私は落語家じゃないかなあと言われた時が
随分生きている時にあるんですね。
それは、話の中に冗談とかね軽口とか。
やっぱり法話というものはね、わかりやすく
やさしい言葉で言って、5つ6つの子どもにも
分かるような話し言葉でないと、本当に
深い言葉というものは入っていかない。
深い真理というものも入っていかない。
で、こうしなきゃならん、こうした方がいい
ということは分かっていてもね、人間という
ものはそんなにできるもんじゃないんです。
簡単にできるのなら、五井先生はいらないの。
釈迦やキリスト、その人たちでも救いきれない、
今のこの世の中の複雑ないろんな要素があるでしょ。
釈迦やキリストだけでもとうてい駄目という
ところにもってきて、深淵な言葉だけじゃね
駄目なんです。
だから、本質論も必要だけれども、本質論
と同時に、具体的にやっぱり、寂しい
ですねえ悲しいですねえ、大変ですねえ、
本当に大変でしょうという、そういう
いたわりの気持ちがないと駄目なんですよね。
それがあって初めて、人を導くことも
可愛がることも愛することも出来る。
(つづく)
随分生きている時にあるんですね。
それは、話の中に冗談とかね軽口とか。
やっぱり法話というものはね、わかりやすく
やさしい言葉で言って、5つ6つの子どもにも
分かるような話し言葉でないと、本当に
深い言葉というものは入っていかない。
深い真理というものも入っていかない。
で、こうしなきゃならん、こうした方がいい
ということは分かっていてもね、人間という
ものはそんなにできるもんじゃないんです。
簡単にできるのなら、五井先生はいらないの。
釈迦やキリスト、その人たちでも救いきれない、
今のこの世の中の複雑ないろんな要素があるでしょ。
釈迦やキリストだけでもとうてい駄目という
ところにもってきて、深淵な言葉だけじゃね
駄目なんです。
だから、本質論も必要だけれども、本質論
と同時に、具体的にやっぱり、寂しい
ですねえ悲しいですねえ、大変ですねえ、
本当に大変でしょうという、そういう
いたわりの気持ちがないと駄目なんですよね。
それがあって初めて、人を導くことも
可愛がることも愛することも出来る。
(つづく)