今年の夏はサイクリングに没頭していたのだが、近くでも思い出に残るような山行もした。
夏の初めにボスのリチャードが話を持ちかけた。
リチャードはイギリス生まれでニュージーランドに来て二十数年。
日本にも何回も行っていて日本語は堪能、ニュージーランドの植物や鳥の本を日本語で出しているほどだ。
彼との付き合いも二十年を超えるか。長い付き合いなのでお互いをよく知っている。
言いたいことを言えて無理に繕うことがなく、言い出しにくいことでも察してくれる。
こういう人のところで働くのは楽だ。
ずーっと夏の間はクィーンズタウンの彼の会社(ボスは3人だが)タンケンツアーズでハイキングや観光ガイドをしていたのだが3年前の地震で仕事が無くなってしまい、昨2シーズンはクライストチャーチの会社で働いていた。
こちらは観光ガイド専門で山歩きの仕事は無く、もっぱら車を運転しながらガイドをするドライバーガイドだった。
そろそろ山に戻りたいな、と思った頃リチャードから連絡があり、古巣のタンケンツアーズに舞い戻ったわけだ。
その彼が言うにはコロネットピークからアロータウンまでのルートがあり、そこを一緒に歩こうというわけだ。
すでに彼は奥さんと一緒に逆ルート、アロータウンからコロネットピークまでを歩いていてなかなか好い所だからオマエさんを連れてもう一度歩きたいぜ、という話なのである。
ふむ、コロネットからアロータウンねえ。
昔、雪がもっとたくさんあった時には滑ってアロータウンまで行った、なんて話は聞いたことがある。
リチャード曰く、正規のルートではないが尾根上は踏み跡があり行く先が見えるので迷う心配もない。
そうか、それなら時間を見つけてやろうじゃないか、そんな話で夏が始まった。
プランを暖める、という言葉がある。
プランを立ててその山を遠くから眺めたり地図を見たりして想像を膨らませるのだ。
クィーンズタウンで間借りをしている家から山が見える。
なだらかな起伏の尾根が横に走る。
尾根上は木が生えてなく、茶色いタソックに覆われた山だ。
あそこを歩くのか、景色はどうやって見えるのかな、などと思いながら近い将来にそこを歩く自分を思い浮かべた。
自転車に乗っていても、仕事をしていても、家に居ても、その山は見える。
どこからも見えるということは、そこに行けば全てそのポイントが見えるということだ。
コロネットピークからも似た景色は見えるし、遊覧飛行でその上空を飛んだことはある。
そこから見える景色の想像はつくが、いざ自分の身をそこへ置けば想像以上の物があるのは数々の経験で知っている。
その感動を味わうために人は山へ登る。
その場所に立った自分は何を想うのだろう。
そんなことを考えながら、僕は毎日その山を眺めて夏をすごした。
ガイドの夏は多忙だ。
それでも休みがないわけではない。
僕は気ままな単身赴任の生活で、時間という物を全て自分の為に使うことができる。
だがリチャードには家庭があり、やれこの日は息子のサッカーの試合だ、この日は家族で何やらするので都合が悪いとなかなかタイミングが合わない。
この日ならば大丈夫か、という時もあったがそういう時は天気が悪い。
山行と言ってもわずか数時間のものなのだが、その数時間が合わせられない。
僕は近辺の山を時間のある時に歩き、また違った角度からその山を眺めたりした。
自分の中でプランは充分に熟している。
痺れを切らして僕はリチャードに言った。
「オレはいつでも行けるぞ。早くしないとオレ一人で歩いちゃうぞ」
「スマンスマン、もうちょっと待ってくれ。そうだな、来週ならば時間が取れるからその時に行こう」
そんな会話を交わし、夏の終わりにその日は来た。
その日が来てもリチャードは相変わらず忙しく、彼が午前中の仕事を終えて昼からスタートした。
スタート地点とゴール地点が違う場合、常に問題なのはそのアプローチをどうするかということだ。
今回はフラットメイトのトモコさんにドライブを頼んだ。
トモコさんもこの会社のスタッフなのでリチャードもよく知っていて話が早い。
コロネットピークまで30分のドライブの後、僕達は歩き始めた。
二十数年前、僕がスキーを覚えた思い出のスキー場の何十回も滑った斜面を登る。
登りは十五分ぐらいか、Tバーリフト1本分を登りそこからは尾根歩きだ。
リチャードと2人で歩くのは初めてだが、波の合う人と一緒にいる心地よさを感じる。
黙って歩いても沈黙が心地よいし、話をすればぴったり合うところもあるし考えが違う所もお互いを認め合いその奥の根底で繋がることで一体感を持てる。
スピリチュアルな人、という言い方は好きではないが、言葉で表すならばそうなるのだろう。
日本の文化の理解も深く、3年前には家族で日本に住んでいた。
そう、3年前、ちょうど震災の時に彼は仙台に住んでいたのだ。
僕はその時にテレビで津波の映像を見たのだが、リチャードの事を一切心配しなかった。
それよりも何故か分からないが、ヤツは大丈夫という強い予感があったのだ。
実際に大変な思いもしたようだが、彼の家族は無事にニュージーランドに帰ってきた。
そんなリチャードが言う。
「この尾根歩きは日本の山みたいじゃないか」
「そうか?オレは日本の夏山は知らないからな。そう言われてみればそうなのかもしれないな」
確かに尾根が緩やかにアップダウンを繰り返し、稜線上に道が見える感じは写真で見た日本の山に似ている。
ただし日本と圧倒的に違う所は人の少なさ、そして人口構造物の少なさだろう。
この尾根はどこからも見えるので、そこから見える景色も街であり街をつなぐ道であり牧場やパラパラと散らばる農家だったり、まあ人間が作り上げたものだ。
尾根の反対側を望めば、殺伐とした山が延々と続きはるか彼方に氷河を乗せた山が居座るという、人口構造物が一切見えない世界だ。
人間界と自然界のはざま、とでも言おうか。
そんな場所である。
山から街の方向を見下ろせば、自分がガイドをしている街、自転車を漕いだ道、そして住んでいる場所も見える。
景色だけ見れば想像していたものだ。
だがこの場所に立つ自分の背後に続く山の存在感。
それを感覚として感じる。
写真には映らない感覚で、これは人に伝わらない。
自分の身をこういう場所に置く、ということに意識をあてて僕は山を歩く。
それは自分の存在価値であり、何故自分がこの世に生まれてきたかという答えの出ない問いの一つの答でもある。
ブローピークというのがその山の名前で直訳すれば眉毛峰、名の通り眉毛の形をしている山で山頂付近はなだらかで原っぱのような雰囲気だ。
山頂には申し訳程度にケルンが積んであり、かろうじてそこが山頂だと分かる。
山頂に立てば景色が劇的に変わるわけではない。
今まで歩きながら見てきた景色とほぼ同じで、登りつめたという感動はない。
ただ僕の場合、プランを暖める時間が長かったので、その意味での達成感はある。
やろうやろうと思っていた事をやり終えた達成感、同時に祭りの後のようなさびしさも少し。
このコースは標識もなく整備された道ではないが、特別難しい所があるわけでもなく誰でも歩ける。
時間だって3時間ぐらいだ。
人によってはつまらない山、と思うかもしれない。
実際、国立公園に行けば素晴らしい場所はいくらでもあるし、僕はそういう場所を歩いてきた。
ただそこに立つ人の感動はその人だけのもので、何処に行けば、というものでもないと思う。
僕が感動して歩いた場所をつまらないと言った人もいたし、国立公園へ行っても感動のない人はいる。
逆にえーちゃんのようにワナカの郊外のキャンプ場とかトワイズルの夕日とか、普通の町でも感動の嵐に出会う幸せ者もいる。
それはその時の天気やシチュエーション、何よりその人の心情も深く関係する。
『1mの旅』という話をあるお客さんから聞いた。
ある人が家を出てから1mの間に様々な物を見て聴いて感じたのだと。
それは空の色かもしれないし鳥の声かもしれないし道端に咲いている花かもしれない。
普段見慣れているはずの生活のすぐ近くでも自分の心次第で旅になるのだと。
山も全く同じだと僕は思う。
人は高い山や遠くて有名な山を目指すが、どこへ行けばという外に要因を求めていたら見える物も見えてこない。
自分の足元に咲く一輪の花を愛でる心、これが禅の教えなのだが、これがあればどこへ行っても素晴らしい経験ができるだろう。
結局のところ、帰ってくる場所は自分の心、そしてまた外の世界へと行ったり来たりするものだと思う。
山から下り一般のコースに合流して散歩をしている人に出会った。
大げさな言い方だが人の世界に戻ってきた。
人間の世界にはそれなりの良さもある。
アロータウンに着きパブへ直行。
リチャードとビールで乾杯。
達成感がたっぷりつまったビールが喉にしみる。
嗚呼、人生とはかくも楽しき事なり。
そんな夏の思ひ出の一日。
夏の初めにボスのリチャードが話を持ちかけた。
リチャードはイギリス生まれでニュージーランドに来て二十数年。
日本にも何回も行っていて日本語は堪能、ニュージーランドの植物や鳥の本を日本語で出しているほどだ。
彼との付き合いも二十年を超えるか。長い付き合いなのでお互いをよく知っている。
言いたいことを言えて無理に繕うことがなく、言い出しにくいことでも察してくれる。
こういう人のところで働くのは楽だ。
ずーっと夏の間はクィーンズタウンの彼の会社(ボスは3人だが)タンケンツアーズでハイキングや観光ガイドをしていたのだが3年前の地震で仕事が無くなってしまい、昨2シーズンはクライストチャーチの会社で働いていた。
こちらは観光ガイド専門で山歩きの仕事は無く、もっぱら車を運転しながらガイドをするドライバーガイドだった。
そろそろ山に戻りたいな、と思った頃リチャードから連絡があり、古巣のタンケンツアーズに舞い戻ったわけだ。
その彼が言うにはコロネットピークからアロータウンまでのルートがあり、そこを一緒に歩こうというわけだ。
すでに彼は奥さんと一緒に逆ルート、アロータウンからコロネットピークまでを歩いていてなかなか好い所だからオマエさんを連れてもう一度歩きたいぜ、という話なのである。
ふむ、コロネットからアロータウンねえ。
昔、雪がもっとたくさんあった時には滑ってアロータウンまで行った、なんて話は聞いたことがある。
リチャード曰く、正規のルートではないが尾根上は踏み跡があり行く先が見えるので迷う心配もない。
そうか、それなら時間を見つけてやろうじゃないか、そんな話で夏が始まった。
プランを暖める、という言葉がある。
プランを立ててその山を遠くから眺めたり地図を見たりして想像を膨らませるのだ。
クィーンズタウンで間借りをしている家から山が見える。
なだらかな起伏の尾根が横に走る。
尾根上は木が生えてなく、茶色いタソックに覆われた山だ。
あそこを歩くのか、景色はどうやって見えるのかな、などと思いながら近い将来にそこを歩く自分を思い浮かべた。
自転車に乗っていても、仕事をしていても、家に居ても、その山は見える。
どこからも見えるということは、そこに行けば全てそのポイントが見えるということだ。
コロネットピークからも似た景色は見えるし、遊覧飛行でその上空を飛んだことはある。
そこから見える景色の想像はつくが、いざ自分の身をそこへ置けば想像以上の物があるのは数々の経験で知っている。
その感動を味わうために人は山へ登る。
その場所に立った自分は何を想うのだろう。
そんなことを考えながら、僕は毎日その山を眺めて夏をすごした。
ガイドの夏は多忙だ。
それでも休みがないわけではない。
僕は気ままな単身赴任の生活で、時間という物を全て自分の為に使うことができる。
だがリチャードには家庭があり、やれこの日は息子のサッカーの試合だ、この日は家族で何やらするので都合が悪いとなかなかタイミングが合わない。
この日ならば大丈夫か、という時もあったがそういう時は天気が悪い。
山行と言ってもわずか数時間のものなのだが、その数時間が合わせられない。
僕は近辺の山を時間のある時に歩き、また違った角度からその山を眺めたりした。
自分の中でプランは充分に熟している。
痺れを切らして僕はリチャードに言った。
「オレはいつでも行けるぞ。早くしないとオレ一人で歩いちゃうぞ」
「スマンスマン、もうちょっと待ってくれ。そうだな、来週ならば時間が取れるからその時に行こう」
そんな会話を交わし、夏の終わりにその日は来た。
その日が来てもリチャードは相変わらず忙しく、彼が午前中の仕事を終えて昼からスタートした。
スタート地点とゴール地点が違う場合、常に問題なのはそのアプローチをどうするかということだ。
今回はフラットメイトのトモコさんにドライブを頼んだ。
トモコさんもこの会社のスタッフなのでリチャードもよく知っていて話が早い。
コロネットピークまで30分のドライブの後、僕達は歩き始めた。
二十数年前、僕がスキーを覚えた思い出のスキー場の何十回も滑った斜面を登る。
登りは十五分ぐらいか、Tバーリフト1本分を登りそこからは尾根歩きだ。
リチャードと2人で歩くのは初めてだが、波の合う人と一緒にいる心地よさを感じる。
黙って歩いても沈黙が心地よいし、話をすればぴったり合うところもあるし考えが違う所もお互いを認め合いその奥の根底で繋がることで一体感を持てる。
スピリチュアルな人、という言い方は好きではないが、言葉で表すならばそうなるのだろう。
日本の文化の理解も深く、3年前には家族で日本に住んでいた。
そう、3年前、ちょうど震災の時に彼は仙台に住んでいたのだ。
僕はその時にテレビで津波の映像を見たのだが、リチャードの事を一切心配しなかった。
それよりも何故か分からないが、ヤツは大丈夫という強い予感があったのだ。
実際に大変な思いもしたようだが、彼の家族は無事にニュージーランドに帰ってきた。
そんなリチャードが言う。
「この尾根歩きは日本の山みたいじゃないか」
「そうか?オレは日本の夏山は知らないからな。そう言われてみればそうなのかもしれないな」
確かに尾根が緩やかにアップダウンを繰り返し、稜線上に道が見える感じは写真で見た日本の山に似ている。
ただし日本と圧倒的に違う所は人の少なさ、そして人口構造物の少なさだろう。
この尾根はどこからも見えるので、そこから見える景色も街であり街をつなぐ道であり牧場やパラパラと散らばる農家だったり、まあ人間が作り上げたものだ。
尾根の反対側を望めば、殺伐とした山が延々と続きはるか彼方に氷河を乗せた山が居座るという、人口構造物が一切見えない世界だ。
人間界と自然界のはざま、とでも言おうか。
そんな場所である。
山から街の方向を見下ろせば、自分がガイドをしている街、自転車を漕いだ道、そして住んでいる場所も見える。
景色だけ見れば想像していたものだ。
だがこの場所に立つ自分の背後に続く山の存在感。
それを感覚として感じる。
写真には映らない感覚で、これは人に伝わらない。
自分の身をこういう場所に置く、ということに意識をあてて僕は山を歩く。
それは自分の存在価値であり、何故自分がこの世に生まれてきたかという答えの出ない問いの一つの答でもある。
ブローピークというのがその山の名前で直訳すれば眉毛峰、名の通り眉毛の形をしている山で山頂付近はなだらかで原っぱのような雰囲気だ。
山頂には申し訳程度にケルンが積んであり、かろうじてそこが山頂だと分かる。
山頂に立てば景色が劇的に変わるわけではない。
今まで歩きながら見てきた景色とほぼ同じで、登りつめたという感動はない。
ただ僕の場合、プランを暖める時間が長かったので、その意味での達成感はある。
やろうやろうと思っていた事をやり終えた達成感、同時に祭りの後のようなさびしさも少し。
このコースは標識もなく整備された道ではないが、特別難しい所があるわけでもなく誰でも歩ける。
時間だって3時間ぐらいだ。
人によってはつまらない山、と思うかもしれない。
実際、国立公園に行けば素晴らしい場所はいくらでもあるし、僕はそういう場所を歩いてきた。
ただそこに立つ人の感動はその人だけのもので、何処に行けば、というものでもないと思う。
僕が感動して歩いた場所をつまらないと言った人もいたし、国立公園へ行っても感動のない人はいる。
逆にえーちゃんのようにワナカの郊外のキャンプ場とかトワイズルの夕日とか、普通の町でも感動の嵐に出会う幸せ者もいる。
それはその時の天気やシチュエーション、何よりその人の心情も深く関係する。
『1mの旅』という話をあるお客さんから聞いた。
ある人が家を出てから1mの間に様々な物を見て聴いて感じたのだと。
それは空の色かもしれないし鳥の声かもしれないし道端に咲いている花かもしれない。
普段見慣れているはずの生活のすぐ近くでも自分の心次第で旅になるのだと。
山も全く同じだと僕は思う。
人は高い山や遠くて有名な山を目指すが、どこへ行けばという外に要因を求めていたら見える物も見えてこない。
自分の足元に咲く一輪の花を愛でる心、これが禅の教えなのだが、これがあればどこへ行っても素晴らしい経験ができるだろう。
結局のところ、帰ってくる場所は自分の心、そしてまた外の世界へと行ったり来たりするものだと思う。
山から下り一般のコースに合流して散歩をしている人に出会った。
大げさな言い方だが人の世界に戻ってきた。
人間の世界にはそれなりの良さもある。
アロータウンに着きパブへ直行。
リチャードとビールで乾杯。
達成感がたっぷりつまったビールが喉にしみる。
嗚呼、人生とはかくも楽しき事なり。
そんな夏の思ひ出の一日。
いつも思っていたんだけど、U+1F60A これって何ですか?