休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

猿沢池 ~會津八一歌碑~

2018-08-21 23:18:35 | 文学をたどる
 興福寺の南大門跡から、階段を下っていくと左手に會津八一の歌碑かある。

 

 意外と目立たないところにあるので、これまで何回となくこの道を通っているが、今回初めてこんなところにあるんだと改めて目にとめた。歌碑には、「わぎもこ が きぬかけやなぎ み まく ほり いけ を めぐりぬ かさ さし ながら」と秋艸道人(=會津八一のこと)の筆で刻まれている。

 

 采女が入水する時に衣をかけたという柳を見ようと傘を差しながら猿沢池をぐるっと周るよという意味だろうか?この歌は、ある天皇の寵愛を受けていた采女がその寵愛を失ったことを悲しみ、猿沢池に身を投じたという伝説を踏まえたものである。

 

 確かに猿沢池の周囲には柳の木がいくつか植わっている。このどれかに采女が悲しい想いのなか来ていた衣をかけたのかもしれない。この自注鹿鳴集の注によれば、この采女が使えていた天皇は、平安時代初期の平城天皇だという。史実で言えば、平城天皇も藤原薬子の乱で敗れ、失意の中、奈良の都で生涯を終えた人である。

 この伝説は、非常によく知られていて「枕草子」などにも出てくるという。ただし、自注鹿鳴集の注で、柿本人麻呂の歌として、「吾妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻とみるぞ悲しき」という歌を引用しているのだが、猿沢池は、天平21年(749年)に興福寺の放生池として造られた人工池であり、柿本人麻呂が活躍していた時代には、まだなかったはずだけどと思いながら、調べてみると、「大和物語」の中にこの采女の話はあり、その中に平城天皇と思しき天皇が哀悼の気持ちを込めて人々に作らせた歌の中に、柿本人麻呂が作ったとしてこの歌が収録されている。

 そしてこの伝説を踏まえて作ったのが歌碑の歌という訳である。

 

 池の東には衣掛柳に石碑があり、その横には十三重石塔も建っている。いつ行っても不思議に外国の人が座ったり寝たりしている。外国の人にウケるスポットになっているのだろうか?

 この日は、ならまち周辺で「ならまち遊歩」というイベントがあり、ならまちの家々の軒には、ならまち遊歩と書かれた提灯が掲げられており、猿沢池周辺ではライトアップがされていた。

 

 わりと時間があったので、比較的明るい時間から猿沢池周辺で池の中の提灯が点灯するのを待っていた。

 

 池の中にある提灯はどうやって点灯するのかなと思ってみていると、意外と原始的に人の手でライトを提灯の中に入れていた。風が強かったため、提灯が倒れたりして、大変そうだった。お疲れさまでした。

 

 午後7時ぐらいまで粘って何とかライトアップの気分が味わえた。

 

 何枚か写真を撮ったが、デジカメだと見えていた景色よりも明るく写ってしまった。う~ん。

 

 難しいなあ。でも、猿沢池と五重塔、そして水面に写る五重塔の影、この景色がいつ見ても好きだなあ。見れど飽かぬって感じかな。

 

 ちなみに、ならまち遊歩は、8月26日(日)まで開催しています。
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