りするところだったのだが、Kさんの状況を見ると危険な感じだ。歩いて三十三所を巡礼すると言うと、ガイドブックがあると言って「丹波西国と御詠歌」という写真入りの冊子をくだされた。志保美円照さんの作られた本で、一番観音寺で聞いた女性のことのようだ。この本が実によくできていて、お寺の場所やアクセス連絡先、宗派や観音さまの様子、地図や写真、御詠歌や朱印まで必要な事柄は総て網羅されている。以後この本と一緒に旅することとなる。
 円浄寺で法光寺朱印とこの本を戴いた。
 さて、わたしには歳の離れた姉がいるのだが、若いときに何回もお見合いをして断ったり、断られたりでようやく公務員の義兄と一緒になったわけだが、「堀の大きなお寺でお見合いをしたことがある」と聞いていた。住職にそのようなことを聞いてみたが解るはずも無く、「もしそうだったら、下川合の住職の紹介かも、、」という話であった。するとお寺が発行しておられるたよりがあり、先代の住職が昨年に亡くなられたという記事が載っていた。遷化(せんげ)と言うそうだが、実に優しい、柔和な感の方で、生年が昭和七年という。姉が十一年生まれなので年齢的には相当かなと思う。
 そんなこともあって厚くお礼申し上げて円浄寺を後にする。
 堀から福知山駅に向かうのだが、列車の時刻は16:52である。車なら10分も掛からないだろうが歩くとなると予想も付かない。Kさんも休憩の甲斐あって順調そうだ。他愛もないことをしゃべりながら線路が見えるあたりまできた。ところがKさんが段々遅れ始める。此の電車を逃すとあと一時間無いのだ。Kさんを待つことなくどんどん歩く、一人で間に合って帰ろうというのではない、なんとか奮起して着いてきて欲しい思いからだ。わたしは間に合ったが、Kさんが着いたときには電車は既に出たところだった。一時間あれば四番の海眼寺にも参れるかなあと誘ってみる。「ここで待ってるから行ってきてください」なんとも情けない声で返事があり、どうやら相当疲れているみたいだ。結局海眼寺にはたどり着けず、やよいちゃんのやってる喫茶キューピッドでアイスコーヒー飲んで帰ってきた。本当はビール飲みたかったんだけど置いてなかったから、つまりそれほどやるせない想いでいたのだろう。
 貴重な休みの日、あわよくば二寺の札所と管理のお寺を廻ろうと計画していたのだけど、札所は一つも参れずに、管理されているお寺一ヶ所のみの参詣で終わってしまった。同行者があるためにやむを得ないのだが、その同行者にどうもやる気が感じられない。服装や作法、巡礼の用具や歩き方など色々教えてあげようと準備していたのだが、どうも関心が無いみたい。思えば今日まで綾部三十三ヶ所に始まって以来、常に一人で行動してきた。時間も行動も自分の思うとおり、好きなようにやってきた。他人と一緒に廻ることがこんなにもストレスかと思わせる一日だった。
 後日談 「西国札所古道巡礼」(松尾心空著)の中に、菅笠に記す偈文(けつぶん)を見つけた。
何処有南北 本来無東西 迷故三界城 悟故十方空(何処にか南北あらん 本来東西なし 迷う故に三界の城 悟る故に十万空)
 この際、東西南北は、「分別」の謂であり、財の有無、能力の優劣、地位の上下を意味する。なべての人は、仏の前に佇む時、全く裸身の人間として平等に他ならぬ。しかし、分別や差別はこのことを否定している。それ故に、東西南北もなし、とうたったのである。南極に立てば、全ての方角は北となり、北極に立てば、あらゆる方角は南となって、東西南北の区別は消え果てる。或る極点に立って人生を観る時、そこに分別は消えるのである。その極点とは、仏の世界であり、その住人となる限り、地位、財産、能力の区別は消え失せるのであろう。死を見すえた白装束も、裸形の人間像を象徴しているのである。そして、ひたすら歩み、たえ間なく歩み、歩み続けて懺悔の汗を流し、疲労の極点に達した時、はじめて見開ける世界こそ巡礼の心であり、これこそ原点といわなければならぬ。
 巡礼の原点について、このように書かれている。そして心空さんは多いときには二十名を超える老若男女を連れて西国三十三所を歩いて、何度も廻られておられるのだ。たった一人の同行者に思うようにいかないからと悪態をついて、二度と誘わないと思うわたしが、如何に傲慢で不遜であったかと、この
偈文を読んで懺悔するのである。人より遠く早く歩けること、経のひとつも詠めること、それが尊いことでも偉いことでも何でも無い。仏の前では東西南北もないのだ。謙虚な気持ちで巡礼を続けたい。
                                  おわり

 

 

 

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丹波西国三十三所道中記 六日目ー2

2024-01-15 | 徒歩巡礼

丹波西国三十三所道中記六日目-2 謎のお地蔵さま道標
 第十番 神池寺(じんちじ)
 2023.12.19(火)曇 
 経費:納経朱印代300円、自動車謝礼500円 計800円
 下三井庄の里はこれまで通過してきた塩久や香良、岩戸とよく似た地形で、細い扇状地をなしている、いわゆるシオ地形で、庄はシオではないかと勘ぐってしまう。気持ち良く下っていけるのだが、今回はやたらと寒い。昼時でお腹もすいているのだが寒いところでは食べる気がしない。風をしのげる建物でもないかと下っていくが、らしきところも無い。年配のご婦人に出会い、挨拶をする。「お詣りに行ってこられたんですか?わたしらもあの山登ってお詣りしたもんですよ」お話を聞きながら歩いて行くと左手にベンチのある公園らしきところが見えてきた。「ああそれは個人で造られた公園ですよ」こんもりとした丘に石碑やベンチがあり植樹もされている。後で調べたら「須磨子の里こども公園」というのがそれらしい。写真を撮ろうとしたら事件が起きた。スマホの画面が真っ黒になり作動しない。山を下りながら、「スマホも寿命だし買い換えんなんかなあ」などと話していたので本当に壊れたのかな。ここまでの記録や写真もおシャカとなると暗澹たる気持ちになる。気を取り直しスイッチを入れてみると、瞬間立ち上がろうとしている、こりゃあ電池切れだ。地蔵さまの写真を撮ったときには電池残量が65%だったのだが不思議だなあと思ったが、この低温が影響していることに気づく。そういえば冬山ではカメラがすぐ電池切れになるのでお腹にいれていたなあと思い出した。幸い予備バッテリーを持っていたので再充電すると回復、記録も無事に残っていた。寒い時は腹巻き状のスマホポーチ必携である。やれやれと落ち着いて昼食をとる。寒いのでそこそこにし、南に竹田川を渡り山添いの県道を国領に向かって歩く。先程の公園の所の道でもよかったのだが、次回佐仲峠に向かう道を確認しておきたかったので南側の道とした。夏場なら佐仲峠も越え高蔵寺まで足を伸ばしているだろうが、この時期では無理だ。国領を越え、余裕を持って道の駅に辿り着いた。

 さて前述の神池寺の地蔵さまの道標の件であるが、巡礼が神池寺から下三井庄、あるいは細見(福知山市三和町)に向かう可能性があるのだろうか。
 丹波西国を順番に巡れば十番神池寺→十一番高蔵寺(篠山市)となるから「右 三井庄笹山」は当然である。ただ、「左 細見そのべ」は道の方向としては合っているが巡礼道としては難がある。
「丹波西国三十七所道中記」(嘉永5年・「丹波の古道」(奥谷高史著)に記載)に奇妙な順番を見つけた。
 神池寺御朱印と丹波西国三十七所道中記(丹波の古道 奥谷高史著)
 八番高山寺(氷上町長野、現在は常楽)からいきなり十一番高蔵寺(丹南町高倉)に廻り、十二、十三、十四、十六、十五番東窟寺(篠山町藤岡奥)と廻り、そこから山越で西紀町に出て、高坂から鏡峠を越え下三井庄(しもみのしょう)から神池寺に登っているのだ。神池寺から黒井観音寺まで一里半、そして岩戸寺まで二里としているから、神池寺から観音寺までは国領を経由したようだ。つまり八番高山寺から氷上町、市島町、春日町を飛ばして丹南町、篠山町を回り、戻ってから戸平峠を越え三和町、寺尾から菟原中の新西国百観音堂に廻っているのだ。(町名は分かり易いように旧のものを使用)
 丹波西国三十七所道中記附図(複写)
 「是より同八番(重番)を残す十一番の大山村高蔵寺へ三里此方道順よし又此所は成松の町へ打戻るか又は難所なれば打越に出るかいづれ川向の本郷村へ渡り稲継石負村より但馬街道柏原御城下を通り、鐘坂を越え追入町宮村云々」とある。当時の高山寺は長野(おさの)にあったと言うから現在よりは南に位置していたとしても、どう考えても此の道順が良いとは思えないのだ。成松に戻るのが難所なればと言うのはおそらく川(葛野川)のことだと思うが、いずれにしても川向には渡らなければならないのだ。そして神池寺に打ち戻るまでには三つの峠を越えなければならない。順に廻れば二つで済むわけだし、菟原中の百観音に行くにしても栗柄から鼓峠を越えれば、戸平峠より随分近道である。
 当初細見は新西国百観音堂(三和町菟原、細野峠)に向かう道と思っていたが、地蔵さまが出来た時には百観音堂はまだ無かったのである。わかりやすいように時系列で示すと次のようになる。
 神池寺地蔵さま道標設置    1806年 文化三年
 丹波西国三十六所道中記改版  1807年 文化四年
 百観音堂建立         1845年 弘化二年
 丹波西国三十七所道中記再改版 1852年 嘉永五年
 三十六所というのは重番が3ヶ所あるわけで、三十七所に改版されているのは百観音堂が新たに追加されたためである。いずれにしても神池寺の地蔵さまは百観音堂が出来る39年前に祀られたもので、細見というのが百観音堂を指しているということはあり得ない。ただ神池寺から京丹波町井尻の松ヶ鼻堂へ向かう可能性は無きにしも非ずというところである。おわり
 

 

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丹波西国三十三所道中記六日目-1

2024-01-13 | 徒歩巡礼

丹波西国三十三所道中記六日目-1 謎のお地蔵さま道標
 第十番 神池寺(じんちじ)
 2023.12.19(火)曇    
巡礼者:小原英明 山本英樹
行程: 道の駅丹波おばあちゃんの里発 8:00ーーー→9:00日ヶ奥渓谷キャンプ場着(5分休憩)ーーー→10:30神池寺着・11:15発ーーー→12:30須磨子の里こども公園着(昼食35分)発13:05ーーー→道の駅着14:35

第十番 妙高山神池寺 天台宗 丹波市市島町多利2609-1 (0795)85-0325
ご本尊 十一面千手千眼観世音菩薩

  神池寺表参道は岩戸寺から続く北面の舗装道なのだろうが、この道を歩くのは気が進まない。前回見つけた日ヶ奥渓谷から妙高山に登る道が楽しそうなのでこちらから登る。下りは下三井庄(みのしょう)に下りる道が佐仲峠から高蔵寺に行く際にも最短となりそうだ。
 山本君の車でまず岩戸寺に前回の朱印をもらうため寄ってみるが、今回も不在であった。車を道の駅丹波おばあちゃんの里に置き歩き始める。今回から冬の登山ズボンに登山シャツ、白のウィンドブレーカーに笈摺(おいづる)スタイルに替えたが、ウオーキングサンダルと素足、素手はそのままで結構寒い。道の駅の北の道路を東に進む、高速道、竹田川、県道を越えて行くと道の真ん中に不動さんが頑張ってる交差点に着く。
 不動さんが頑張ってる交差点、ここを左に曲がる。
 そこを左に行くと町並みが途切れ先程の高速道(舞鶴自動車道)に出合う。立派な案内看板が有り、そこからは高速の側道を歩く。車の通行も無く歩きやすいが、途切れることの無い自動車の騒音はストレスである。高速道が多利の村の里山を分断してしまった感があるが、蓮華寺という大きなお寺だけが山側に残っている。側道が終わり、自然と日ヶ奥渓谷に向かう道となる。この辺りも道標がしっかりしてあり、シーズンにはキャンプ場へ行く車で賑わうのだろう。1Km程でキャンプ場に着き、ここからは林道、やがて山道となる。山道になってからは道が複雑に交差していて戸惑うが、どう行っても神池寺に行けそうだ。
 日ヶ奥キャンプ場駐車場、舗装道はここまで。 ここから林道、山道
 古い道標が残っているが見落としやすい。傾斜が落ちてくるとお墓が現れてお寺に近づいた感がある。広い境内にはいくつかのお堂が有り、観音様を探すのに苦労する。観音堂と書いてあるところには、沢山の観音様を参れるようにしてある、お砂踏みといったろうか。恵比寿さんとかあり、どうもここにはご本尊はいらっしゃらないようだ。もう一度外に出て探すと、まだまだ長い石段が有り、その先に立派な本堂があった。いつものように参拝してお経を上げていたら急に寒くなってきた。そういえば下から400m以上登っている。
 このスタイルでは寒いぞ。  本堂でお参りして記念撮影
 本堂を降りて庫裏に向かう。乗用車が止まっているのでご在宅と思ったが、残念ながら不在のようであった。やむなく先程の観音堂に書き置かれた朱印を戴いて帰る。ご住職にお会いせずして帰ることは、なにか物忘れしたような気がして寂しいものである。
 駐車場を抜け少し行くと大きなお堂に出合う。明治大覚殿と地図にあるのがこれだろうか。そしてその先道の分岐があり、なんとも風情のある地蔵さまの道標が出てきた。
 
「右 三井庄笹山 左 細見その?」文化三年の銘がある。?は濁点があり、”べ”のようだ。下三井庄から神池寺に至る道は神池寺の裏参詣道として盛んに使われた道だからこの道標は誰もが承知のものだろう。しかしここから細見(福知山市三和町)、園部にいたる尾根道は、生活道路としては考えにくく、やはり丹波西国の巡礼道と考えるのが妥当だと思われる。ただ、神池寺から京に上るには最短のルートであろうから、「太平記」にある神池寺衆徒が六波羅探題攻略のため都に赴いたのはこの道ではなかろうかと想像する。丹波西国巡礼道とするにはいくつかの矛盾点もあり、この件に関しては後述する。
 分岐点の近くに「麻呂子親王???」という朽ちた看板が落ちていた。丹波丹後には麻呂子親王伝説が数多くあるが、下った先にも「下三井庄塚古墳、麻呂子皇子腰掛けの岩」というのがあり、なにがしかの伝説が残っているのだろう。下三井庄に下る道は、そのほとんどが林道、作業道に代わっており古道の面影はない。山を下りきったあたりに宝篋印塔と古い石塔が並んで祀られているところがある。
 一周してみたが解脱はどうも、、、
 一周すると解脱するとか書かれた看板が怪しげだが、宝篋印塔などは本物のようだ。元々この地にあった様には見えないが、遠くから運んでくる必要も無いし、近所に存在していたのだろうと思われる。三井庄が古い土地柄なのだろう。林道を下っていくとおきまりのゲートが現れる。これが随分立派な造りで一人ではとても開けられない。二人で閂(かんぬき)を向こう側に落としてようやく外に出る。一人で通行される場合は、扉を開けずによじ登る方が早そうだ。つづく

 

 

 

 


 

 

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丹波西国三十三所道中記 二日目ー1

2023-12-16 | 徒歩巡礼

2023.7.21(金)快晴 
   丹波西国三十三所巡礼二日目 一番観音寺~円浄寺(三番法光寺管理)
 観音寺発 12:00  土 Oさん宅昼食 (0:40~13:20)
 円浄寺着 14:55  発 15:25   福知山駅着 16:00
 歩行 10.1Km   
 経費 あやバス 500円 JR 240円 朱印 300円 水 150円  合計 1,190円

 今回初めて同行者と歩くこととなった。Kさんは将来四国八十八ヶ所を回りたいので、練習のため同行したいと言うことだ。観音寺で11時に待ち合わせたのだが一向に現れない。たまりかねて電話すると高津八幡宮に居るという。「なんでお寺巡りするのにお宮さんに行くんや?」「駅を降りたら八幡宮の大きな看板があったので、ここかなっと思った」という意外な返事。温厚な(?)わたしもムッとくる。待つこと30分、堪りかねて迎えに行く。府道の手前で見つけて、観音寺まで案内しお参りを勧める。山門で待っているが一向に帰ってこない。また堪らず境内を探しに行くが本堂付近には見当たらない。受付のところで佇んでいると遊歩道のあじさいの陰からひょっこり現れた。「石柱に色々良いことが書いてありますよ」とのんきな様子に温厚な(?)わたしもイライラする。結局予定より1時間遅れて観音寺を出発。
  観音寺仁王門出発
 府道より一本南の昔の街道らしき道を歩く。ただ周囲の家々は新しく、地蔵さんや道しるべなども見当たらない。二人で生い立ちやら世間噺などしながら歩くが、梅雨明け十日とか言う年中で一番暑い時期の真っ昼間だ、暑いことこの上ない。石原(いさ)の府立工業高校の下の水取公園に立派な道しるべを見つける。「すぐ福智山 左 ひろ三年道 こんひら 願主正覚院」とある。ひろは姫路の広峰神社、こんひらは四国の金毘羅さんと推定される。福知山と播磨方面への分岐の道標で丁度このあたり通行の要だな、やっぱり街道なんだと納得していたら、何と道路工事の際に移転されたものと書かれている。元の位置は石原○丁目101番地云々とあるが、福知山と長田野を越えて播磨方面に行く道の分岐点なのだろう。
 水取公園の道標
 また、暑い中を歩いて行く、なるべく旧街道を歩きたいと思っているが、市街地が拡がっている今日、一体どれが街道か解らない。たまに地蔵さまなどあったら、ここなんだと納得して歩く。元気にしゃべっていたKさんの歩みが遅くなる。土(つち)の辺りではかなりしんどそうなので休憩できる日陰を探すが、一向に見つからない。真っ昼間なので建物は陰を造らない。このままでは彼は脱水にでもなりそうだ。その時とある住宅の駐車場を掃き掃除しているご婦人を見つける。駐車場に車は無く、植栽の木が木陰を造っている。「すみません、弁当をとるのに木影を貸していただけませんか?」「いいですよ、かたづけますから使ってください」地獄に仏の心境で車止めに並んで腰掛ける。すると先ほどの奥さんが家の中から冷たいドクダミ茶とアイスクリームをお盆に入れて持ってこられた。これがお接待というものか、初めての経験に両手を合わせてありがたく頂戴する。するとKさん、「そんな気を遣わんといてください」礼儀のつもりで言ったのだろうが、「こちとら、あんたのために場所を借りたんだぜ。有り難く頂戴しろよ」と心の中でつぶやく。
 木陰をお借りして、接待を受ける。
 二人並んで弁当をひろげて昼食が始まる。するとKさん、ザックの中から凍ったビールを出しておもむろに飲み出した。巡礼の途中に飲酒は、、というより熱中症の危険が大ということが問題で、ムッときたが飲むなとも言えず行き先を案じていた。食事を終え、厚く御礼を言って炎天下の中に飛び出す。休憩の効果で順調に歩き出し、土師橋を越える。府道を南に歩いていると、Kさんオシッコがしたいと言う。街中のこととてそこいらで済ませるわけにもいかず、「川の行に行けばどっか出来るでしょう」と言って路上で待つこと数分、とても長く感じられた。やっと帰ってきたと思ったら小走りで、先にあるスーパーにむかい「ちょっと休憩しませんか、トイレに行ってきます」どうやら大の方をもよおしたらしい、昼間に凍ったビールなんか飲むからだ。待つこと10分あまり、イライラ通り越して諦めムードになってきた。それでも気を取り直して、大正小学校下の小川の道を東に進む、もう円浄寺はすぐそこなんだがKさんの様子がおかしい。いかにもしんどそうなので、円浄寺に上がる坂の下の木陰で休憩させる。この時点で1ℓの水と500㎖のボトル半分を飲み干していた。つづく




 

 

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西国三十三所徒歩巡礼二日目-3 ’23.10/13

2023-12-01 | 徒歩巡礼

西国三十三所徒歩巡礼2日目-3
2023.10.13(金)曇、晴れ  越すに越されぬ七廻八峠
 小寺に下りて栗田の街道を脇へ歩く。どのガイドブックにも七廻八峠は通行不能と書いてあったので、最初から念頭に無かった。実はわたしたちは朝、車で成相山に向かう途中で脇の山道の入り口を確認している。津田さんはトンネルの迂回路だと言っていたので国道を避け少しばかり山道を歩くものだと思っていた。
 国道を渡り、作業道に入って行く。 
 実際に歩いてみると、作業道のような道はすぐに行き止まりとなり、わずかな踏み跡が細々と続いている。地図アプリでは誰かが歩いた形跡があるので、一応なんかのルートなのだろう。だんだん国道から離れる感じで不安になってくる。やがて細々と生えていた細い竹がびっしりと生い茂り進退窮まるようになってきた。鉈は用意していないし、笠は藪漕ぎにはやっかいな障害となる。こりゃあ引き返すしかないなと諦めかけたとき、左下に林道が走っているのが見つかる。これなら国道に戻れるだろうと歩いて行くと国道を渡る橋にたどり着いた。ところが傾斜が急で国道には下りられない。ままよとばかりに林道を下っていくと、なんと最初登ってきた場所に辿りついた。キツネにつままれたような感覚で、一時間近く500mほどの山中を彷徨っていたわけだ。国道に戻り奈具の海岸沿いを歩く。海の景色は抜群だが、上り下りひっきりなしに走る車の騒音は随分ストレスだ。展望のよい休憩所で一服しているとドライブに来ただろうペアが近づいてきて、「これ道の駅で買った干物ですが、食べてください。歩いて巡礼されている方は初めて見ました。」所謂接待を受けたわけだが、何とも嬉しくて早速いただく。どんどん歩くと由良の集落が見え始め、汐汲浜の公園に着く。
 汐汲浜公園  由良側の七廻八峠入り口
一休みして右手の旧道に入る。少しして山手に「七曲八峠 山椒太夫首挽松」の看板が現れる。ここで初めて七廻八峠のことに気づく。ひょっとしたらわたしたちが敗退したところは峠の栗田側の道だったのだろうか。
 宮津での寄り道と山道でのロスタイムで由良から先は断念し、由良駅から津田さんは橋立へ、わたしは西舞鶴へと帰ることにする。適当に駅に向かって歩いていたら、電車の音がする。どっちかなと思いきや、橋立方面のようだ。駅にたどり着いたときには、もう乗降は終わり将に出発しようとしている。諦めかけたとき女性の駅長さんが電車を停めてくださり、津田さんは陸橋を走って渡り、車中の人となる。ローカル線ならではの珍事で楽しい気分になる。わたしはと言うと一時間以上の待ち時間があり、駅舎内の茶店でコーヒーを飲みながら文庫本を読んで至福の時間を過ごす。
 後日談だが、敗退した山道は七廻八峠の道ではなく少し西の何でもない道と判明した。津田さんは再度現地に赴き、地元の人に峠のことを聞いてこられ、詳しい地図も入手された。次回こそ七廻八峠と蔵王峠を越えて西舞鶴に至る楽しいコースを歩きたい。また、宮津のカソリック教会、宮津洗者若翰天主堂(みやづせんじゃよはねてんしゅどう)が重要文化財に
指定されたという嬉しいニュースが新聞に載っていた。
  天主堂とその内部 
終わり

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西国三十三所徒歩巡礼二日目-2 10/13

2023-11-20 | 徒歩巡礼

2023.10.13(金)曇、晴れ  越すに越されぬ七廻り八峠
 路地を南に下がって、大手川を渡り東に進む、宮津駅の南の踏切を渡り適当に東進すると府道45号線(宮津舞鶴線)に出る。皆原で分岐道となり、府道は左に、右は旧道らしい。右を行くと川沿いの道となり、細くていかにも街道らしい道となる。直線的に登る旧街道を府道はうねうねと曲がりながら頭上を走っている。車を走らすため傾斜を緩くしているのだろう、歩くには旧道が最適。最後には府道に合流するのだが、この辺り大きくて立派な家が並んでいるが、いずれも空き家のようで物寂しい。緩い傾斜の道を歩いて行くと、山中との村境だろう、妙なわらの作り物が電柱にぶら下がっている。
  元々綱にぶら下がっていたのは海老のようだ。右手に綱の残骸が残っている。
 その向の岸(斜面)に藁綱の切れ端が残っている。「こりゃ奈良では勧請縄(かんじょうなわ)というて、村境の魔除けや」と津田さんは言う。村境の道に注連縄(しめなわ)を張渡し、草履や蛇、龍、海老や蛸など海産物の藁人形をつり下げ、村に侵入する疫病や、悪霊を防ぐおまじないで道切りというそうだ。(民俗学辞典)そういえば電柱に下がっているのは海老のように見えるし、岸の綱は蛇のようにも見える。九州だったろうか、村境に巨大な草履があったのもこのたぐいだろうか。いずれにしてもこんな風習が残っているのはとても楽しい。
 しばらく行くと、左手に道標やら六地蔵やらのある辻に着く。右に行くと和泉式部の墓、左に行くと栗田(くんだ)小寺に行く。ここでお昼とする。お地蔵様はきれいに化粧されて地元の信仰の厚さを感じる。
  六地蔵と道しるべ
 道標は一つには「右まつのをへ」とあり、この道が西国巡礼道であることを示している。もう一つは「右大川 左〇〇田」とある。大川とは府道が由良川に出る辺りで、大川神社がある。〇〇田はおそらく「くん田」で、これが今日目指す道である。栗田へはもう一つ先の新宮から脇に出る自動車道があるのだが、遠回りだし面白くなさそうなので、この道を行こうと思っている。
 西国巡礼道は寛政三年の巡礼地図では栗田~七廻り八峠~由良~中山~田辺(西舞鶴)となっているが七廻り八峠が難所のため、山中から板戸峠を越え大川に出る道が使われたのではないか。従って小寺から山中への道は栗田から七廻り八峠を通らずに行くエスケープルートとして使われていたかもしれない。
 西国巡礼に使っているガイドブックは心空さんの「西国札所古道巡礼」「西国三十三所古道徒歩巡礼地図」、加藤淳子さんの「街道を歩く西国三十三所」の三冊なんだが、巡礼地図は大川への道、府道45号線を通っており、徒歩巡礼では奈具の海岸沿い、国道178号線を通り、街道を歩くはわたし達の通った道を試みているが、通行不能として新宮から脇の自動車道を利用し、奈具の海岸沿いを歩いている。そして両人とも七廻り八峠は通行不能としているのだ。
 三冊のガイドブック、どれも徒歩巡礼を旨としていて素晴らしい。
 今回の巡礼コースに参考となるのは、加藤さんの「街道を歩く」なんだが、というよりはそれによって今回のコースを決めたという方が真相である。加藤さんは46歳の時初めて谷汲山の巡礼道をご主人と一緒に歩かれ、ご主人が亡くなられても単独行で64歳で全コースを終了されている。巡礼道、旧街道に従って歩いておられることと、日帰り、一泊程度を単位として歩かれていることが丁度わたし達の巡礼と合致しており、地図や写真もふんだんに取り入れられていることから重宝している。ただ「西国観音めぐりは歩いてこそ!」と言っておられるのだが、車が多いところ歩きにくいところなどバスなど交通機関を利用されたりされているところは残念である。また、古道など見落とされているところや発見できずに断念されているところも多く、女性の一人歩きでやむを得ないところもあるが少し物足りない。
 山中から小寺の山道も加藤さんは途中で道を見失い引き返し、新宮からの舗装道(府道603号)を利用し、脇に出ておられる。彼女は柳田国男氏の「北国紀行」に山中小寺間の道を通ったとあるのでチャレンジされたようだ。
 さてわたしたちは順調に進んだが、加藤さんが迷った送電線の下あたりでやはり道を見失った。
   
左:送電線下の踏み跡 中:林道に降りる 右:海が見えるとなにかうれしい。
 どうも西の方に踏み跡を辿ったようで、怪しいと思い元の位置に戻りあらためて踏み跡を探す。ブッシュの中にそれらしきものを見つけえいっとばかり進むと踏み跡が続いている。獣道に毛の生えたような道だがなんとか下っていける。蜘蛛の巣と倒木との戦いで、面白くもなんともないがやがて左下に林道が見え、ほっとする。適当なところで林道に降り、しばらく行くと視界が開け、いつものことながら黄泉国から生還したような気分になる。とここまで言えば、読図も完璧でルートファインディングもバッチリと見えるが、じつは何を隠そう地図アプリに頼りっきりで、これが無ければ加藤さん同様送電線の下で尻尾巻いていただろう。このことは往年のアルピニストとしては情けなくもあり、不安なこともこの上ない。五万図とコンパスは持ってはいるがザックから出したことは無い。
 人里に降りてきて、生協さんのトラックにあう。「ここはなんと言うところですか?」「くんだですよ」「・・・・」
栗田のどこか聞きたかったのだが、、、、。つづく
 
 
 
 
   

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丹波西国道中記・五日目-3

2023-11-10 | 徒歩巡礼

2023.10.31(火)快晴 「納経朱印がもらえない」
補陀洛山観音寺跡~岩戸寺

 《経費》
交通費 バス代490円 電車代240円 車謝礼500円 駐車料100円 計1、330円
賽銭等 朱印代600円 入山協力金300円  計900円  合計2,230円

 第八番(廃)補陀洛山観音寺跡 丹波市春日町黒井
   興禅寺の下の道を市島方面に200m、天満神社隣忠魂碑の広場に寺跡の石碑あり。

 英樹君の横に寺跡の石碑あり 
 補陀洛山観音寺は廃寺となり、昭和41年に倒壊した。江戸時代の中期に三十三所に参入したとあり、高山寺と共に第八番となっている。今日まで九寺を巡り来て、二寺が廃寺となっていたのは淋しい限りである。ガイドブック(丹波国西国と御詠歌・志保美円照著)では以降四ヶ寺が廃寺となっており、無住の寺は数多くある。わたしが子供の頃は何処のお寺にも住職がいて無住寺、廃寺などと言うのは見かけなかった。日本はこの間劇的な経済発展を成したわけだが、お寺に関してこの現状はいったい何なのだろう。過疎化だけがその原因ではないのではないか。とにかく廃寺、荒れた無住寺を訪れたときはなんとも空虚で淋しさを憶えるのである。
 観音寺跡について興禅寺で聞いたところ、「下の道から少し入るので、解りにくく見つけられないでしょうね」と言われ、不安になる。ガイドブックには興禅寺の下の道を200m、山側の広場とあるので簡単に行けそうに思ったのだ。注意深く下の道(陣屋町と呼ぶそうだ)を行く、すると山側に小さな祠があり細い道が斜めに上がっている。祠は神社のもののようだがかまわず進んでみると、忠碑碑のある広場があった。ここに間違いない、後から来る二人を呼んで思い思いにお参りする。
 忠魂碑の隣に「補陀洛山観音寺跡」という石標があり、その裏面に御詠歌「さしてくるおちこち人も世をすてて 同じ黒井の 黒染のそで」と石碑建立の所以が記されている。
 元来た道を戻らずに、真っ直ぐ下に下る道を行く。ここは天満神社の参道であり陣屋町の道に出合うところに「黒井の天満神社」という洒落た看板がある。ここから入れば寺跡は入りやすい。
 
 第九番 明燈山 岩戸寺 真言宗 丹波市市島町岩戸 (0795)85-2260
  本尊 千手観音 とこやみの人の心をてらさんと 岩戸の寺に 朝日うつろう
 岩戸寺への道は「丹波の古道」(奥谷高史著)に「是よりかもの庄岩戸寺へ二里小田(多)利村より
北村へ行川あり大水の時は市島へ廻る」とある。北村は喜多で川は鴨庄川であろう。鴨庄川には橋がなくて、市島には竹田川に二本の橋があって鴨庄川の南から北に廻れるってことかなと想像するのは楽しい。わたし達は道なりに下っていき、線路を越えて線路脇を北上多利に出て、小富士山の麓を北東に進み鴨庄川を渡り、岩戸寺に続く西側の道を登っていった。道中は街道の風情は無かったが、観音寺から岩戸寺への巡礼道だろうと思う。岩戸寺への道は小川を挟んで二本走っていて、その間は豊かな田園地帯となっている。細長い扇状地と言ってよいのだろうか、わたしは塩地形と呼んでいる。こういう地形には塩地名が良くあるのだが、地図上では見られない。(株)塩谷牧場というのがマップに載っているので塩谷があるのかもしれない。段々傾斜がきつくなってきて、岩戸寺の石段下にたどり着く。
 山門から本堂まで二百六十有余段という長い石段。
 長い石段の途中にペットのお墓がある。昨今あちこちのお寺で増えてきたが、家族の一員として過ごしてきたペットの安息の地として嬉しいことである。石塔には「一切衆生」とあり、生きとし生けるものすべて、という意味だろう。
  
 さて本堂では作法通りお勤めをし、下の庫裏に急ぐ。お寺に来る手前で、「ご住職はご在宅でしょうか?」と訪ねたところ「先程出られたようです」とのことだったので少し不安でもあったのだ。庫裏は鍵がかかっており、呼び鈴を押しても応えは無い。
   境内に西国三十三所の仏様が祀ってある。
 岩瀧寺の場合は納札所に朱印が用意されており、料金を払って戴けるようになっていたのだが、そのような様子も見受けられない。納経朱印を戴くのが目的ではないけれど、お参りしながらも欠けているのはなんとも寂しい。次回神池寺に行く際に車で来て戴こうと決め、後ろ髪引かれる思いで岩戸寺を後にする。その時間が16時15分、市島駅の電車の時間が17時19分、またしても微妙な時間だ。一人だけなら走ってでも行くのだが三人となるとそうはいかない。
 馬橋、次回はこの橋を起点にしよう。
 その上秋の日はつるべ落とし、歩くほどに暗くなってくる。時計とスマホの地図を見ながら歩くのだが、県道59号線の市島駅の矢印に騙されて大回りしてしまう。道案内は車用のものだったのだ。暗闇の中を市島駅に着いたのは6分遅れの17時25分、次の電車まで一時間余り。「駅前にうどん屋でもあったらなあ」一昔前ならいろんな店があったのだろう、ここでも経済発展っていったい何なのだろうと悲しくなる。
 「今日は遠回りしたおかげで30Kmをクリアしたやろなあ」実はわたし自身巡礼歩きを何回もしつつ、日に30Km以上歩いたことは無いのだ。トレーニングで30Kmを走ることはさほどしんどくもないのだが、30Km歩くことがこんなに大変なことかと感じていたところである。「残念~あと300m、歩いてくるかい」ハンターズムーンというのか大きなお月様が笑っていた。合掌

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丹波西国道中記・五日目-2

2023-11-06 | 徒歩巡礼

2023.10.31(火)快晴 「納経朱印がもらえない」
天王坂~興禅寺
大梅山 興禅寺 第八番(廃)補陀洛山 観音寺跡管理寺 曹洞宗 丹波市黒井町
 興禅寺は丹波西国札所ではないのだが、廃寺となった補陀洛山観音寺の管理をされている。
 春日局(徳川家光の乳母)誕生の地とされている。黒井城の下館として、堀や石垣に面影を残している。

 高山寺から興禅寺へは由良峠と天王坂の二つのルートがある。由良峠は山道で魅力なんだが、天王坂は舗装道路だが確実そうだ。朝歩いてきた道を戻り、県道7号線を横切り、南由良に向かう道を進む。この辺り広々とした田園地帯なんだが、周囲の山並みが素晴らしい。トレイルランにはもってこいの感じなのだ。実際に大きな大会が開催されたようで英樹君も走ったという。途中から直角に南に折れ県道285号線を行く。自然と天王坂に導かれ、たどり着いた切り通しの峠で一服する。峠は車道の切り通しとなっているが元々は良い峠だったと思われる。分水界五台の径という縦走路となっていて、最初に越えた塩久峠にも繋がっている。この縦走路もトレイルランに使われたようだ。峠で休憩して下りにかかるとすぐに、大石りくの案内看板がある。どこかで聞いた名前だなあと思っていると、赤穂浪士で有名な大石内蔵助の妻である。彼女が里帰りの際、この峠にさしかかったところ急な腹痛が起き、石清水を飲んだところ、たちどころに治ったという。よくある話だが、後にそのことを感謝し石碑を建て、現存しているというからどうやら実話らしい。
  天王坂と五台山へ続く縦走路

  大石りくの案内、下に降りると石碑が祀られている。
 石碑は下方の谷筋に祀られているそうだが、そこが元々の街道だったのだろう。後で地図を見ると谷筋に破線の径が走っている。しまった降りて行くべきだった。面白くも無い舗装道を下っていくと、下りきったところに舟城神社という大きな神社が現れた。「牛の守護神舟城の天王さん」とあり、地名も天王というのがあるので、天王坂の由来がわかる。
 道からは遠く黒井城跡の城山が望める。この山にも何往復もするレースが開催されていたそうだ。あの山の麓に目指す興禅寺があるのだ。
  真ん中に見えるのが城山、道中の六地蔵で一服。
 小学校が見えると興禅寺はすぐ、隣に惣門と参道がある。この惣門は黒井城の門材を使用したとかで、記念撮影をパチリ。
 
 興禅寺は黒井城の下館であったため堀や石垣が壮観である。観音様はいずこにと訪ねると、本堂脇のお堂に祀られており、揃って参拝する。この観音様は元々観音寺(廃寺)にあったものが能勢の観音寺に移り、現在はここに安置されているという。両脇におられるのが観音様と聞いたが、中央におられるのはどうもお大師さんである。「禅宗のお寺にお大師さんが祀られているのは不思議だなあ」と津田さんがつぶやいていたが、後で聞くと少し下にかつて大師堂があり、廃堂の際に預かったということで納得である。納札朱印を戴き、石垣下の春日局庵という休憩所で昼食をとる。時間によっては黒井城跡に登って黒井駅から帰ろうかと話していたのだが、余裕がありそうで岩戸寺まで行くこととなる。つづく
 

  

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丹波西国道中記・五日目-1

2023-11-03 | 徒歩巡礼

2023.10.31(火)快晴 「納経朱印がもらえない」
 西国三十三所と丹波西国三十三所を同時に回って記事を書いていたら、なんとも複雑になって訳が分からなくなってきたので、タイトルを丹波西国道中記に変えることにした。それと道中の記録だけでなくお寺の情報を入れて、巡礼を志す方のお役に立ちたいと考えている。西国三十三所についてのタイトルは従来通り、「西国三十三所徒歩巡礼」とする。
 
 「この歳になってお寺参りするとは思わなんだなあ」
「僕もそうやねん、お寺に出入りしているからそうなったんやろねえ」英樹君と話しながら岩戸寺の長い石段を登っていく。後ろを歩いている津田さんとの出会いも不思議な縁だったが、英樹君とはもっと不思議な縁がある。彼は小学校、中学校の同級生なんだが、中学卒業後は何のつきあいもなかった。二十数年たって、大阪舞洲のトライアスロン会場で、ばったり会った。わたしは審判長をしておりプログラムに照会されていたので訪ねてきたのだろう。同級生でトライアスロンをやってる人物に会うこと自体が不思議だと思ったが、その場は健闘を祝して別れた。以来また二十数年没交渉だったのだが、三和町岼(福知山市)の山中で出会うこととなる。真夏のくそ暑い中、路上で休憩をしていたとき、向こうから真っ黒な顔つきの人物がランニングスタイルで走ってくるのだ。酔狂な奴がいるなあと声をかけると、それが英樹君だったのだ。なんでもトレイルランをやっていて、その世界のその年代ではトップクラスの活躍をしているという。わたしも勧められたが一向に興味も無く、またしても十年近く没交渉となった。そして昨年上林にてトレイルランが開催されることとなり、参加することとなったのだがなにしろトレイルランについてはまるで素人である。英樹君のことを思い出し、連絡を取る。我が事のように喜んでくれ、上林の山や大江山で一緒にトレイニングすることとなった。再々再度の出会いである。
 八十歳まで走ろうぜと励まし合いながら頑張ったのだが、わたしはレース前日体調を崩しDNS,彼も病でリハビリ中となった。そんな時わたしの始めた徒歩巡礼に、一緒に歩きたいと言ってきた。前回の丹波西国巡礼が同行の始まりだが、二十数キロを歩き通せたことが随分と自信に繋がったようで、誘った甲斐があった。彼は庭仕事で真言宗のお寺に出入りしているので、自然と巡礼に取り付けたのかもしれないが、それまではおそらくわたしと同様お寺にも仏さまにも縁の無い人生だったろう。それが笈摺(おいずる)を着て並んでお寺の石段を登っているのは、なんとも不思議な縁というか、不思議な出会いなのである。

2023.0.31(火)快晴
丹波西国三十三所巡礼五日目
 八番高山寺(丹波市氷上町)~興禅寺(丹波市黒井町)~八番補陀洛山観音寺跡~九番岩戸寺
 ※八番は二カ所あり、興禅寺は観音寺(廃寺)の管理寺 

メンバー:小原、山本、津田
タイム :石生駅西口バス停7:31 (バス)      7:55香良口バス停
     香良口     8:00 (徒歩)      9:00高山寺
     高山寺発    9:30          10:50天王坂峠
     天王坂峠発   11:00         12:10興禅寺・昼食
     興禅寺発    13:00         15:55岩戸寺
     岩戸寺発    16:15         17:25市島駅着

 丹波西国の件は伝えていたのだが、前日に津田さんが是非一緒にということで3人の巡礼となった。英樹君の運転で石生駅に着く、道中の戸平峠は彼のトレーニングコースだそうでしかも夜に走るというから驚きだ。バスで前回の最終地点、香良口まで乗車、学生さんで一杯だ。バス道はこれから歩く予定の道で、狭かったり車がやたら多かったりする。香良口を出発し、狭い歩道を縦になって歩くが、車道はひっきりなしに車が続く。途中分岐した旧道に入るが、すぐに新道に合流する。たまりかねて加古川u右岸の農道を歩く、風情はないが車は通らず歩きやすい。
 「丹波が謎であるのは霧が深いせいだと思う、、、」春木一夫
先程のバス道に出る、これは巡礼道である。
県道109号線に入ると「高山寺」の案内看板も出てくる。右手の石塔がある路地を入ると自動的に高山寺に着く。
 第八番 弘浪山 高山寺 真言宗 十一面観音 丹波市氷上町常楽
 その名も高山寺へめぐり来て 身のおいずるをぬぎてこそおけ
 弘浪山の頂上近くに建っていたが、昭和35年に現在地に移転、参道の紅葉は季節には素晴らしいだろう。唐破風の庫裏は特徴的で、仁王門は彩色鮮やか。
   
石畳の長い参道は両側に灯籠が続き、紅葉のトンネルとなっている。今は青々としているが季節には素晴らしい風景となるだろう。本堂でお参りして庫裏で納経朱印を授かり高山寺を後にする。つづく


 
  

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西国三十三所徒歩巡礼二日目 10/13

2023-10-14 | 徒歩巡礼

2023.10.13(金)曇、晴れ  越すに越されぬ七廻り八峠

巡礼者: 小原、津田
タイム: 成相寺着 8:00    成相寺発 8:15
     参道分岐点8:35    天橋立  9:30
     文殊  10:15   
     カトリック宮津教会着 11:00   発 11:20
     山中十字路着 12:00(昼食)   発 12:30
     小寺国道178線13:40      七廻八峠ロスタイム約60分か?
     由良15:35            丹後由良駅 16:00

https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-6046431.html

 待ちに待った巡礼の日が来た。とは言っても前の日には妙に緊張する。というのは今回のルートは記録では通行不能の峠がいくつか含まれているからだ。
 津田さんの車で成相寺の駐車場まで送ってもらう。津田さんは天橋立に車を置いて、参道を登ってくると言う。成相寺は8時の開門なので受付で待っていると、係の人が出勤してこられたので少し早くに入れてもらう。
  第二十八番 成相山 成相寺
 まだ網の幕が張られている本堂で、作法通り開教偈から本尊真言までお経をあげていると8時になり改めて真言を唱える。納経の朱印をいただき、記念撮影をして成相寺を後にする。下りはかつての参道を下るべく、バス道を降りていく。旧参道は地図には破線で示されているが、心空さんも歩いていないし、加藤淳子さんの参考書「街道を歩く 西国三十三所」でも分岐点が解らなかったとある。バス道は時々視界が開き、阿蘇海側の絶景が素晴らしい。
  下っていくと五重塔があり、やがて阿蘇海の景色が現れる。
 なにより誰一人あうこともなく、心ゆくまで眺められることがいい。やがて右手に災害で荒れた地形が現れ、そこに草深い山道が続いている。
道標も何も無いのだが地図アプリで見るとここが分岐点だ。ザックを下ろして地下足袋に履き替えていると草道の向こうから「小原さ~ん」と声がかかる、津田さんが登ってきたのだ。さっそく草道を降りていくがあまり人が歩いている様子は無い。近畿自然歩道として整備されていただろうロープの柵や道標がある。一ヶ所展望所があり、天橋立とその周囲の景色が最高のところがある。下っていくほどに道はきれいになり、地蔵や板碑など現れて参道らしくなる。旧街道の参道入り口にたどり着くとそこには立派な道標が立っていた。
   
天橋立の絶景、一の地蔵そして板碑群
 正式には成相寺参詣道本坂道というようだ。成相寺は観光客も含めて多くの参拝者があり、入山料他いくらかの収入があるだろうから、その極一部でこの参詣道の整備をしてもらえないかと思う。道といい景色と言い絶好の場所なのだから。
 本坂道入り口
 朝の準備に忙がわしい土産物店を横目に天橋立を歩く。10年続いた天橋立トライアスロンの会場だったので、スタッフをしていたわたしは何度ここを歩いたことだろう。あの頃は若かったなあと妙な感傷に浸ってしまう。外国人の観光客が多く、聞き慣れない言葉が飛び交う。わたし達の姿はきっと奇異に映っているだろうが、誰も気に留めている様子はなく、嬉しいような残念なような、、、。「ここは西国巡礼の道中でも随一の景色だろうね」と話ながら歩く。
 文殊から国道を行くと、犬堂の碑という珍しい石碑に出合う。江戸時代に賢い犬が寺用を果たしていたが亡くなったのでその死を憐れんでお堂を建て、やがてお堂が壊れて石碑を建てたという。何とも立派な石碑で、犬のためにそれだけのことをするというのは江戸時代というのは結構豊だったんだなあと感心する。
  犬堂の碑
 国道から宮津の旧市街、街道を行く。古い街並みというのは心がなごむ、やがて旧三上家住宅が南側に現れる。北前船で栄えた豪商の屋敷で、ゆっくり見物していきたいところだが今回はパス。適当に路地を楽しみ、京街道の府道に出、和貴宮神社のある通りに入る。和貴宮神社には大きな楠と水越岩という大岩があり、かつてはここまで海岸線が来ていたという。宮津という地名の語源だという、宮のある津ということだろうが、その宮がどの神社であるかは判然としていない。(京都地名語源辞典)お詣りをしてカトリック宮津教会に向かう。
  旧三上家住宅、和貴神社水越岩
 明治29年に建てられた、現役の教会としては日本でもっとも古い教会ということだ。畳敷きの礼拝堂だそうだが残念ながら閉まっており中は見られない。横に廻ってステンドグラスを見物していると、自転車の婦人が門から飛び出してきて、津田さんと接触しそうになる。「こちらの方ですか?」「中を見せて頂くわけにいきませんか?」偶然に教会の方であって、快く鍵を開け聖堂に案内された。ドアを開けてびっくりしたのは、先程のステンドグラスを通した陽光が床と傘立てに見事に映っているのだ。赤、緑、青とそのグラデーションが美しい。「写真に撮ってもいいですか?」「こちらはもっときれいですよ」噂通りの畳にその光が映っている。立体的なテーブルでなくて平面的な畳に映るその光は、きっと計算されたものに違いない。「朝の光は祭壇の辺りに映るんですよ」などと話を聞いているうちに曇ってきたのか、美しい模様は消えてしまった。
    宮津教会は畳敷きである。
 笈摺(おいずる)に白衣の巡礼スタイルの二人が教会を訪れている姿はなんとも奇妙なものだが、教会のご婦人に巡り会えたのも美しい光景を見られたのも神さまの思し召しかもしれない。津田さんの叔母さんが敬虔なクリスチャンでミサに伺うことを約束して、宮津教会を後にする。
「小原さんは本当に人と会う運があるなあ」前回の四方さんの事を思い出して言っておられるのかもしれないが、確かに巡礼を始めてから偶然の出会いが増えたようだ。つづく

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