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捏造科学情報にジャーナリズムはどう対処すべきか
世界で初めてiPS細胞(人工多能性幹細胞)を使った臨床研究を行ったとする森口尚史氏(元東京大病院特任研究員)の
虚偽発表は、われわれメディアにさまざまな反省を与えた。
かつてヒトクローン胚から胚性幹細胞(ES細胞)を世界で初めてつくったとする
元ソウル大教授の論文捏造(ねつぞう)が発覚したことがあったが、この際も世界のメディアはだまされた。
科学・医療分野の優れた報道で知られる米紙ニューヨーク・タイムズでさえ、例外ではなかった。
「私たちは捏造を防ぐシステムは持ち得ない。だからこそ研究の本質を見抜くことが求められる」。
約5年前に当時の同紙担当デスクから聞いた言葉は色あせることなく、いまなお胸に響いている。
(篠田丈晴)
異常だった韓国の捏造報道
米紙ニューヨーク・タイムズは科学や医療に関する記事が充実していることでも知られ、
この分野で、米国の優れた報道に贈られる「ピュリツァー賞」に何度も輝いている。
2008年3月、科学編集部を訪ね、当時の担当デスク、ローラ・チャンさんに話を聞く機会を得た。
ソウル大の黄禹錫(ファンウソク)元教授が行ったES細胞作成に関する論文の捏造は、
黄氏を英雄視していた韓国社会に衝撃を与えた。
それ以上に、チャンさんら世界中の科学担当のジャーナリストに深いダメージをもたらした。
ニューヨーク・タイムズも発覚直後には検証作業などの対応に追われたという。
この問題を振り返ると、黄氏はヒトクローン胚からのES細胞作成に関する論文を捏造し、
研究支援金をだまし取ったなどとされる。
詐欺や業務上横領罪などに問われ、09年10月に懲役2年、執行猶予3年が言い渡された。
判決によると、黄氏は04年と05年、捏造した論文を米科学誌サイエンスに発表し、
国や研究機関から計約8億3500万ウォンをだまし取った。
韓国内でノーベル賞に最短距離にいると英雄視されていた黄氏をめぐる騒動は異様だった。
韓国社会には自然科学分野での受賞が相次ぐ日本に対するコンプレックスもあり、拍車をかけた。
まず黄氏は記者会見で疑惑をいったん否定した。
すると、韓国メディアが事実確認をするより先にインターネットを中心に「黄教授を最後まで信じよう」という擁護論が拡大した。
研究用のヒト受精卵を教え子から提供を受けるなど倫理上の問題があったにもかかわらず、
それを報道したテレビ局が「国益に反する」とバッシングにあった。
韓国世論の“圧力”に押され、韓国メディアの追及は甘くなった。
ジャーナリストと科学者の違い
こうした韓国内の報道は特別なものかもしれないが、
博士号などの学位をもつ編集者や記者も多いニューヨーク・タイムズの科学編集部でさえ、
黄氏のケースのような捏造された研究を事前に見抜くことは難しいという。
チャンさんは「捏造に対し、私たちはずっと無防備であり、
今後も簡単に対応できるシステムを持つことはないでしょう」と言った上で、こう指摘した。
「ジャーナリストは決して科学者ではないし、そうあってはならない。
私たちにできる仕事は過去の経験から学びながら、証拠付けへの努力を怠らないことでリスクを最小限にするだけです」
科学者の説明に誇張が多く、歪曲(わいきょく)が少しでも疑われれるケースはある。
チャンさんが指摘するのは、ジャーナリストには、
その研究についてより確実な証拠を科学者に強く要求する姿勢が求められるということだ。
常に更新されるべき情報
いったん報道した科学や医療に関するニュースが、その後の研究で異なっていることが判明したり、
新たな展開があったりするケースも少なくない。
特に基礎研究は日進月歩だ。アップデート(最新のものに変更すること)は仕方のないことかもしれない。
ニューヨーク・タイムズでは、どんな対応をしているのだろうか。
チャンさんは「科学記事は常にアップデートされるべきものと考えています」と説明し、
「記事になる段階ではその内容が最新なので、もちろんそのときに報道する義務がある。
しかし間違いや新展開がわかれば、丁寧に追加取材をするべきです」と付け加えた。
特に医療ニュースの場合は、患者の命に直接かかわることが多い。
迅速な対応が求められるため、記事を書いた医療担当の記者はその後のフォローを大切にしているのだという。
医療記事に注目する読者が多いだけに、気が抜けないのだ。
悪意をもって利用されないために
そして、チャンさんが常に心配しているのが、メディアが悪意をもって利用されることだった。
「ときに野心家の研究者や製薬会社など大企業が特ダネをダシに、ジャーナリストに近づき利用することもあります。
そうしたことを、報道に携わる者は常に警戒しなければならない」
世界初のiPSの臨床応用をめぐる報道では、産経新聞も反省すべき点が多かった。
科学・医療記事を伝えるためにメディアがすべきことは何か。
それについて、チャンさんが自戒を込めて語ったシンプルな言葉を肝に銘じたい。
「その研究内容の本質を見抜くこと。その力こそが私たちに求められるわけです」
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