神明神社古墳から山麓線に出て、南の方へ歩いていくと、右手に急斜面の丘のようなものが見える。これが屋敷山古墳なのだが、訪れたときは、ちょうど前年(2018年)にあった台風の被害で墳丘の一部が崩落したため、土嚢が積んだままになっており、麓には重機が置かれたままになっていた。
そのまま、道なりに歩いていくと、屋敷山古墳がある屋敷山公園の入り口がある。古墳は、山麓線に沿ってあり、南に後円部を向けた位置になっている。
写真は、後円部から見たところになる。
この少し行った所から公園の中に入る。
公園に入ると、まず目につくのが新庄城跡と書かれた大きな石碑である。
この屋敷山古墳のある辺りは、江戸時代、桑山氏の新庄藩の陣屋がおかれたところであり、屋敷山古墳も当然、陣屋の中に取り込まれて再利用されている。また、中世では、この辺りを治めていた布施氏の「里の館」として利用されていた。
ちょうど古墳の墳丘の裾の所に解説板があった。
墳丘の上にも、いろいろな建物が置かれていたようだ。そして屋敷山古墳の名称も、藩のお屋敷が置かれていたことに由来する。
この後、墳丘の上にも登ってみたいのだが、残念なことに修理中のため、立ち入り禁止となっていた。
ちなみに屋敷山古墳であるが、全長135mの前方後円墳で、前方部の西側に方形の造り出しがあった。先ほどの述べたように後世の改変が著しいが、航空写真などを見ると、何とか前方後円墳の形は保っているのがわかる。
屋敷山古墳は、公園整備の前の1974年に発掘調査が行われており、その際には、円筒埴輪や家型埴輪、盾型埴輪、蓋形埴輪などが出土している。また、くびれ部付近からは、長持形石棺の蓋石が見つかっている。(現在は葛城市歴史博物館に展示されている。)
また、墳丘の斜面からは、石槨の天井石が見つかっている。これは、現在、屋敷山公園内で保存されている。
これらの石棺や天井石は、竜山石で作られているそうだ。屋敷山古墳の後円部の埋葬施設として、竪穴式石室が用いられていたのだろうが、おそらく後世の攪乱で破壊されているようだ。
屋敷山古墳の周辺は図書館や文化会館があるなど市民の憩いの場となっており、僕が訪れたときも、たくさんの子どもたちが遊んでいた。
こういった光景を眺めながら、遅い昼食となったおにぎりをぱくつくのもいいものである。だいたい古墳探索に出かけると人と会う事もまれである場合が多い。
こういう保存の在り方もいいのではないだろうか。
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