世の中に、不思議なこととか、思いもかけない
こととか、何でこんなことが起こるんだろう、とか。
ということが沢山あることですけれども。そういう
ことに把われてると、人間というものは心がだんだん
苦しくなってきて、そして、がんじ搦(がら)めに
なってきて自分というものが分からなくなってくる。
私共の方で自分というのは、この肉体の自分だけ
ではなくて、何十回も何百回も言っておりますように、
本体の本心の自分ということを私達は問題にして、
そうしてそこへ自分が還っていくように祈りを重ねて
生きていく。そのお手伝いをしている訳であります。
ところが、この日常の中で自分がという場合には、
その自分の中の見えない世界の自分というものは、
もう忘れ果てておりまして、なかなかその自分が
自分がの自我の方の自分が沢山出てくる。それで、
色んな人と付き合ったり、付き合った末に悩んだり
悲しんだり喧嘩をしたり、まあ取組み合いの喧嘩を
するかどうかはわからないけれども、何か
そんな風なことが重なり合って、そこで窮屈に
なって、何で自分がこんな目に合うんだろう、何で
これだけ自分がやってあげたのに相手に感謝され
ないんだろうとか、何で自分の想いが通じないん
だろうとか言うけれども、それは大きく言えば、
我の世界の自分でありまして。その把われの世界に
生きてる以上、人間というものは非常に不自由な
窮屈なものになるのであります。
そこで私は前から消えてゆく姿というものをですね
提唱して、そして、色んな想いが出てきても、それは
自由自在な自分に還る為の消えてゆく姿なんだと。
だから、色んな想いが出てきても、ああこれは
過去世からの業が消えてゆくその姿なんだと思って、
その瞬間に、神様五井先生と言って、こっちへ返して
くれれば、それでこっちはパーッとサーッと浄めて
ゆけるんだということをずっと申し上げて来ている
のであります。それでも尚且つ出てくる。出てきても
構わないんだということを私は申し上げている訳で
あります。
日常の生活というものは、お金を儲けなければ
ならない。生きていかなければならない。食べて
いかなければならない。そういうことがあります。
そういうものを捨ておいて、それでただ神様神様
と言ったって、なかなかそれはやっていけるもん
じゃない。覚悟もできるもんじゃない。そういう
ことは、皆さんの私達の守護霊さんがもう百も承知
千も承知でありまして、だからこそ日常の色んな
苦しいことがあっても守ってるんだということを、
世界平和の祈りの中で教えている筈でありますけれども、
なかなか目に見えないことでありますから、そこで、
愚痴も辛いという言葉も涙も出てくる訳であります。
で、私共は愚痴ってもかまわない、とに角、光の
本体である自分をその都度その都度、五井先生
出して下さい、神様出して下さい、というその
祈りを受けてやっていく内に、だんだんだんだん
人間というものは光そのものへ、光明そのものへ
本来の自分そのものへ還ってゆくんだということを
教えてゆかなければいけない。
その為には、日常というものを馬鹿にしないで
生きるということ。現実に人間である我々は、
肉体身が終わるまでは肉体をかぶってですね、
いくら霊体が本物だ神体が本物だっていったって、
この世の中生きてゆかなきゃいけない訳ですから、
その肉体を大事にして愛して、そしてやっぱり
それを養って生きていく。その為にどうすれば
いいかということを、この智恵というものを
祈りの中で考えついてゆかなきゃなんない。その
お手伝いを、私共宗教者はしなきゃいけない訳
であります。ですから、私は無理なことをしろ
とはいいません。あるいは無理な霊能力をつけろ
ともいいません。つけさせようとも思わない。
霊能力なんてものは、皆が皆あるといえば
あるんです。そういうものが見えるとか見えない
とか、色んなものが出てくるというのは、これは
前生からの因縁といいますか修行の結果で、そうして
しかも、それが見えても聞こえても、なかなか
把われないところまでいくには大変なことで
ありますけれども、見えてる人、聞こえてる人、何か
させられてる人というものは、神様が必要あって
そこでなさる訳ですから、させる訳ですから、それは
そこで素直になってやっていけばいいんです。
ただし、そういう役割の人であっても、やはり
日常の営みを忘れるという風なことがあっては、
これは人間として宗教者としても、やはり片輪に
なってしまう。片輪にならないでどうやって
バランスをとって生きていくかということになると、
色んな所へ飛びこんで、あるいは飛び込ませて、
苦労をさせなくちゃなんない。その苦労というのも、
何もお金の苦労をさせる、人付き合いの苦労をさせて
守護霊さんが魂の修行だからといって、こっちで
じいっと冷然と見てるという訳ではなくって、苦労
してるな苦労してるなと想いながら光を差しのべて
いる訳でありますけれども。当の苦労をさせられてる
本人というのは、苦労の方が目前にきていますから、
光がなかなか自分の方へ向いてるなんていうことは
考えも及ばない。五井先生にこんな風に頼んで
おいたのになかなかこっちの方へやってもらえない
とか、まあ給料少ないとか、色んな愚痴がこっちへ
届いて来る訳です。それこそ人間的な愚痴が
こっちへ来る訳ですけれども。
しかし、私共は、天命というものをずっと通して、
その人の天命が本当に真白になって神様の中に
ずっと融け込んでいくというその為に、守護霊さんや
守護神さんやあるいは私や神様や皆が苦労してる
訳ですから、その苦労というものは実は、肉体人間が
苦労する、一時の感情で揺れ動くという風な苦労の
何十倍何百倍何千倍な訳です。だけれども、それは
苦労は苦労とちっともこっちは思っていない。思って
いないというのは何故かというと、それは一人一人
皆さんが可愛いいからであります。可愛いく
なかったらこんな苦労なんか出来っこないんです。
一緒に泥まみれになって苦労したりですね、
泣いたりですね、喚いたり恨んだり、いちいち
やっぱりこっちも感情移入をしながら、特に私なんか
感情移入をさせられながら、一人一人見守っている
訳ですから、これが本当に肉体だったらたまったもん
じゃないと思う程、今何万人もの何十万人もの人の
想いを受けたり返したりしている日常で
ありますけれども。
とに角、私共が光であるということを肝に銘じて
おりますと、不思議なこととか、とんでもないこと
とか、思いがけないこととか、そういうものが
起こってまいりましても揺ぐということが少ないんです。
何故なら、いつも申しておりますように、本体
というものは揺がないんである。本心というものは
揺ぐということはまず有りえない。揺ぐものは
気持ちがゆらぐ。感情が揺ぐんであります。ちょうど
波が風を受けて騒いだりあるいは嵐が来て波が
波打ったりするけれども、海の底はちっとも平和
そのもので全く(何も)波立ちも何もしない。調和
そのものの世界である。魚だとか海藻だとか、
そういうものの生命をそのまま受けて安らがせて
いる様に、何ら調和の世界に変化はない。
そういう調和の世界というものを、生命さながらの
世界というものを、実は人間は一人一人の中に
持っている。一人一人が神の宮なんであるという
あのイエスの言葉というのは、本当にここのところ
において真実な訳です。あるいは釈迦が汝ら精進せよ
と言ったように、自分が死んだ後もずっと努力して
いきなさいと、祈りの生活を続けていきなさいと
言ったのは、この調和の世界が自分の中にあるんだ
ということを絶えず確認する努力をしていかなければ、
肉体身というものは弱いから、自分の中にそんな調和の
世界があるなんてことはなかなか分からない。あるいは
又もっと話を別の方にすると、法然にしろ親鸞にしろ
日蓮にしても、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経という
あの六語なり七語なりの中に生命をこめた言葉がある
という発見をしたのは、あれは非常に素晴らしいことで
ありまして、あの中に本当にさながらの光明が
生き生きと生きづいている訳でありますけれども、
しかし、南無阿弥陀仏と言ってしまってサッと
悟れるかというと、なかなか肉体人間そういう訳に
いかない。ただ南無阿弥陀仏にしても何にしても、
その中に光があって、光のエレベーターに乗って、
それがサーッと高い所まで自分を連れていって
くれるんだ、自分の心の奥底にある調和の世界に
自分がそのまま合体して合致して生きていけるんだ、
生き通しの生命なんだというところまでの自覚を、
あの南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろ、
あの真理そのままの言葉の中に人間は合体した時に
光になってゆけるという、この大きな真理を発見
したというのは、これは大変なことなんであります。
それはちゃんと、日蓮なり親鸞なり法然なりの
後に大きな大きな深い働きをする守護霊さんがいて、
そういういわゆる末世といわれた時代に、本当に
人間が救われなければならない、その魂の要求に
み合った道は何であるかということを、あの人達に
示した訳であります。
ところが今は、色々なものが情報が多すぎて、
見るにしても聞くにしてもあるいは行動する
にしても、飛行機であれば世界中どこへだって
行けますし、ニュースなんていうのは一日の内に
地球の裏側からでも入ってきますし、だんだんだんだん
世界が狭くなってきて、そして、だんだんだんだん
自分のまわりの関わりがそれと反比例して薄くなって
ゆく。親子であっても何か親が信じられない、子供が
信じられない。そういう世界になっていった時に、
自分というものを本当に今この瞬間に見つめられてる人が
どれ位あるかというと、これが非常に頼りないことに
なってきている。だから、自分というものが見つめ
られずに自信が持てずに頼りなくなった時に、じゃあ
どうするかということが、今この世界中の生きてる
人間たちの共通の悩みになってきている訳であります。
そこで色々な芸術や文学や美術などの方面で、
そういうものを、慰めを、あるいは何とか人間がこの
突破口を作って、そしてそこから抜け出して自由な
生命になるにはどうしたらいいかということを、宗教
だけじゃなくて、色んな方面の人が今手さぐりを
している。もちろん宗教者もそれをやる。
だから、この間のような宗教のサミットなんかが
開かれたりして、そして、あれは色んな人が集まって
来た訳でありますが、その共通の根本の願いというか
祈りというか、我々を結び合わせているものという
ものは、やはり、世界人類というこの一つの大きな
深い命題でありまして、我々がこの地球に生きている
ということ、そしてこの地球に生きている以上、
この人類が平和でなければならないという非常に
素朴なところから始まるこの言葉、それへの祈念
というものが、あのサミットを成功させたのであります。
そして、我々が唱導しているこの世界人類が平和
でありますようにという祈りは、ただ、単にこの
地球に生きている人間が平和であるようにというだけの
祈りではなくて、この我々人間が平和な気持ちになれば、
調和する気持ちになれば、自然に我々が生きてる
まわりのこの自然をも大切にするし大事にして、
あらゆるものの生命を尊んでゆくし、それは我々の中の
霊性というものを目指して、そして、奥の自由な体
というものはもう自在になってゆけば、地球だけに
この生命が生きてる訳ではない、宇宙の調和そのものの
一環が地球に生きてる我々人間の体の中に埋め込まれて
いるんだということに気がついてゆけばですね、これは、
宇宙全体に本当は鳴りひびく祈りであるんだ、
世界人類が平和でありますようにというこの一句(く)
の中には、宇宙全体が求めている祈り、調和そのものを
求めていく祈りというものが実は込められている。
宇宙子科学のメンバーが、今必死になって計算したり
何だかんだやっている。それというのは、地球の波動
というのは今実は一番遅れている。それは何で遅れて
いるかというと、宇宙人類というものは、本当は心波
でもって心の波でもって、自分が調和した心の状態に
ある調和こそがこの世界の最大目標なんだということを
知っている訳です。それに反して地球の人類という
ものは、肉体を本来の自分だと見誤(あや)まって、
我(が)の世界できておりますから、この我を脱ぐために
随分苦労をしている。先程申しました様な、親鸞に
しても法然にしても釈迦にしてもですね、あるいは
イエスキリストにしたって、その我を脱がせる為の
先覚者であった訳ですけれども、それはそれで大変に
光明を発揮した訳ですけれども、今はとに角、これ程
国が分かれて、そしてこれ程色々な紛争の種があって、
人間が短気になってる時に、どんな風にしたら本来
心の芽を導き出して、そして、それに肥料を注いで
芽吹かせるかということになれば、これはもう
世界人類が平和でありますようにという言葉を
根にする以外にはないのであります。
そうして、この宇宙人類というものは、もうとっくに
そこに気がついておりまして、自分というのは自分の
心の波の奥底の世界によって自分が動いている。神様の
意志によって動いている。神様によらない生命
というものは何一つないということを分かって
おりますから、そこで、争いとか無用の醜い姿とかを
晒すとか、そういうことは全く有りえない。それを
何とかしてそこの方向へ持って行こうとしているのが、
宇宙子科学のメンバーが今必死になってる作業
でありますし、昌美なんかが今一所懸命アメリカで
やらされている作業というのは、地球人類の波動を
四次元五次元六次元七次元とに角高次元に、宇宙人類の
心波の世界にまで高くして、そうしてそれを
知らず知らずの間に埋め込みそういうブラウン管を
埋め込み、アンテナを埋め込むというその作業なんで
あります。
ところが、この波動があまりにも細かいもので
ありますから、全部に行き渡らせるといっても、まず
誰か受け手がなければ、これは非常に強烈な心波
そのものをもってきて今の地球人類のこの我の世界に
ポンと投げ出しても、その光の波だけで皆が気死
してしまうような、そういう強烈な波でありますから、
それをまず受け器である昌美が受けて、そうして
その波動をどんどんどんどん割っていってですね、
小さな小世界をずっと作っていって、性能は同じもの
ですけれども、それをどんどんどんどん皆に分けて
いくと。その為に今一所懸命祈りの世界の中に入って、
大神様の中に生命をあずけてやってる訳です。
取り敢えず、皆が生きる為の、生きるというのは
肉体の生命が生きるというんじゃない、宇宙人類の
中の兄弟の一人である、そうして人類というものは、
平和な争いのない、しかも愛深い神様の御心に適う
器でありたいと望む、そこへ持っていくということを
大本願にして進まなきゃなんないんだということを、
まずこちらがスイッチの切り換えを今やっている
訳であります。
じゃあ種を分けたその種を10個なら10個持って
帰ってきて、昌美がどんな風に埋め込むかというと、
それは、そこから守護霊さん守護神さんの世界に
なる訳でありまして。たとえば、世界人類が平和で
ありますようにというあの世界平和の祈りの中に、
その種を入れていってしまう訳であります。
そうすると、皆さんの守護霊さん守護神さんが、
その種ごと世界人類が平和でありますようにという
祈りを受け取りますので、それを口に宣べて祈りを
唱える。あるいは心の中で唱える。フェローの人は
フェローの印を組む。講師は講師の印を組む、
という中で、浄めの中で、スーッとその体の中へ
その種が入っていく。そうしますと、知らず知らずの
内に本心開発がなされていって、不思議なことも
思いがけないこともやり切れないことも、だんだん
芽を出さなくなっていく。
芽を出さなくなるというのは、感情が鈍くなる
とか感じなくなるとか、そういうことではありません。
それとは全く正反対のことでありまして、感受性
というものは鋭く深くなっていくし、愛も深くなって
いくし、どっちかというと、今までよりももっともっと
心の襞の細かい波動の細かい人間になっていく訳で
ありますけれども、人間というものは、いつも私が
申しておりますように、人、霊に止まると。
あそこへ還らなきゃいけません。我々が霊の生命
であって神の生命であって、霊妙な朗らかな生命の
根本に還った時にはじめて、世界人類の平和という
ものは完成をされるわけであります。まだそれが、
肉体人間の想いや迷いなど色々な荒い波がある
この地球世界の中で、ただ単にそういう願いだけ
では弱すぎる、祈りだけでも大変だというので、
取り敢えず世界平和の祈りというものがこちらへ
与えられて、そしてそれが真理の言葉になって
それを手助けする為に、守護霊さんや守護神さんや
あるいは霊団というものが後でパーッと働いて、今
この改革をどんどんやっている訳であります。
ですから、今なんで自分がこんな所に居なきゃ
なんないんだろう、なんで今というのは、それぞれ
皆あると思いますが、そのなんで今というその
やりきれない場面だとかを見せられるというのは、
それが一つの人間のいつわりのない姿なんだという
こと。いつわりのない姿を見せられて、そしてそれを
受け入れる。皆それぞれ人間違いますから、まるで
同じということはありませんけれども、自分の中にも
そういう嫌な面、辛い面、やり切れない面、肉体人間
であるならば自分の中にもその芽があるんだという
ことをじっと見つめてそうして、しかもこういう人間
であるということは百も承知千も承知で守護霊さん
守護神さんというものはあるいは神様というものは、
我々の生命を天命を引き受けて下すってるんだ
ということをちゃんと自分の奥底に自覚をする。
その為の世界平和の祈りであり、その為の
宗教信仰であるということを考えてまいりませんと、
ただ現象のことだけに把われて何でだろうと考えて
しまうだけでは、我々の進歩というものは止まって
しまうのであります。
人間というものは人類というものはあるいは魂
というものは進化をせずにはおかないものであります。
何故かというと、完全な平和とか完全な調和とか
あるいは完全な愛にむかって進まないではいられない、
そういう性質を我々の本体というのはもっておりまして、
あの霊光写真の中に現れているああいう真白な何の
障りもない、あの光そのものになる為の、なりきる為の
祈りというものを、我々の本体というものは欲している
訳であります。その為に色々なものが、うちの会
であるならば、平和行進があり世界平和の祈りがあり
ピースセレモニーがあったり、ピースポールを建てたり
という行事がある訳であります。
ただし、その行事そのものも、ただピースポールが
建てられればいい、ただセレモニーをやればいい、
ただ祈りの会をすればいい、何回行進をやった
先生を呼んだというのは目的ではありません。
それを通して、自分の中の魂の芽が幾分かでも
発芽をして、そうして自分の中の魂が浄められて
いくような、そういう実感を味わう、祈りを深くする
ということがなければ何にもならないのであります。
それでなければ、それはただ単に形の世界に
とどまることでありまして、これは、進化とも
何ともなっていかないものなのであります。
ところが人間というものは、やはり矛盾をする様で
ありますけれども、ある程度のしるしなり形なり
何かの成果なりというものを目の前にしておかないと、
やはりこれは非常に不安になるものでして、その
ある程度のしるしなり形なり、例えば、本部から
講師の先生を呼んで話を聴く、皆の中にいる自分
というものを自覚をしてはじめて、じゃあこの言葉
について深く考えてみようかとか、色々なことを自分は
考えられる。そういう場が与えられてはじめて人間
というものはそういう気持ちになってゆける。そういう
部分があるのでありまして、それを私は何も、それでは
だめだということではないんであります。
それは大いに利用したらよろしいけれども、しかし、
それを一つまちがうと、何回講師の先生を呼んだとか、
何回柏手を打ったとか、お浄めをしたとか、いう風な
回数を数える様なことになっていく訳でありまして。
ところが魂の修行というものはそんなものではなくて、
回数ではないんであります。あるいは成績主義では
ないんであります。魂がどの程度目覚めるか
ということは、我々の世界というものが、我々の
心の中の本心というものが、どの程度開いていくか
ということ、どの程度自分の中のものを捨て去って
無になってゆけるかということでありまして、
その為に祈りがある。
それで、祈りというものは、どの宗教でありましても、
そういう自分の中の余分なものを捨て去る。たとえ
瞬間でも構いません。その捨て去る時の充実と
助ける為に祈りというものがあるんであります。主の
祈りにしても、南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経
にしてもそうであります。どこから入ってもそれは
そうであります。光明は絶えることはありません。
けれども、今この現代の世の中で、「世界人類が
平和でありますように、日本が平和であります
ように、私達の天命が完うされますように、
守護霊様守護神様ありがとうございます。」という
このどこをとり上げても無理のない、感謝と愛念に
満ちた、この祈りを唱えることによって、私共は
私共の中に常にある、しかし、常には眠らされてる
神性と、私共の肉体が一致をして、そして、肉体は
肉の身のままに光と化していくことが出来る
のであります。その光となっていく日常を重ねていく
ことによって、だんだん肉体が肉体のままでありながら
波動が細かくなっていって、そうしてついに、全く
死にきってむこうに行かなければ波動が細かく
ならないという様な時代ではもうなくなってまいります。
でなければ、この世の中というものは常識に照らして
動いていくものでありますから、この世の中の常識に
照らして動いていく世の中で、光明というものが
働く為には、自分の波動がいつの間にか光明化されて、
そして肉体のままで、何も祈りをするとか会に出るとか
そういうことではなしに、知らず知らずの内に
やっていることが光明化されていくと、自分の口から
出る言葉あるいは接する態度めざし、そういうものが
和らぎに満ちたものになっていく。
それだけで、それはそこに愛念が輝くということに
なっていくのであります。そうして、私などは
そういうさり気ない態度の方がむしろ大事であると
考えている訳であります。
宗教といいますと、ことさらに祈りを何度しなければ
ならないとか、ねばならないという規制が沢山
あった様に思います。けれども、これ程複雑な世の中に
なってまいりますと、ねばならぬということが非常に
窮屈になってきておりまして、あるいは実際の生活上
できないということになってきておりますし、実際、
本体をたずねてみますと、あるいは本来の神様の姿
というものをたずねてみますと、そんなものではない
のであります。神様というものは、人間が今何を悩み
どう苦しみ、だから何が必要であるのかということを
何もかもご存知で、その上で私に世界平和の祈り
というものを与えて、この世界をあるいは私達
一人一人の人間を光明化していく、手助けとする
ようにということで、私は任命されたのであります。
でありますから、何にも考えることはいらない。
とに角最初に申し上げました様に、色々な想いが
出ても迷いが出ても、あ、これは消えてゆく姿なんだ、
腹が立ってもかまいません。腹が立ったら腹立ちの
そのままを私に下さればいいわけであります。
皆さんぶつぶつ言うとか、皆さんが必要以上に嘆き
悲しむとかいう時は、それは私に対する預け方が
足りないのでありまして、そんなことまで五井先生に
言っちゃったら申し分けないとか、こんなことまで
と言っても、こちらから見ておりますと皆見えて
おりますし、皆聞こえてまいりますし、見ようと思えば
こちら全部見える訳でありますから、隠しようがない
訳であります。で、そういう状態であるということは、
一人一人残らずこちら見えておりますし、こちら
知っておりますから、それならばいちおう全部預けて
任せてですね、そうしていただき直しの生命を又新しく
貰うということの方が出発がしやすいのであります。
あるいはこちらもさせやすいのであります。ですから、
どんな時であっても、神様というものは人間を愛さない
ということはない。たとえ不幸のどん底にある様に
みえているその時でも、あ、これで過去世のそういう
苦労が一つ消えたなあ、こちらの方では計算が
できております。
なかなか人間の方はそうはまいりませんけれども、
泣きながらでも、祈りをして下さるとこちらでは光を
送りやすい。あるいは祈りが出来なくっても、それは
その時は、こちらの方で何とでも致しますから、とに角
愚痴であっても何であっても、神様の方へ顔を
向けながら愚痴を言う。あるいは文句を言う。神様を
忘れて文句を言いますと、それが業になって
どうどう巡りを致しまして、どうにもならなくなって
まいります、それでがんじ搦めになって、そういうのを
魂の入らない仏に近いというのであります。
我々は、人間というものは、飽くまでも進化をせず
にはおかない、あるいは、せずにはいられない魂、心
というものを本心というものをもって生きている
ということを考えておりますれば、なかなか光から
顔を背けられないのであります。背けたいと思っても
背けられないのが人間なんでありまして、その辺を
考えてゆきます時に、我々は、会に出ようと出まいと、
印をきろうときるまいと、祈りの言葉が出ようが
出まいが、ちゃーんと守護霊さん守護神さんが
守っていて、こちらから私が見ていて、神様がいるんだ
ということさえどっかに置いといてもらえれば、
知らず知らずの内に本心開発が出来ていく。あるいは
祈り言葉も出てくる。そういうもんである。
そうしていく内に、だんだんだんだん人間の魂も
肉体もあるいは言葉も、自然法爾(じねんほうに)の
世界にすーっと入っていく。ということを今日ここで
皆さんの心の中へ種をまいておきたいと
思うのであります。
昭和63年5月5日
五井昌久
こととか、何でこんなことが起こるんだろう、とか。
ということが沢山あることですけれども。そういう
ことに把われてると、人間というものは心がだんだん
苦しくなってきて、そして、がんじ搦(がら)めに
なってきて自分というものが分からなくなってくる。
私共の方で自分というのは、この肉体の自分だけ
ではなくて、何十回も何百回も言っておりますように、
本体の本心の自分ということを私達は問題にして、
そうしてそこへ自分が還っていくように祈りを重ねて
生きていく。そのお手伝いをしている訳であります。
ところが、この日常の中で自分がという場合には、
その自分の中の見えない世界の自分というものは、
もう忘れ果てておりまして、なかなかその自分が
自分がの自我の方の自分が沢山出てくる。それで、
色んな人と付き合ったり、付き合った末に悩んだり
悲しんだり喧嘩をしたり、まあ取組み合いの喧嘩を
するかどうかはわからないけれども、何か
そんな風なことが重なり合って、そこで窮屈に
なって、何で自分がこんな目に合うんだろう、何で
これだけ自分がやってあげたのに相手に感謝され
ないんだろうとか、何で自分の想いが通じないん
だろうとか言うけれども、それは大きく言えば、
我の世界の自分でありまして。その把われの世界に
生きてる以上、人間というものは非常に不自由な
窮屈なものになるのであります。
そこで私は前から消えてゆく姿というものをですね
提唱して、そして、色んな想いが出てきても、それは
自由自在な自分に還る為の消えてゆく姿なんだと。
だから、色んな想いが出てきても、ああこれは
過去世からの業が消えてゆくその姿なんだと思って、
その瞬間に、神様五井先生と言って、こっちへ返して
くれれば、それでこっちはパーッとサーッと浄めて
ゆけるんだということをずっと申し上げて来ている
のであります。それでも尚且つ出てくる。出てきても
構わないんだということを私は申し上げている訳で
あります。
日常の生活というものは、お金を儲けなければ
ならない。生きていかなければならない。食べて
いかなければならない。そういうことがあります。
そういうものを捨ておいて、それでただ神様神様
と言ったって、なかなかそれはやっていけるもん
じゃない。覚悟もできるもんじゃない。そういう
ことは、皆さんの私達の守護霊さんがもう百も承知
千も承知でありまして、だからこそ日常の色んな
苦しいことがあっても守ってるんだということを、
世界平和の祈りの中で教えている筈でありますけれども、
なかなか目に見えないことでありますから、そこで、
愚痴も辛いという言葉も涙も出てくる訳であります。
で、私共は愚痴ってもかまわない、とに角、光の
本体である自分をその都度その都度、五井先生
出して下さい、神様出して下さい、というその
祈りを受けてやっていく内に、だんだんだんだん
人間というものは光そのものへ、光明そのものへ
本来の自分そのものへ還ってゆくんだということを
教えてゆかなければいけない。
その為には、日常というものを馬鹿にしないで
生きるということ。現実に人間である我々は、
肉体身が終わるまでは肉体をかぶってですね、
いくら霊体が本物だ神体が本物だっていったって、
この世の中生きてゆかなきゃいけない訳ですから、
その肉体を大事にして愛して、そしてやっぱり
それを養って生きていく。その為にどうすれば
いいかということを、この智恵というものを
祈りの中で考えついてゆかなきゃなんない。その
お手伝いを、私共宗教者はしなきゃいけない訳
であります。ですから、私は無理なことをしろ
とはいいません。あるいは無理な霊能力をつけろ
ともいいません。つけさせようとも思わない。
霊能力なんてものは、皆が皆あるといえば
あるんです。そういうものが見えるとか見えない
とか、色んなものが出てくるというのは、これは
前生からの因縁といいますか修行の結果で、そうして
しかも、それが見えても聞こえても、なかなか
把われないところまでいくには大変なことで
ありますけれども、見えてる人、聞こえてる人、何か
させられてる人というものは、神様が必要あって
そこでなさる訳ですから、させる訳ですから、それは
そこで素直になってやっていけばいいんです。
ただし、そういう役割の人であっても、やはり
日常の営みを忘れるという風なことがあっては、
これは人間として宗教者としても、やはり片輪に
なってしまう。片輪にならないでどうやって
バランスをとって生きていくかということになると、
色んな所へ飛びこんで、あるいは飛び込ませて、
苦労をさせなくちゃなんない。その苦労というのも、
何もお金の苦労をさせる、人付き合いの苦労をさせて
守護霊さんが魂の修行だからといって、こっちで
じいっと冷然と見てるという訳ではなくって、苦労
してるな苦労してるなと想いながら光を差しのべて
いる訳でありますけれども。当の苦労をさせられてる
本人というのは、苦労の方が目前にきていますから、
光がなかなか自分の方へ向いてるなんていうことは
考えも及ばない。五井先生にこんな風に頼んで
おいたのになかなかこっちの方へやってもらえない
とか、まあ給料少ないとか、色んな愚痴がこっちへ
届いて来る訳です。それこそ人間的な愚痴が
こっちへ来る訳ですけれども。
しかし、私共は、天命というものをずっと通して、
その人の天命が本当に真白になって神様の中に
ずっと融け込んでいくというその為に、守護霊さんや
守護神さんやあるいは私や神様や皆が苦労してる
訳ですから、その苦労というものは実は、肉体人間が
苦労する、一時の感情で揺れ動くという風な苦労の
何十倍何百倍何千倍な訳です。だけれども、それは
苦労は苦労とちっともこっちは思っていない。思って
いないというのは何故かというと、それは一人一人
皆さんが可愛いいからであります。可愛いく
なかったらこんな苦労なんか出来っこないんです。
一緒に泥まみれになって苦労したりですね、
泣いたりですね、喚いたり恨んだり、いちいち
やっぱりこっちも感情移入をしながら、特に私なんか
感情移入をさせられながら、一人一人見守っている
訳ですから、これが本当に肉体だったらたまったもん
じゃないと思う程、今何万人もの何十万人もの人の
想いを受けたり返したりしている日常で
ありますけれども。
とに角、私共が光であるということを肝に銘じて
おりますと、不思議なこととか、とんでもないこと
とか、思いがけないこととか、そういうものが
起こってまいりましても揺ぐということが少ないんです。
何故なら、いつも申しておりますように、本体
というものは揺がないんである。本心というものは
揺ぐということはまず有りえない。揺ぐものは
気持ちがゆらぐ。感情が揺ぐんであります。ちょうど
波が風を受けて騒いだりあるいは嵐が来て波が
波打ったりするけれども、海の底はちっとも平和
そのもので全く(何も)波立ちも何もしない。調和
そのものの世界である。魚だとか海藻だとか、
そういうものの生命をそのまま受けて安らがせて
いる様に、何ら調和の世界に変化はない。
そういう調和の世界というものを、生命さながらの
世界というものを、実は人間は一人一人の中に
持っている。一人一人が神の宮なんであるという
あのイエスの言葉というのは、本当にここのところ
において真実な訳です。あるいは釈迦が汝ら精進せよ
と言ったように、自分が死んだ後もずっと努力して
いきなさいと、祈りの生活を続けていきなさいと
言ったのは、この調和の世界が自分の中にあるんだ
ということを絶えず確認する努力をしていかなければ、
肉体身というものは弱いから、自分の中にそんな調和の
世界があるなんてことはなかなか分からない。あるいは
又もっと話を別の方にすると、法然にしろ親鸞にしろ
日蓮にしても、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経という
あの六語なり七語なりの中に生命をこめた言葉がある
という発見をしたのは、あれは非常に素晴らしいことで
ありまして、あの中に本当にさながらの光明が
生き生きと生きづいている訳でありますけれども、
しかし、南無阿弥陀仏と言ってしまってサッと
悟れるかというと、なかなか肉体人間そういう訳に
いかない。ただ南無阿弥陀仏にしても何にしても、
その中に光があって、光のエレベーターに乗って、
それがサーッと高い所まで自分を連れていって
くれるんだ、自分の心の奥底にある調和の世界に
自分がそのまま合体して合致して生きていけるんだ、
生き通しの生命なんだというところまでの自覚を、
あの南無阿弥陀仏にしろ南無妙法蓮華経にしろ、
あの真理そのままの言葉の中に人間は合体した時に
光になってゆけるという、この大きな真理を発見
したというのは、これは大変なことなんであります。
それはちゃんと、日蓮なり親鸞なり法然なりの
後に大きな大きな深い働きをする守護霊さんがいて、
そういういわゆる末世といわれた時代に、本当に
人間が救われなければならない、その魂の要求に
み合った道は何であるかということを、あの人達に
示した訳であります。
ところが今は、色々なものが情報が多すぎて、
見るにしても聞くにしてもあるいは行動する
にしても、飛行機であれば世界中どこへだって
行けますし、ニュースなんていうのは一日の内に
地球の裏側からでも入ってきますし、だんだんだんだん
世界が狭くなってきて、そして、だんだんだんだん
自分のまわりの関わりがそれと反比例して薄くなって
ゆく。親子であっても何か親が信じられない、子供が
信じられない。そういう世界になっていった時に、
自分というものを本当に今この瞬間に見つめられてる人が
どれ位あるかというと、これが非常に頼りないことに
なってきている。だから、自分というものが見つめ
られずに自信が持てずに頼りなくなった時に、じゃあ
どうするかということが、今この世界中の生きてる
人間たちの共通の悩みになってきている訳であります。
そこで色々な芸術や文学や美術などの方面で、
そういうものを、慰めを、あるいは何とか人間がこの
突破口を作って、そしてそこから抜け出して自由な
生命になるにはどうしたらいいかということを、宗教
だけじゃなくて、色んな方面の人が今手さぐりを
している。もちろん宗教者もそれをやる。
だから、この間のような宗教のサミットなんかが
開かれたりして、そして、あれは色んな人が集まって
来た訳でありますが、その共通の根本の願いというか
祈りというか、我々を結び合わせているものという
ものは、やはり、世界人類というこの一つの大きな
深い命題でありまして、我々がこの地球に生きている
ということ、そしてこの地球に生きている以上、
この人類が平和でなければならないという非常に
素朴なところから始まるこの言葉、それへの祈念
というものが、あのサミットを成功させたのであります。
そして、我々が唱導しているこの世界人類が平和
でありますようにという祈りは、ただ、単にこの
地球に生きている人間が平和であるようにというだけの
祈りではなくて、この我々人間が平和な気持ちになれば、
調和する気持ちになれば、自然に我々が生きてる
まわりのこの自然をも大切にするし大事にして、
あらゆるものの生命を尊んでゆくし、それは我々の中の
霊性というものを目指して、そして、奥の自由な体
というものはもう自在になってゆけば、地球だけに
この生命が生きてる訳ではない、宇宙の調和そのものの
一環が地球に生きてる我々人間の体の中に埋め込まれて
いるんだということに気がついてゆけばですね、これは、
宇宙全体に本当は鳴りひびく祈りであるんだ、
世界人類が平和でありますようにというこの一句(く)
の中には、宇宙全体が求めている祈り、調和そのものを
求めていく祈りというものが実は込められている。
宇宙子科学のメンバーが、今必死になって計算したり
何だかんだやっている。それというのは、地球の波動
というのは今実は一番遅れている。それは何で遅れて
いるかというと、宇宙人類というものは、本当は心波
でもって心の波でもって、自分が調和した心の状態に
ある調和こそがこの世界の最大目標なんだということを
知っている訳です。それに反して地球の人類という
ものは、肉体を本来の自分だと見誤(あや)まって、
我(が)の世界できておりますから、この我を脱ぐために
随分苦労をしている。先程申しました様な、親鸞に
しても法然にしても釈迦にしてもですね、あるいは
イエスキリストにしたって、その我を脱がせる為の
先覚者であった訳ですけれども、それはそれで大変に
光明を発揮した訳ですけれども、今はとに角、これ程
国が分かれて、そしてこれ程色々な紛争の種があって、
人間が短気になってる時に、どんな風にしたら本来
心の芽を導き出して、そして、それに肥料を注いで
芽吹かせるかということになれば、これはもう
世界人類が平和でありますようにという言葉を
根にする以外にはないのであります。
そうして、この宇宙人類というものは、もうとっくに
そこに気がついておりまして、自分というのは自分の
心の波の奥底の世界によって自分が動いている。神様の
意志によって動いている。神様によらない生命
というものは何一つないということを分かって
おりますから、そこで、争いとか無用の醜い姿とかを
晒すとか、そういうことは全く有りえない。それを
何とかしてそこの方向へ持って行こうとしているのが、
宇宙子科学のメンバーが今必死になってる作業
でありますし、昌美なんかが今一所懸命アメリカで
やらされている作業というのは、地球人類の波動を
四次元五次元六次元七次元とに角高次元に、宇宙人類の
心波の世界にまで高くして、そうしてそれを
知らず知らずの間に埋め込みそういうブラウン管を
埋め込み、アンテナを埋め込むというその作業なんで
あります。
ところが、この波動があまりにも細かいもので
ありますから、全部に行き渡らせるといっても、まず
誰か受け手がなければ、これは非常に強烈な心波
そのものをもってきて今の地球人類のこの我の世界に
ポンと投げ出しても、その光の波だけで皆が気死
してしまうような、そういう強烈な波でありますから、
それをまず受け器である昌美が受けて、そうして
その波動をどんどんどんどん割っていってですね、
小さな小世界をずっと作っていって、性能は同じもの
ですけれども、それをどんどんどんどん皆に分けて
いくと。その為に今一所懸命祈りの世界の中に入って、
大神様の中に生命をあずけてやってる訳です。
取り敢えず、皆が生きる為の、生きるというのは
肉体の生命が生きるというんじゃない、宇宙人類の
中の兄弟の一人である、そうして人類というものは、
平和な争いのない、しかも愛深い神様の御心に適う
器でありたいと望む、そこへ持っていくということを
大本願にして進まなきゃなんないんだということを、
まずこちらがスイッチの切り換えを今やっている
訳であります。
じゃあ種を分けたその種を10個なら10個持って
帰ってきて、昌美がどんな風に埋め込むかというと、
それは、そこから守護霊さん守護神さんの世界に
なる訳でありまして。たとえば、世界人類が平和で
ありますようにというあの世界平和の祈りの中に、
その種を入れていってしまう訳であります。
そうすると、皆さんの守護霊さん守護神さんが、
その種ごと世界人類が平和でありますようにという
祈りを受け取りますので、それを口に宣べて祈りを
唱える。あるいは心の中で唱える。フェローの人は
フェローの印を組む。講師は講師の印を組む、
という中で、浄めの中で、スーッとその体の中へ
その種が入っていく。そうしますと、知らず知らずの
内に本心開発がなされていって、不思議なことも
思いがけないこともやり切れないことも、だんだん
芽を出さなくなっていく。
芽を出さなくなるというのは、感情が鈍くなる
とか感じなくなるとか、そういうことではありません。
それとは全く正反対のことでありまして、感受性
というものは鋭く深くなっていくし、愛も深くなって
いくし、どっちかというと、今までよりももっともっと
心の襞の細かい波動の細かい人間になっていく訳で
ありますけれども、人間というものは、いつも私が
申しておりますように、人、霊に止まると。
あそこへ還らなきゃいけません。我々が霊の生命
であって神の生命であって、霊妙な朗らかな生命の
根本に還った時にはじめて、世界人類の平和という
ものは完成をされるわけであります。まだそれが、
肉体人間の想いや迷いなど色々な荒い波がある
この地球世界の中で、ただ単にそういう願いだけ
では弱すぎる、祈りだけでも大変だというので、
取り敢えず世界平和の祈りというものがこちらへ
与えられて、そしてそれが真理の言葉になって
それを手助けする為に、守護霊さんや守護神さんや
あるいは霊団というものが後でパーッと働いて、今
この改革をどんどんやっている訳であります。
ですから、今なんで自分がこんな所に居なきゃ
なんないんだろう、なんで今というのは、それぞれ
皆あると思いますが、そのなんで今というその
やりきれない場面だとかを見せられるというのは、
それが一つの人間のいつわりのない姿なんだという
こと。いつわりのない姿を見せられて、そしてそれを
受け入れる。皆それぞれ人間違いますから、まるで
同じということはありませんけれども、自分の中にも
そういう嫌な面、辛い面、やり切れない面、肉体人間
であるならば自分の中にもその芽があるんだという
ことをじっと見つめてそうして、しかもこういう人間
であるということは百も承知千も承知で守護霊さん
守護神さんというものはあるいは神様というものは、
我々の生命を天命を引き受けて下すってるんだ
ということをちゃんと自分の奥底に自覚をする。
その為の世界平和の祈りであり、その為の
宗教信仰であるということを考えてまいりませんと、
ただ現象のことだけに把われて何でだろうと考えて
しまうだけでは、我々の進歩というものは止まって
しまうのであります。
人間というものは人類というものはあるいは魂
というものは進化をせずにはおかないものであります。
何故かというと、完全な平和とか完全な調和とか
あるいは完全な愛にむかって進まないではいられない、
そういう性質を我々の本体というのはもっておりまして、
あの霊光写真の中に現れているああいう真白な何の
障りもない、あの光そのものになる為の、なりきる為の
祈りというものを、我々の本体というものは欲している
訳であります。その為に色々なものが、うちの会
であるならば、平和行進があり世界平和の祈りがあり
ピースセレモニーがあったり、ピースポールを建てたり
という行事がある訳であります。
ただし、その行事そのものも、ただピースポールが
建てられればいい、ただセレモニーをやればいい、
ただ祈りの会をすればいい、何回行進をやった
先生を呼んだというのは目的ではありません。
それを通して、自分の中の魂の芽が幾分かでも
発芽をして、そうして自分の中の魂が浄められて
いくような、そういう実感を味わう、祈りを深くする
ということがなければ何にもならないのであります。
それでなければ、それはただ単に形の世界に
とどまることでありまして、これは、進化とも
何ともなっていかないものなのであります。
ところが人間というものは、やはり矛盾をする様で
ありますけれども、ある程度のしるしなり形なり
何かの成果なりというものを目の前にしておかないと、
やはりこれは非常に不安になるものでして、その
ある程度のしるしなり形なり、例えば、本部から
講師の先生を呼んで話を聴く、皆の中にいる自分
というものを自覚をしてはじめて、じゃあこの言葉
について深く考えてみようかとか、色々なことを自分は
考えられる。そういう場が与えられてはじめて人間
というものはそういう気持ちになってゆける。そういう
部分があるのでありまして、それを私は何も、それでは
だめだということではないんであります。
それは大いに利用したらよろしいけれども、しかし、
それを一つまちがうと、何回講師の先生を呼んだとか、
何回柏手を打ったとか、お浄めをしたとか、いう風な
回数を数える様なことになっていく訳でありまして。
ところが魂の修行というものはそんなものではなくて、
回数ではないんであります。あるいは成績主義では
ないんであります。魂がどの程度目覚めるか
ということは、我々の世界というものが、我々の
心の中の本心というものが、どの程度開いていくか
ということ、どの程度自分の中のものを捨て去って
無になってゆけるかということでありまして、
その為に祈りがある。
それで、祈りというものは、どの宗教でありましても、
そういう自分の中の余分なものを捨て去る。たとえ
瞬間でも構いません。その捨て去る時の充実と
助ける為に祈りというものがあるんであります。主の
祈りにしても、南無阿弥陀仏にしても南無妙法蓮華経
にしてもそうであります。どこから入ってもそれは
そうであります。光明は絶えることはありません。
けれども、今この現代の世の中で、「世界人類が
平和でありますように、日本が平和であります
ように、私達の天命が完うされますように、
守護霊様守護神様ありがとうございます。」という
このどこをとり上げても無理のない、感謝と愛念に
満ちた、この祈りを唱えることによって、私共は
私共の中に常にある、しかし、常には眠らされてる
神性と、私共の肉体が一致をして、そして、肉体は
肉の身のままに光と化していくことが出来る
のであります。その光となっていく日常を重ねていく
ことによって、だんだん肉体が肉体のままでありながら
波動が細かくなっていって、そうしてついに、全く
死にきってむこうに行かなければ波動が細かく
ならないという様な時代ではもうなくなってまいります。
でなければ、この世の中というものは常識に照らして
動いていくものでありますから、この世の中の常識に
照らして動いていく世の中で、光明というものが
働く為には、自分の波動がいつの間にか光明化されて、
そして肉体のままで、何も祈りをするとか会に出るとか
そういうことではなしに、知らず知らずの内に
やっていることが光明化されていくと、自分の口から
出る言葉あるいは接する態度めざし、そういうものが
和らぎに満ちたものになっていく。
それだけで、それはそこに愛念が輝くということに
なっていくのであります。そうして、私などは
そういうさり気ない態度の方がむしろ大事であると
考えている訳であります。
宗教といいますと、ことさらに祈りを何度しなければ
ならないとか、ねばならないという規制が沢山
あった様に思います。けれども、これ程複雑な世の中に
なってまいりますと、ねばならぬということが非常に
窮屈になってきておりまして、あるいは実際の生活上
できないということになってきておりますし、実際、
本体をたずねてみますと、あるいは本来の神様の姿
というものをたずねてみますと、そんなものではない
のであります。神様というものは、人間が今何を悩み
どう苦しみ、だから何が必要であるのかということを
何もかもご存知で、その上で私に世界平和の祈り
というものを与えて、この世界をあるいは私達
一人一人の人間を光明化していく、手助けとする
ようにということで、私は任命されたのであります。
でありますから、何にも考えることはいらない。
とに角最初に申し上げました様に、色々な想いが
出ても迷いが出ても、あ、これは消えてゆく姿なんだ、
腹が立ってもかまいません。腹が立ったら腹立ちの
そのままを私に下さればいいわけであります。
皆さんぶつぶつ言うとか、皆さんが必要以上に嘆き
悲しむとかいう時は、それは私に対する預け方が
足りないのでありまして、そんなことまで五井先生に
言っちゃったら申し分けないとか、こんなことまで
と言っても、こちらから見ておりますと皆見えて
おりますし、皆聞こえてまいりますし、見ようと思えば
こちら全部見える訳でありますから、隠しようがない
訳であります。で、そういう状態であるということは、
一人一人残らずこちら見えておりますし、こちら
知っておりますから、それならばいちおう全部預けて
任せてですね、そうしていただき直しの生命を又新しく
貰うということの方が出発がしやすいのであります。
あるいはこちらもさせやすいのであります。ですから、
どんな時であっても、神様というものは人間を愛さない
ということはない。たとえ不幸のどん底にある様に
みえているその時でも、あ、これで過去世のそういう
苦労が一つ消えたなあ、こちらの方では計算が
できております。
なかなか人間の方はそうはまいりませんけれども、
泣きながらでも、祈りをして下さるとこちらでは光を
送りやすい。あるいは祈りが出来なくっても、それは
その時は、こちらの方で何とでも致しますから、とに角
愚痴であっても何であっても、神様の方へ顔を
向けながら愚痴を言う。あるいは文句を言う。神様を
忘れて文句を言いますと、それが業になって
どうどう巡りを致しまして、どうにもならなくなって
まいります、それでがんじ搦めになって、そういうのを
魂の入らない仏に近いというのであります。
我々は、人間というものは、飽くまでも進化をせず
にはおかない、あるいは、せずにはいられない魂、心
というものを本心というものをもって生きている
ということを考えておりますれば、なかなか光から
顔を背けられないのであります。背けたいと思っても
背けられないのが人間なんでありまして、その辺を
考えてゆきます時に、我々は、会に出ようと出まいと、
印をきろうときるまいと、祈りの言葉が出ようが
出まいが、ちゃーんと守護霊さん守護神さんが
守っていて、こちらから私が見ていて、神様がいるんだ
ということさえどっかに置いといてもらえれば、
知らず知らずの内に本心開発が出来ていく。あるいは
祈り言葉も出てくる。そういうもんである。
そうしていく内に、だんだんだんだん人間の魂も
肉体もあるいは言葉も、自然法爾(じねんほうに)の
世界にすーっと入っていく。ということを今日ここで
皆さんの心の中へ種をまいておきたいと
思うのであります。
昭和63年5月5日
五井昌久