あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

年明けて 何でもできると 思う日々

2023-01-03 | 日記
思いついたままにタイトルを決めたが、思いつくままに書き散らすのも良しとしよう。
だいたい僕は朝早く起きてブログを書くことが多い。
多いというかほとんどがそれだ。
葡萄畑で働いていた時は、朝5時起きで弁当を作ったりお茶を飲んだりしていると1時間ぐらいすぐに経つ。
6時には家を出て1時間ぐらいドライブして、ドライブの時にポッドキャストを録音して、7時から仕事。
そんなかんじで毎日を過ごしていたので、朝にブログを書く暇がなかった。
帰ってくる時間も早いのだが、早ければ早いで庭仕事なぞしてしまう。
やはり自分にとって、朝というのが気分が乗る。
女房が起きてくるまで、一人の時間に書くのが習慣となってしまったようだ。



大晦日まで働いて正月から急に何もなくなったというのは前回も書いた。
何もなくなったというのは、何でもできるということだ。
忙しいから、時間がないから、という『やらない』言い訳は通用しない。
まずは庭の手入れからだろう。
ぼうぼうに伸びきった庭木の剪定、家庭菜園とニワトリ達の世話、芝刈り、雑草取り、やることは常にいくらでもある。
庭仕事をしていて感じることは、土を直に触ることの大切さだろう。
どこで聞いたのか忘れてしまったが、土を触ることで人間の免疫力が高まると。
科学的な根拠があるのかどうか調べてもいないが、それは肌で感じる。
そして植物を時には動物を育て、それを食べるということで、命というものを考えるきっかけになる。
野菜に話しかけるという話をバカにする人は多い。
植物には耳がないから声を聞けない、脳がないからかんがえることができない、よって植物に話しかけることは意味がないというのが科学原理主義的な物の考え方だろう。
僕の考えでは植物が声を聞いて云々というより、声をかける行為の前に植物を観察する、植物を見るという、そこがポイントなのだと。
植物を見れば、元気なのか病気なのか、水は足りているのか、雑草に覆われていないか、生い茂り過ぎていないか、などなど考える。
その次のステップで各問題に対処する行動が起こる。
無視、無関心というのは愛から一番遠い存在であり、そういう心境では植物を育てることはできない。
「農家の足音は野菜のご馳走」という言葉がある。
要は農家が畑に来れば、水が足りなければ水をもらえるし、虫がいれば取ってもらえる、何かしらの行為をしてもらえる、それが野菜にとってご馳走なのだと。
かー、こういう考え方って実に日本的でとても好きだな。
結局のところ、植物だけの話でなく、それを育てる人間の心へ戻っていくのではなかろうか。
まーた、そういう話になっちゃったな。
徒然なるままに書くとそこにいく、というのは自分の心がそこにあるから。
こうやって心のおもむくままに書いてみると、自分の心の在り処がはっきり見える。
漠然と感じてはいたが、やっぱりそこにいくのねん。
まあそういうことなんだろうなぁ。
さあて、今日は何をしようかな。


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