最近、人から物をもらうことが多い。
そういう時にボクは遠慮なくいただく。
遠慮なくいただいて、ありがたや、ありがたやなのである。
先日ブロークンリバーに行った時のことである。
帰ろうとして駐車場に行った時、Speights Summitと大きくプリントされた車があった。
クィーンズタウンから来た二人組みの人と話を交わしたが、その人達の車だ。
「おお、Speights Summit、かっこいい~」
というようなことをつぶやいたら、その人が1ダースのビールをくれた。
「このビールは好きか?じゃあ飲めよ」
「おお、ありがとう。遠慮なくもらうよ」
そこでなんでこの人はくれるんだろう、とか野暮なことは考えない。
オマエくれる、オレもらう、ありがとう。シンプルだ。
後になって思い出した。
前の晩にボクはそこに居合わせた人全員にスモークサーモンとチーズをおすそ分けしたのだった。その二人もそこにいた。
ひょっとするとそのお礼かな。
ボクは人に物をあげるときには見返りは期待しない。
あげた直後にそのことを忘れるぐらいだ。
自分が忘れていて、人からお返しをもらうと単純にうれしい。
人から何かもらったときに、お返しをする時もあればしない時もある。
何か物をもらったからお返しをしなくてはいけないのではなく、こちらからその人に使ってほしい物をゆずるという感じか。
お返しをしなければいけない、と考える人は自分があげたときにお返しを期待しているのではないか、と思う。
直接もらった人にお返しをしなくても、その物が自分にとって不必要になった時に次の人にあげればいいとボクは考える。
なので子供用の服やおもちゃなど、どんどんもらうし、どんどんあげてしまう。
使わなくなったものをいつまでも取っておくより、次に必要な人の手に渡って使われる方が道具も幸せだ。
こちらが気前よく人に物をあげると、何らかの形で返ってくる。ブーメランの法則だ。
若い時には物をいろいろ売ろうとした。
人に物をあげることは、損とまではいかないが得ではないと思っていた。
なので必要ないものまで売ろうと思っていた。
物を売ろうとすると欲が出る。
少しでも高く売りたいという欲だ。
程度にもよるが多少の物なら見返りを期待しないで、人にあげてしまった方が楽である。
人にあげてしまうと決めた時点で、値段をあれこれ考えることから解放される。
執着から解放されるのだ。
するとまた一歩新しい世界が広がる。
物に限らないが、人にあげることは愛である。
愛とは与えることである。
時には物を、時にはお金を、時には体を、時には時間を、時にはエネルギーを与えることが愛なのだ。
受け取るだけのものは愛ではない。欲だ。
互いに与え合う。これが理想の愛だ。
だが自分はこんなにやっているのに、と見返りを期待した瞬間に愛でなくなる。打算だ。
ボクにとって人に物をあげる時、その人が喜んでくれるということが一番大切なことだ。
喜んでもらって僕もうれしい。
喜んで使ってもらって、食べてもらって、その物もうれしい。
もらった人もうれしい。
みんなハッピーである。
人だけに限らず物も含め、そこに存在するものがすべてハッピーになるというのは理想だ。
たとえその人から直接お返しが来なくともいいのだ。
そのハッピーのバイブレーションは人から人へ伝わり、まわりまわって自分の所へ還ってくる。
還ってきたときには遠慮なくいただく。
そして又次の人へ、そして見知らぬ誰かへ、延々と廻る。
誰かに何かをあげる時、その循環の第一歩を自分が造るのだ。
素晴らしいことではないか。
自分が幸せでなかったら人を幸せにできない。
自分が人に何かあげることによりその人がハッピーになれば、その人は別の人を幸せにできる。
では自分にとって必要のないものをもらったらどうするか?
その時は素直に断るか、それが必要な人へ回す。そしてその気持ちだけをいただく。
必要ないものでもタダならもらうという態度はどうかと思う。
サダオが日本から焼酎を一瓶お土産に持ってきてくれた。
だがボクは焼酎は飲まない。
一度はもらった焼酎だが、サダオの彼女の両親が日本に来たときに焼酎を好んで飲んだ、という話を聞いたのでそれは彼女の両親へのお土産に持っていってもらうことにした。
ボクにとっても、サダオにとっても、彼女の両親にとっても、焼酎にとってもベストの選択であろう。
何でもかんでも貰えるものは貰う、のではなく自分にとって必要か不必要かを考える。
それは自分を見つめるということに繋がるのだ。
たとえ不必要なものでも、その気持ちは充分にいただけるはずだ。
「気持ちだけいただきます」
よく言う言葉だが、真理はこういう当たり前の言葉の中にある。
見えない物でもハッピーのバイブレーションは広がるのだ。
必要なもの、貰ってうれしいものは遠慮なくいただく。
全くもって遠慮はしない。遠慮はしないが節度を持って、ありがたくいただく。
高価な食事やワインをおごってもらう。
スキー場のリフト券をもらう。
知り合った人にビールをもらう。
友達からパンやケーキをもらう。
子供服やおもちゃなどをもらう。
仕事をした後はチップももらう。
猟で取ってきた肉をもらうし、庭で採れた野菜や、漁で捕れた魚ももらう。
毎年来るお客さんからは家族にまでお土産をもらう。
スポンサーからは高価な山の道具をもらう。
それらの物はボクを幸せにしてくれて、さらにハッピーバイブレーションの輪が広がる。
これが生きる喜びだ。
そしてそれにくっつく言葉は常に、ありがとうなのだ。
全ての人や物事に、ありがたや、ありがたや。
そういう時にボクは遠慮なくいただく。
遠慮なくいただいて、ありがたや、ありがたやなのである。
先日ブロークンリバーに行った時のことである。
帰ろうとして駐車場に行った時、Speights Summitと大きくプリントされた車があった。
クィーンズタウンから来た二人組みの人と話を交わしたが、その人達の車だ。
「おお、Speights Summit、かっこいい~」
というようなことをつぶやいたら、その人が1ダースのビールをくれた。
「このビールは好きか?じゃあ飲めよ」
「おお、ありがとう。遠慮なくもらうよ」
そこでなんでこの人はくれるんだろう、とか野暮なことは考えない。
オマエくれる、オレもらう、ありがとう。シンプルだ。
後になって思い出した。
前の晩にボクはそこに居合わせた人全員にスモークサーモンとチーズをおすそ分けしたのだった。その二人もそこにいた。
ひょっとするとそのお礼かな。
ボクは人に物をあげるときには見返りは期待しない。
あげた直後にそのことを忘れるぐらいだ。
自分が忘れていて、人からお返しをもらうと単純にうれしい。
人から何かもらったときに、お返しをする時もあればしない時もある。
何か物をもらったからお返しをしなくてはいけないのではなく、こちらからその人に使ってほしい物をゆずるという感じか。
お返しをしなければいけない、と考える人は自分があげたときにお返しを期待しているのではないか、と思う。
直接もらった人にお返しをしなくても、その物が自分にとって不必要になった時に次の人にあげればいいとボクは考える。
なので子供用の服やおもちゃなど、どんどんもらうし、どんどんあげてしまう。
使わなくなったものをいつまでも取っておくより、次に必要な人の手に渡って使われる方が道具も幸せだ。
こちらが気前よく人に物をあげると、何らかの形で返ってくる。ブーメランの法則だ。
若い時には物をいろいろ売ろうとした。
人に物をあげることは、損とまではいかないが得ではないと思っていた。
なので必要ないものまで売ろうと思っていた。
物を売ろうとすると欲が出る。
少しでも高く売りたいという欲だ。
程度にもよるが多少の物なら見返りを期待しないで、人にあげてしまった方が楽である。
人にあげてしまうと決めた時点で、値段をあれこれ考えることから解放される。
執着から解放されるのだ。
するとまた一歩新しい世界が広がる。
物に限らないが、人にあげることは愛である。
愛とは与えることである。
時には物を、時にはお金を、時には体を、時には時間を、時にはエネルギーを与えることが愛なのだ。
受け取るだけのものは愛ではない。欲だ。
互いに与え合う。これが理想の愛だ。
だが自分はこんなにやっているのに、と見返りを期待した瞬間に愛でなくなる。打算だ。
ボクにとって人に物をあげる時、その人が喜んでくれるということが一番大切なことだ。
喜んでもらって僕もうれしい。
喜んで使ってもらって、食べてもらって、その物もうれしい。
もらった人もうれしい。
みんなハッピーである。
人だけに限らず物も含め、そこに存在するものがすべてハッピーになるというのは理想だ。
たとえその人から直接お返しが来なくともいいのだ。
そのハッピーのバイブレーションは人から人へ伝わり、まわりまわって自分の所へ還ってくる。
還ってきたときには遠慮なくいただく。
そして又次の人へ、そして見知らぬ誰かへ、延々と廻る。
誰かに何かをあげる時、その循環の第一歩を自分が造るのだ。
素晴らしいことではないか。
自分が幸せでなかったら人を幸せにできない。
自分が人に何かあげることによりその人がハッピーになれば、その人は別の人を幸せにできる。
では自分にとって必要のないものをもらったらどうするか?
その時は素直に断るか、それが必要な人へ回す。そしてその気持ちだけをいただく。
必要ないものでもタダならもらうという態度はどうかと思う。
サダオが日本から焼酎を一瓶お土産に持ってきてくれた。
だがボクは焼酎は飲まない。
一度はもらった焼酎だが、サダオの彼女の両親が日本に来たときに焼酎を好んで飲んだ、という話を聞いたのでそれは彼女の両親へのお土産に持っていってもらうことにした。
ボクにとっても、サダオにとっても、彼女の両親にとっても、焼酎にとってもベストの選択であろう。
何でもかんでも貰えるものは貰う、のではなく自分にとって必要か不必要かを考える。
それは自分を見つめるということに繋がるのだ。
たとえ不必要なものでも、その気持ちは充分にいただけるはずだ。
「気持ちだけいただきます」
よく言う言葉だが、真理はこういう当たり前の言葉の中にある。
見えない物でもハッピーのバイブレーションは広がるのだ。
必要なもの、貰ってうれしいものは遠慮なくいただく。
全くもって遠慮はしない。遠慮はしないが節度を持って、ありがたくいただく。
高価な食事やワインをおごってもらう。
スキー場のリフト券をもらう。
知り合った人にビールをもらう。
友達からパンやケーキをもらう。
子供服やおもちゃなどをもらう。
仕事をした後はチップももらう。
猟で取ってきた肉をもらうし、庭で採れた野菜や、漁で捕れた魚ももらう。
毎年来るお客さんからは家族にまでお土産をもらう。
スポンサーからは高価な山の道具をもらう。
それらの物はボクを幸せにしてくれて、さらにハッピーバイブレーションの輪が広がる。
これが生きる喜びだ。
そしてそれにくっつく言葉は常に、ありがとうなのだ。
全ての人や物事に、ありがたや、ありがたや。
おいしかった~! ありがとう。
メスベンでも子供の物は特に廻りまわっています。
スキー場ではうちの坊主が譲って貰ったスキーウエアや
祖父母に買って貰ったスキーウエア、4着が揃う日もある。
見ている方は、何だかすごくうれしいんだよねぇ~。
配ったチーズのこと忘れていたあたりが、料理でいえば期待を越えたアペタイザーが出てきてその後に出てくる料理の美味しさ、感動が約束されたような日記でした。
コレいる?ソレくれ。というソーシャル物々交換的システムを、いま仲間と作ろうとしてます。ただ、個人感の物々交換ではないのです。マクロで見たときに、めぐりめぐる。その輪に入る感動。それをどう表現するか。楽しみながらみんなで悩んでます。
あ、この日記、いただきます!わたしの仲間たちにもわたしが読んで感動した幸せをシェアさせてくださいまし。
ありがたやありがたや。(^m^)
その循環の第一歩を自分がつくって、それが廻り廻って、みんなハッピーって最高やよね。
ところで、サダオ君に彼女!? 日本にご両親が来た時!? メールしようっと…(^^♪
空いている場所にばら撒く用の、大根と白菜と青梗菜とシソの種があります。
今度街に来るときに連絡ください。
自分の子供が使った服を別の子が着ているとうれしいよね。
うちの娘のお古は、トモ子さんの娘のニキが着ています。
にしやんさん
生きる喜び。
この言葉にピンと来ました。
与えてそしていただく。
これがシステムとして成り立つ為には、輪の中にいる全員がエゴを克服してコントロールする必要がある。
そうなれば素晴らしい世の中になるねえ。
日記を紹介してくれてありがとう。
お互いにありがとうと言い合う関係っていいよね。
なおちゃん
ボクは遠慮しないので、なおちゃんの作ったパンを貰いに行きます。だって美味しいもん。
今度連絡するのでその時はよろしく~。
みゆきさん
そうそう、サダオに春が来たんだよ。
両親が日本に行ったのはだいぶ前の話らしいよ。
みんなのコメントに気持ちが乗っかっている。
その気持ちもいただきました。
ありがたや、ありがたや。