大阪は、堺にある古刹南宗寺。弘治3年(1557年)戦国大名三好長慶が、父三好元長の追善のため、創建したものである。三好長慶ってあまり知られていないが、織田信長が登場する少し前、畿内を治めていた武将である。足利将軍家、細川管領家を押さえて、三好政権ともいえる権力を持っていたと言われている。昔は、将軍家、主家である細川家を追いやって権力を握ったところから、松永久秀とともに下剋上を象徴する悪いやつみたいなイメージで語られていたが、近年、評価が変わりつつある人物である。
この日、南宗寺を拝観した時に、地域のボランティアガイドの人がずっと説明をしてくれたのですが、その中に結構普通に「堺幕府」という言葉が出てきてちょっとびっくり。堺幕府については、足利将軍足利義晴の足利義冬を、細川晴元や三好元長が担ぎ、堺を本拠に畿内を掌握した政権である。その期間は5年間ほどである。
南宗寺の山門の近くにある三好長慶像。つい最近に造られたものである。堺の経済力を背景に畿内を支配した。
境内には、三好一族のお墓もある。
南宗寺には、その他にも有名な人のお墓があり、千家一族のお墓もある。
中央の一番大きなお墓が千利休であり、右に表千家、左に裏千家、手前の右に武者小路千家のゆかりに人たちのお墓が並ぶ。その他境内には、武野紹鴎や津田一族など茶道にゆかりのある人たちのお墓がある。
三好一族のお墓の前に、今回の目的のものがある。
堺には、大阪夏の陣で徳川家康が討ち死にしていたという伝説があるのである。この南宗寺には、徳川家康が、茶臼山の本陣から退却する途中に、後藤又兵衛に駕籠ごと槍で突き刺され、堺まで逃れてきたものの、すでに駕籠の中で事切れており、この南宗寺の開山堂の堂下に隠し、のちに東照宮に開創したと言われている。結構、有名な伝説で、僕も中学校の時歴史の先生から教わった記憶がある。
実際にこの地には、徳川家康を祀った東照宮が戦前まであったという。(戦災に遭い、現在は焼失してない。)大阪には珍しく徳川家とのつながりを色濃く残している。ボランティアガイドの話では、堺では、豊臣秀吉以上に徳川家康の方が人気があるのだそうだ。堺の街を保護したのは徳川家康であったかららしい。
そしてその伝説の証拠と言われるのが、この卵塔墓である。
これが徳川家康の戦死後借埋葬碑と言われているものである。もともとは、この場所に開山堂があり、開山堂が戦災で焼失後に床下から出てきたものだという話である。徳川家康に対してあまり快く思わない大阪の人間からすると拍手喝采の物語ではある。
また、南宗寺には、坐雲亭という建物には、徳川秀忠や家光が相次いで御成りしたという板額がかかってるらしい。
これも、立て続けに将軍が来るのは何かあったからに違いないと憶測を生む一因となっている。
これは、戦後、高度成長期に水戸徳川家の家臣の末裔という人が建てた徳川家康のお墓である。協力者に松下幸之助の名前が見える。もともとは、この場所に東照宮が建っていたのだそうだ。
唐門。もともとは、東照宮に通じる門であった。何と屋根瓦には、徳川家ゆかりの三つ葉葵の紋が・・・。ちなみに、国の重要文化財に指定されている。
その他、方丈の枯山水庭園は、古田織部好みの名園ということで国の名勝になっている。
逆光であんまりきれいに写っていない。残念。
仏殿、山門も国の重要文化財に指定されている。
仏殿には、天井に狩野信政という人が描いた「八方睨みの龍」の画がある。実際に仏殿の中で見ることができるのだが、どこから見ても目が合う不思議な画である。
お寺自身は、堺という都会の中にある気がしない、どこか田舎の小さなお寺という感じである。建物の京都にある禅宗のお寺と比較するとミニチュアみたいな感じである。ただ、その背景にある歴史的な文化の蓄積は遜色ないように思えた。これまでなかなか、大阪の人は、こういう歴史的な文化の重みの大切さに気付いてこなかったのである。
この日、南宗寺を拝観した時に、地域のボランティアガイドの人がずっと説明をしてくれたのですが、その中に結構普通に「堺幕府」という言葉が出てきてちょっとびっくり。堺幕府については、足利将軍足利義晴の足利義冬を、細川晴元や三好元長が担ぎ、堺を本拠に畿内を掌握した政権である。その期間は5年間ほどである。
南宗寺の山門の近くにある三好長慶像。つい最近に造られたものである。堺の経済力を背景に畿内を支配した。
境内には、三好一族のお墓もある。
南宗寺には、その他にも有名な人のお墓があり、千家一族のお墓もある。
中央の一番大きなお墓が千利休であり、右に表千家、左に裏千家、手前の右に武者小路千家のゆかりに人たちのお墓が並ぶ。その他境内には、武野紹鴎や津田一族など茶道にゆかりのある人たちのお墓がある。
三好一族のお墓の前に、今回の目的のものがある。
堺には、大阪夏の陣で徳川家康が討ち死にしていたという伝説があるのである。この南宗寺には、徳川家康が、茶臼山の本陣から退却する途中に、後藤又兵衛に駕籠ごと槍で突き刺され、堺まで逃れてきたものの、すでに駕籠の中で事切れており、この南宗寺の開山堂の堂下に隠し、のちに東照宮に開創したと言われている。結構、有名な伝説で、僕も中学校の時歴史の先生から教わった記憶がある。
実際にこの地には、徳川家康を祀った東照宮が戦前まであったという。(戦災に遭い、現在は焼失してない。)大阪には珍しく徳川家とのつながりを色濃く残している。ボランティアガイドの話では、堺では、豊臣秀吉以上に徳川家康の方が人気があるのだそうだ。堺の街を保護したのは徳川家康であったかららしい。
そしてその伝説の証拠と言われるのが、この卵塔墓である。
これが徳川家康の戦死後借埋葬碑と言われているものである。もともとは、この場所に開山堂があり、開山堂が戦災で焼失後に床下から出てきたものだという話である。徳川家康に対してあまり快く思わない大阪の人間からすると拍手喝采の物語ではある。
また、南宗寺には、坐雲亭という建物には、徳川秀忠や家光が相次いで御成りしたという板額がかかってるらしい。
これも、立て続けに将軍が来るのは何かあったからに違いないと憶測を生む一因となっている。
これは、戦後、高度成長期に水戸徳川家の家臣の末裔という人が建てた徳川家康のお墓である。協力者に松下幸之助の名前が見える。もともとは、この場所に東照宮が建っていたのだそうだ。
唐門。もともとは、東照宮に通じる門であった。何と屋根瓦には、徳川家ゆかりの三つ葉葵の紋が・・・。ちなみに、国の重要文化財に指定されている。
その他、方丈の枯山水庭園は、古田織部好みの名園ということで国の名勝になっている。
逆光であんまりきれいに写っていない。残念。
仏殿、山門も国の重要文化財に指定されている。
仏殿には、天井に狩野信政という人が描いた「八方睨みの龍」の画がある。実際に仏殿の中で見ることができるのだが、どこから見ても目が合う不思議な画である。
お寺自身は、堺という都会の中にある気がしない、どこか田舎の小さなお寺という感じである。建物の京都にある禅宗のお寺と比較するとミニチュアみたいな感じである。ただ、その背景にある歴史的な文化の蓄積は遜色ないように思えた。これまでなかなか、大阪の人は、こういう歴史的な文化の重みの大切さに気付いてこなかったのである。
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