あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

土方

2013-04-18 | 

僕は若い頃からいろいろな仕事をやってきた。
高校の時には夏休みのアルバイトで土方もやった。
当時高校生のバイトは自給500円ぐらいが相場で、日給6000円というのは破格の給料だった。
仕事はきつかったが、朝から晩まで明るい時間の仕事で、施主さんが10時3時には飲み物を出してくれたりおやつを持ってきてくれたりと、健全な仕事だった。
そこで基礎コンクリートを打つ仕事をした。
土地を均し、水平をとって型枠を組み、鉄筋を入れてコンクリートを流し込む。
高校では建築科に進んだので、授業でコンクリートの破壊試験などというものもやった。
コンクリートは圧縮に強く引っ張りに弱い。そこで引っ張りに強い鉄筋を入れて鉄筋コンクリートを作り強度がどのように増すか、というような実験である。
学校の授業でやって知識を得ていたが、実際に現場でやってみて「なるほど、こういうことか」とあらためて感じた思い出がある。
というわけでその経験をいかして家のドライブウェイコンクリート舗装計画第三弾、作戦名は「三度目の正直者」。深い意味はない。
以前のブログでも書いたが、大体4m四方ぐらいの広さで道の方から第一期、第二期と舗装をして、工事はそこで止まっていた。
夏の間は仕事が忙しくてとてもそれどころではないが、時間にある程度余裕ができると土方の神が「さあさあ、続きをやりなさい」とささやきかける。
温室の神サマもいるのだが、どうやらそれは後回しのようだ。
一期工事ではきっちりと地面に点圧をかけたが、地盤がしっかりしているのと勾配が緩やかになったのとで二期工事からはちょうど良い深さに掘り点圧はせずにコンクリートを流し込んだ。
さらに一期工事は自分でコンクリートを作るという暴挙に出たが、二期工事はミキサー車で頼んだ。
三期工事もあらかじめ邪魔になる木は切ってあるので段取りはできている。
そしてある日突然。そう、思い立ったように作業は始まった。
土を削り水平を出して型枠を組む。
削った土はネコ(一輪車)で庭の隅へ運ぶ。
何故か分からないが一輪車のことをネコもしくはネコグルマと呼ぶ。
型枠を組んだら鉄筋を入れる。
鉄筋は近くのホームセンターで売っている出来合いを使う。
こういう土方の仕事はきらいではない。





土方という言葉で思い出したのだが、今や土方も差別用語なんだそうな。
バカバカしい話である。
じゃあ大工は?左官は?鳶はどうだ?
それらが差別用語でなく土方が差別用語だということがおかしい。明らかに土方を下に見ている。
家を一軒建てるのだって、土方が基礎を打って大工が建物を建てて鳶が足場を組んで左官が壁を塗る。
どれが上でどれが下という話ではないのだ。
第一、僕は差別用語という言葉が嫌いである。
めくら、おし、つんぼ、ちんば、かたわ。
どれも皆由緒ある日本語だ。
今まで何百年もこういう言葉を使い日本人はやってきた。
言葉自体はその状態を表すもので差別でもなんでもない。
それを差別用語と言うヤツの心に差別があるのだ。
言葉をすり替えても差別する心があったらそれが差別用語となる。
今や名作「ちび黒サンボ」も差別用語だと言うし、きわめつけは看護士。
この言葉も大嫌いだ。
人を看護するという事において男より女の方が優れている。
だから看護婦なのである。本質はそこだ。
なんで男の看護士のことを看護夫と呼ばないのか。
男と女は違うものなのにそれを認めず、全てを平等にしようというバカなヤツが言い出した言葉だ。
そういうヤツは、表向きは偉そうなことを言って大層な肩書きがあるのだろう。
だがそいつに差別する気持ち、人を看る仕事を一段見下す心がある。
なので看護婦という美しい日本語が消え、看護士という味も素っ気もない言葉が出回る。
この前出会ったお客さんはお医者さんだったが、会話の中で普通に「看護婦さん」と言っていた。
こういうお医者さんがいると、何故かホッとする。
戦後GHQが電通に、『言霊』という言葉は一切使わないようにきつく命じたと言う。
言霊、美しい言葉ではあーりませんか。
言葉には魂、霊が存在する。
端的な例をあげるが1日100回ありがとうと言う人と、1日100回ばかやろうと言う人。
これだけでその人の暮らしぶりが想像つく。
きちんとした言葉にはきちんとした霊がつき、荒れた言葉には荒れた霊がつく。
そういう僕も若い時はそれがカッコいいと思い、汚い言葉を使ったものだが最近は使わなくなった。
以前、車を運転している時、狭いコーナーで大型の車とすれ違った。
何の気なしにFワードを言ったのだが、その瞬間に石が飛んできてフロントガラスにぶつかった。
ストーンチップと言ってこちらではよくあることなのだが、それ以来僕は汚い言葉を全く使わなくなった。
英語の言葉にも言霊はあるんだなあ。
言霊というのは深く掘り下げれば、日本人のアイデンティティーや精神性の高さに繋がる言葉だと思う。
権力者が恐れているのは、その日本人の心である。なので『言霊』を禁止した。おおいに頷ける。
ここで土方に戻る。
土方とは穴を掘ったり、土を運んだり、土を積み上げたり、とにかくそういう土に関する仕事である。
僕はこの言葉が差別用語になろうが放送禁止用語になろうが使い続けるだろう。(看護婦も)
自分が若い時にちょっとだけだが土方をしたという経験、これも自分の財産である。





話がおおいにそれたが我が家のドライブウェイに戻る。
僕の土方仕事は、家の仕事の片手間にやる。
お弁当を作り娘と女房を送り出し、朝ごはんの片付けをして天気が良ければ洗濯などもする。
庭の畑に水をやり、鳥の世話をしてお茶など飲んでいると、犬のココが散歩に連れて行けとねだるのでマウンテンバイクで散歩に行き、羊とだだっ広い大地と空に浮かぶ雲を眺めていると時間などすぐに経ってしまう。
お昼を食べて後片付けをして、さて土方仕事というノリだ。
それも夕方になると娘が学校から帰ってきて晩御飯の仕度をという流れになる。
あくまでのんびり、クライストチャーチの復興のように日本で言えば超スローだがニュージーランドで言えばそれなりのペースで僕の土方仕事も進む。
それでも1週間もすると地面は均され枠も組みあがった。
そして鉄筋をいれて準備万端。
コンクリートの会社に電話を入れると翌日の午前という事でパタパタと話がまとまる。
コンクリートを均す道具もレンタルしてきて、いよいよ本工事である。
本工事と言ってもなんてことはない、ミキサー車で運んできたコンクリートをどかっと下ろし、人力でそれを均し表面を仕上げる、それだけのこと。
僕と女房がコンクリートを均し、娘は棒をプスプスと刺し中の空気を抜く、その周りで犬のココがウロウロする。
家族総出の作業で2時間ぐらいでなんとか仕上がった。
前回は隅に娘の手形を入れたので、今回は足型を入れた。
ついでにココの足型も取ろうとしたが、いやがって暴れるので足型は取れなかった。
作業は無事終わったのだが、コンクリートが一輪車一杯分余ってしまった。
さてどうしよう、捨てるのもなんだし、何か使い道はないかなあ、などと考えていたら女房が言った。
「ココの墓石を作ればどう?たぶん、うちらより先に死ぬんだろうし」
「そいつはいいアイデアだ。よし墓石作りだ」
ちょうど良い大きさの入れ物にコンクリートを詰め、嫌がるココを羽交い絞めにして強引に足型を取った。
その下にココと掘り込んで出来上がり。
これはガレージにでも入れておいて、その時がきたら墓石を立ててやろう。
生きとし生ける物すべてにやってくる死。
自分も含め、そこから目を背けずに今ある生を楽しむ事が生きるという事だと思う。

こうしてコンクリート舗装計画第三弾が無事終了した。
これで女房殿もドライブウェイの草むしりから大分解放され、その分のエネルギーは違う所へ使うことができる。
お金は多少かかったが、業者に頼むより大分安くできたはずだ。
もっとも業者がやるほど綺麗な仕上がりにはならなかったが、表面を削ればそこそこきれいになるだろう。自宅のドライブウェイぐらいこれでいいのだ。
やる事リストが一つ減ってホッとしたが、この横に花壇を作りたいというリクエストが入った。
一つ減って一つ増えたわけだが、これもおいおいとやっていく事にしよう。
我が家の改造も、この国らしくのんびりと進む。


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