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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

飛鳥の万葉歌碑⑲ ~犬養万葉記念館~

2020-12-11 23:00:32 | 文学をたどる

 石舞台古墳から岡寺、飛鳥寺に向かう道沿い、古民家が立ち並ぶ街並みの中に、犬養万葉記念館がある。以前は、南都銀行明日香支店として使用されていた。この記念館が開設されたのが、平成12年のこと。早くも20年近い歳月が経っている。

 そういえば、開設されてすぐ、家族でここを訪れて、犬養先生の著書「明日香風」を購入した記憶がある。考えれば、僕が万葉集に関連した本を最初に詠んだのは、高校生の時、同著「万葉の人々」であった。それから40年近い年月が経ってしまった。

 

 犬養万葉記念館では、万葉学者、犬養孝氏の業績をたたえるため、自筆原稿や著書などを展示しており、また自室なども再現している。2階では、全国の万葉故地などのパネル展示なども行われている。

 そして、万葉歌碑は、中庭、記念館の建物の入り口の近くに置かれている。

 

 歌碑には、「山吹の 立ちよそいたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく」という高市皇子の歌が万葉仮名で刻まれている。

 この歌は、天武天皇と額田王との間の子、十市皇女が、亡くなった時、高市皇子が作った歌と伝わる。歌の意味としては、「黄色い山吹が咲き匂っている山の清水を汲みに行きたいが、その道をどう行っていいのかわからない。」ということになる。

 この歌が作られた背景を考えると、黄色い山吹と山の清水で「黄泉の国」をイメージすることができる。そうすると亡くなった十市皇女を慕って、黄泉の国に行きたいが、その道はわからないで悲しみに暮れているという歌になる。

 

 ちなみに十市皇女は、一度天智天皇の皇子、大友皇子に嫁している。壬申の乱で大友皇子が敗死した後、子どもである葛野王を連れて天武天皇のもとに戻っていたのであろう。

 その後、十市皇女は、天武天皇の7年に突然、宮中で急死をしている。一説では、斎宮になることを拒んで、自ら命を絶ったとも言われている。また、その一方で、天武天皇の皇子、高市皇子と恋仲であったとも言われている。

 大学生の時に読んだ北山茂夫氏の「天武朝」にそういう記述があったのを覚えている。確か、高市皇子と十市皇女と恋仲であったのを、天武天皇が引き裂くために伊勢の斎宮に任命し、それに抗議しての自殺であり、なぜこの二人を引き裂かねばならなかったのかというと高市皇子と十市皇女がくっついたとすると高市皇子の地位が上昇し、草壁皇子の立太子を脅かす存在になるというものだったと思う。

 

 里中満智子氏の「天上の虹」では、幼馴染であり、小さい頃から想いあっていた関係として描かれている。いろいろな憶測を呼び起こす関係であった。

 ちなみに残りの二首は下記の通り。

 三諸の神の神杉巳具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き

 三輪山の山辺真麻木綿短木綿かくのみ故に長しと思ひき

 一首目の方は「神杉巳具耳矣自得見監乍」のよみ方が確定していない。二つ目は、こんなに十市皇女の命が短いとは思わなかったと歌っている。

 二人の関係の本当のところはわからないが、この歌を読んでいるとさもありなんという感じである。

 

 犬養万葉記念館の玄関の横には、犬養氏の揮毫による「萬葉は 青春のいのち」という石碑が置かれていた。


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