観るつもりなら読まないでくださいね。これには☆、便宜的にもつけたくないのでレビューには書きません。トレンチコートマフィアによるコロンバイン高校乱射殺人事件を題材にしたドキュメンタリーですが、娯楽性も高い。高くないふりはしているけど。
・特典映像の監督インタビューで、インタビュアーが「登場人物に感情移入しにくい」と言っていたけど、俺はそうじゃなかった。ガネっ娘のいけてないおねいちゃん、ミシェルは、生き残るのかな?と思っていた。大林宣彦監督の出世作「HOUSE」では、その家に泊まった数人の女の子のうち、たった一人、ガネっ娘の「ファンタ」ちゃんだけが、生き残る。それを思い出していた。…あにはからんや。始まって1時間、ミシェルが真っ先に撃たれた。本棚の図書を血に染めて。…他の登場人物は、実際の事件当事者の名前を使わず、演じている本人の名前をそのまま登場人物の名前に使っている。だが、彼女だけは違った。ミシェルではなかった。言うまでもなく、ミシェルとは大天使ミカエルからの名。皮肉だろうか。
・悪意が消せていない、平凡な日常描写が出だしからかなり長く続く。平凡、とは誰かが悪意に耐え続けていることだから。色々な生徒がいる。誰が乱射した二人なのかさっぱりわからない。眠くなるのかな~と思いかけた20分頃、アーミールックの二人が大きなバッグをいくつも抱えて、校舎から出てきたパツキンロン毛にいちゃんに「これから地獄になるぜ」と言って校舎に入っていく。はじまるか!と思ったら、そうじゃない。時計が戻って、他の生徒たちのそれまでが、また描かれる。しかし、それがわかるのは、しばらく経ってからだ。うまい構成だ。ドキドキしっぱなしでカフェテリアでのJKの姦しいやりとりを観続けた。いつやられるのかな?と。俺は「コロンバインハイスクールダイアリー」という、上のパツキンロン毛にいちゃんにあたる実在の生徒が記した本を読んでいるので、カフェテリアが惨劇現場の一つであることも覚えていたから。
・ま、いい。もう中身を話すのはやめよう。監督は結論を出したくないそうだ。解決策も提示しないし、何故この事件が起きたかを解釈するつもりもないそうだ。だから、俺がする。
あ、話が進むと誰が乱射した二人かわかってくるのだが、わかった時俺はびっくりしたよ。え?こいつら?黒いトレンチコート着てないよ!…こういう「いじり」をして、面白くしている辺りが、「客観的」なフリしていながら、言葉は悪いが、遊んでるんだな、この監督。
・二人はナチスにシンパシーを覚えていたらしい。それは、「~ダイアリー」にも書いてあったし、それを暗示するシーンがエレファントにもある。俺が思うに、彼らは「規律が守られること」を望んでいたのだ。アメちゃんの国では、能書きは美しいが実際とかけはなれている、という部分がうちらよりデカいんでは?という印象を、俺はこのごろ抱いている。しかも、うちらはそれを、マシな向きへと変えていこう、という構えが、前よりずっと、群れ・集まりとして現れてきている…と、俺は思っている…のだが、アメちゃんはいつからか、停まっている。澱んでいる。規律を守りすぎると、それはナチスの大罪に象徴される惨劇を呼び起こすが、守らなさすぎても、こうなる、ということなのでは、ないだろうか。つまり、「いじめはしない」とかね。今のアメちゃんにとって、「きまりはきまり」なのだろう。
・二人のうち、一人がピアノを弾く。これは、創作らしい。エリーゼのために、なのだが、ちょっと俺の知ってる楽譜と違うのかもしれない。ミソドシラソファミレド、と俺が覚えているところがミソミレドシラソファミ、だった。細かいね、俺。監督はインタビューで「(休憩時間かなんかに)素晴らしい演奏をしたので、入れることにした」とかぬかしとったけど、大味な、心の行き届いてない…つまり、鍵盤を叩く指と、奏でられた音とをフィードバックさせ合ってない、コンピュータのキーボードを叩いてるかのごときパフォーマンス。これが、アメリカのクラシックなのだろう…って、俺ぁ、クラシックが苦手だからこそアメリカが好きだ、というところがあるのだけれど。「七年目の浮気」で、主人公がモンローをとろけさせたくてラフマニノフの交響曲第二番のレコードをかけるのだが…とてもいい曲で、俺は好き…モンローは、「ぜんぜんあかんわそれ」みたいに言うのだ。で、グランドピアノで「トトトトテモスゴイスゴイ」ひよこのメロディーを、左右の指一本ずつで弾いて、「ぐっとくるわー」とかなんとか、言うのだ。中学で、ピアノを習っている生徒と習っていない生徒の間の、クラシックについてのものっすごい温度差を、コンプレクスとしてずっと抱えていた俺に、それは晴天の霹靂だった。それが、俺が工房の頃だった。これが、ポップ、なのか。と。余談だが、そんなアメリカが「クラース」とかゆいだしたあたりから、突っ走れなくなりはじめていた、いる、のかもしれない。亡くなった中尊寺ゆつこさんが、SPA!で「これからはクラース」と宣言したとたん、潮がひくみたいにサッと彼女の人気が急降下したのを、俺は覚えている。クラスをクラースと伸ばしたところで、階級は階級だ。それは、アメリカの理想とはかけ離れたものだ。ゆつこさんは、黒人かなんかのダチがいて、そいつからトレンドを聴いては輸入していたに過ぎないのだろう。…あー、「おやじギャル」がそうかどうかは、わからんけどもさ。キルスティンダンストの「チアーズ!」で、ライバル校の黒人チアが「あたしたちにはクラースがあるの」と言うセリフが、俺の唯一見聞きした例だ。差別化。能力主義の無邪気な信奉。マッカーサーは日本人は12歳と斬り捨てたが、俺に言わせればアメちゃんは2,3歳なのだ。だが、それ故か、宇宙への行動力は凄すぎる。12歳にもなれば、殆どの子供が宇宙へ行くという夢を棄てているだろう。アメちゃんは違う。見習わなければならない。
こんなとこかな。
・特典映像の監督インタビューで、インタビュアーが「登場人物に感情移入しにくい」と言っていたけど、俺はそうじゃなかった。ガネっ娘のいけてないおねいちゃん、ミシェルは、生き残るのかな?と思っていた。大林宣彦監督の出世作「HOUSE」では、その家に泊まった数人の女の子のうち、たった一人、ガネっ娘の「ファンタ」ちゃんだけが、生き残る。それを思い出していた。…あにはからんや。始まって1時間、ミシェルが真っ先に撃たれた。本棚の図書を血に染めて。…他の登場人物は、実際の事件当事者の名前を使わず、演じている本人の名前をそのまま登場人物の名前に使っている。だが、彼女だけは違った。ミシェルではなかった。言うまでもなく、ミシェルとは大天使ミカエルからの名。皮肉だろうか。
・悪意が消せていない、平凡な日常描写が出だしからかなり長く続く。平凡、とは誰かが悪意に耐え続けていることだから。色々な生徒がいる。誰が乱射した二人なのかさっぱりわからない。眠くなるのかな~と思いかけた20分頃、アーミールックの二人が大きなバッグをいくつも抱えて、校舎から出てきたパツキンロン毛にいちゃんに「これから地獄になるぜ」と言って校舎に入っていく。はじまるか!と思ったら、そうじゃない。時計が戻って、他の生徒たちのそれまでが、また描かれる。しかし、それがわかるのは、しばらく経ってからだ。うまい構成だ。ドキドキしっぱなしでカフェテリアでのJKの姦しいやりとりを観続けた。いつやられるのかな?と。俺は「コロンバインハイスクールダイアリー」という、上のパツキンロン毛にいちゃんにあたる実在の生徒が記した本を読んでいるので、カフェテリアが惨劇現場の一つであることも覚えていたから。
・ま、いい。もう中身を話すのはやめよう。監督は結論を出したくないそうだ。解決策も提示しないし、何故この事件が起きたかを解釈するつもりもないそうだ。だから、俺がする。
あ、話が進むと誰が乱射した二人かわかってくるのだが、わかった時俺はびっくりしたよ。え?こいつら?黒いトレンチコート着てないよ!…こういう「いじり」をして、面白くしている辺りが、「客観的」なフリしていながら、言葉は悪いが、遊んでるんだな、この監督。
・二人はナチスにシンパシーを覚えていたらしい。それは、「~ダイアリー」にも書いてあったし、それを暗示するシーンがエレファントにもある。俺が思うに、彼らは「規律が守られること」を望んでいたのだ。アメちゃんの国では、能書きは美しいが実際とかけはなれている、という部分がうちらよりデカいんでは?という印象を、俺はこのごろ抱いている。しかも、うちらはそれを、マシな向きへと変えていこう、という構えが、前よりずっと、群れ・集まりとして現れてきている…と、俺は思っている…のだが、アメちゃんはいつからか、停まっている。澱んでいる。規律を守りすぎると、それはナチスの大罪に象徴される惨劇を呼び起こすが、守らなさすぎても、こうなる、ということなのでは、ないだろうか。つまり、「いじめはしない」とかね。今のアメちゃんにとって、「きまりはきまり」なのだろう。
・二人のうち、一人がピアノを弾く。これは、創作らしい。エリーゼのために、なのだが、ちょっと俺の知ってる楽譜と違うのかもしれない。ミソドシラソファミレド、と俺が覚えているところがミソミレドシラソファミ、だった。細かいね、俺。監督はインタビューで「(休憩時間かなんかに)素晴らしい演奏をしたので、入れることにした」とかぬかしとったけど、大味な、心の行き届いてない…つまり、鍵盤を叩く指と、奏でられた音とをフィードバックさせ合ってない、コンピュータのキーボードを叩いてるかのごときパフォーマンス。これが、アメリカのクラシックなのだろう…って、俺ぁ、クラシックが苦手だからこそアメリカが好きだ、というところがあるのだけれど。「七年目の浮気」で、主人公がモンローをとろけさせたくてラフマニノフの交響曲第二番のレコードをかけるのだが…とてもいい曲で、俺は好き…モンローは、「ぜんぜんあかんわそれ」みたいに言うのだ。で、グランドピアノで「トトトトテモスゴイスゴイ」ひよこのメロディーを、左右の指一本ずつで弾いて、「ぐっとくるわー」とかなんとか、言うのだ。中学で、ピアノを習っている生徒と習っていない生徒の間の、クラシックについてのものっすごい温度差を、コンプレクスとしてずっと抱えていた俺に、それは晴天の霹靂だった。それが、俺が工房の頃だった。これが、ポップ、なのか。と。余談だが、そんなアメリカが「クラース」とかゆいだしたあたりから、突っ走れなくなりはじめていた、いる、のかもしれない。亡くなった中尊寺ゆつこさんが、SPA!で「これからはクラース」と宣言したとたん、潮がひくみたいにサッと彼女の人気が急降下したのを、俺は覚えている。クラスをクラースと伸ばしたところで、階級は階級だ。それは、アメリカの理想とはかけ離れたものだ。ゆつこさんは、黒人かなんかのダチがいて、そいつからトレンドを聴いては輸入していたに過ぎないのだろう。…あー、「おやじギャル」がそうかどうかは、わからんけどもさ。キルスティンダンストの「チアーズ!」で、ライバル校の黒人チアが「あたしたちにはクラースがあるの」と言うセリフが、俺の唯一見聞きした例だ。差別化。能力主義の無邪気な信奉。マッカーサーは日本人は12歳と斬り捨てたが、俺に言わせればアメちゃんは2,3歳なのだ。だが、それ故か、宇宙への行動力は凄すぎる。12歳にもなれば、殆どの子供が宇宙へ行くという夢を棄てているだろう。アメちゃんは違う。見習わなければならない。
こんなとこかな。