馬見丘陵公園の北エリアから中央エリアへ渡って行く。中央エリアには帆立貝式古墳として知られる乙女山古墳がある。ちょうど、乙女山古墳の東側の横を通るルートをとる。
ほどなく行くと、乙女山古墳についての説明板があり、その後ろに墳丘が見える。説明板と道との間には濠らしきものがある。
この辺りが後円部にあたるようで、高さも傾斜もかなりある。無理をすれば墳丘の中には入れそうだが、立ち入り禁止となっていたので断念。
改めて、全体の写真を見たら、ちょっと無理っぽいな。(笑)遭難しそうだ。
乙女山古墳は、全長130mもある日本最大の帆立貝式古墳である。後円部は、後円部径104m、高さ14.7mと大きいのに対して、前方部が長さわずかに30m、高さ3mとなっていて、前方部がかなり貧弱な状況である。だから帆立貝式古墳なのだが。昔、何となく円墳⇒帆立貝式古墳⇒前方後円墳と変遷するのかなと思っていたが、それぞれが同時に存在しているので、政治権力の違いが墳丘の形に現れているということなのだろう。
乙女山古墳の埋葬施設についてもあまりはっきりはわからないが、石材などが見つかっておらず粘土槨ではないかと推定をされている。また、副葬品としては滑石製の勾玉や刀子、紡錘車、鎌などが見つかっている。
また、現地では確認ができなかったが、後円部の西側にも造り出し部がある。祭祀の場所であっただろうと考えられている。
乙女山古墳の築造年代としては5世紀の前半と考えられている。昭和31年に国の史跡となっている。
乙女山古墳の南側には、梅の木が植栽されており、古墳を訪れた2月の時期には、梅の花がちらほらと咲いていた。
その梅林から東、公園の外を眺めると文代山古墳の四角い姿が見える。文代山古墳は、馬見古墳群でただ一つの方墳で、一辺約48mある。平成10年から2年間で墳丘の範囲確認調査が行われており、葺石の存在が確認されるとともに、墳丘の西側に造り出しが見つかっている。
造り出し部分からは、猪形埴輪、甲形埴輪や円筒埴輪などが検出されている。埋葬施設としては、文代山古墳から出土したと伝わる長持形石棺の底石が、牧野古墳のある公園にベンチの様に置かれている。(馬見丘陵の古墳①~牧野古墳~)
築造は5世紀の後半と考えられている。馬見古墳群では、後の方の築造である。
この後は、さらに公園の中央に向かって歩いていこう。
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