人は、ふるさとびと

お帰りなさい と迎えて
下さる神様は、私達の
ふるさとなんです。

(記事はリンクフリーです♪)

神様の愛は愛してゆるして・・・

2011-12-11 09:52:39 | スピリチュアル
みんな
神様の
愛を受けた
いのちなのです

神様の愛というのは
どういうのかというと
とにかく
人間を
愛して愛して
ゆるしてゆるして
ゆるし抜く
そういう
愛なのです
責めも
さばきも
何一つとして
ありはしない
だって
神様は
人間が
かわいいばっかり
なんですから
それを
自分が悪いんだ
あの人が悪いんだ
とおもってしまうのは
人間の
想念です
神様から
はなれていたころの
おもいというものが
でるんです
このおもいは
なかなか
つよいんですよ
なまじの
ことではなくならない

どうすれば
いいかと
一生懸命
考えたわけです

神様の
みこころというものは
愛なんだから
その
大愛のなかに
この身
このままを
投げ込んでですね
神様
おねがいします
とまかせちゃうと
これが
一番だと
おもった
それには
個人も
人類も
同時に
救われる祈り
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様
ありがとうございます
守護神様
ありがとうございます
という
世界平和の祈りを
となえてゆくことが
一番だということになったのです

この祈りは
どういう祈りかというと
人間の心の奥底に
眠っている
愛を
よびおこす祈りなんです
この祈りの文句をみて
何だとんでもない
なんていう人は
一人だっていやしない
みんながみて
なるほどそうだナァ
とおもうような
自然にみんなが
やさしく
なれるような
そういう
祈り言なんです

しかも
広いんですよ
世界人類が

唱えることで
その瞬間
自分が
世界人類の
想い
こころのなかに
入っちゃうんです
わかります?
誰もが持ってる
やさしい
気持ちのなかに
すっぽりと
入っちゃうんですよ
そのやさしさが
神の愛なんです

だから
世界人類が平和でありますように

唱えたときには
実は
神様の愛の光を
みんな
サーッと浴びてるわけなんですよ
それでもって
神様の愛の息吹きで
つくられた
私達一人一人は
神の分生命
分霊ですから
そこで
自分に分けられた
神様の光を
神界の
自分自身にまで
とどかせてですね
神様と自分と
両方の光が
とけ合ってると
こういうわけなんです

みんな神の子
神のいのち
そのなかで
色々な
おもいというものは
自分のなかの光が
ますますかがやくために
あらわれてくるもの
消えてゆく姿なんです
神の愛
世界平和の祈りと
消えてゆく姿
というのは
こういうことなんですよ
ようございますか?
わかりました?
はい、それではどうも
ありがとうございました
           昭和62年2月6日 午後

みんな神様に帰るいのち

2011-12-10 10:58:22 | スピリチュアル
みんな
神様に
帰るいのちなのです

神様の愛は
無限大
今日はここまで
はい
この列の人で
おしまい
なんて
ことはない
神様!
とよべば
神様の
愛のなかに
みんな
すっぽり
入れる
そうして
あたたかい
愛で
辛いところ
苦しいところ
をのぞいてもらって
明るくなってゆくんです
それはもう
すっかり
明るくなる

愛というのは
あったかいものなんですよ
神様の愛は
この上なく
あたたかいの
だって
みんなを
救おう救おう
一人のこらず
光のいのちに
目覚めさせよう
という愛なんですからね

ながい間
人間は
業を主人だとおもってきた
おもいを
主人だとおもってきた
そうじゃない
みなさんの
直霊は
もう
光かがやいているんです
それは何でかがやいているかというと
神様の愛で光かがやいている

人間はもともと
神様から
ずっとわかれてきたいのち
なんですからね
光ってない方がおかしいの
で、こういう
やさしいやさしい神様の愛というものが
私たち一人一人
のいのちをやしなっている
ということに気付くと
この愛に対して
感謝の祈りを献げなきゃ
いられないでしょ
そのあかるい感謝でみちたりた祈りが
よろこびでかたまった祈りが
世界平和の祈りなんです
このなかには
神様の愛が
もうもう
はち切れんばかりに入ってる
入ってるばかりじゃなくて
この祈りをとなえると
みなさんそれぞれの本心本体の自分
真実の自分自身の光がこの祈りに
呼応して
神からの光と
あなたの光とがむすび合って
光明の天地になってゆくわけです

人は光明の天地なのです
そしてそれを支え
はげまし
つよめるもの
神様の愛を
益々
発揮させるものが
世界平和の祈りなのです
             昭和62年2月4日 夜

愛について 序

2011-12-09 09:41:40 | スピリチュアル
     序
            五井 昌久

 愛とは何かときかれれば、それは、
やさしさだとこたえましょう。
 愛はどこまでもどこまでも
やさしいもの。そして、宇宙の奥の奥の
奥までそのきわみのないゆるしの光を
拡がらせているものなのです。それはもう
無限大に。
 私たちは、そういう愛を、この身の
奥に持って生きつづけてゆく光なので
あります。
         昭和62年2月4日

愛深い人間になる為に

2011-12-08 10:43:16 | スピリチュアル
 結婚相手なんかを選ぶ時に、よく昔から冗談で、
心より顔とかですね、何がなくとも美人がいいとか、
色んなことを申しますけれど、私は、やっぱり人間
として何が一番大事かと言えば、これは何がなくとも
優しさだと。
 優しさがなくなったら、人間というものは優しさに
伴う潤いがなくなっていって、そして遂には、人間が
人間らしさを失なっていくという風に常々考えて
います。

 ところで、優しさというものですけれども、これは
ただ単に誰に対しても優しいとか、何に対しても
優柔不断な位(ぐらい)優しいとか、そういうものが
本当の優しさではない。優しさというのは何か
というと、これはまずは、自分を愛する心、そうして
人を愛する心、それから人を容れる心であります。

 この三つがなかなか難しいのでありまして、特に
人を容れるということ、寛容な心になるということ、
これはなかなか出来ることではありません。
 虫の好かない相手というものはありますし、
あるいは一緒の同僚でも、この人とは仕事が
しやすいけれども、この人はもう一言居士で
なかなか文句屋で、この人とは勤務は一緒に
組みたくないとかですね、虫が好かんとか色々
出てきます。で、そういう相手になかなかじゃあ
優しい気持ちをもつということも、非常に難しいこと
なんでありますね。そういう事で色々悩んでる人も
ある。
 又、家庭の中では、姑とうまくいかない、舅と
うまくいかない、嫁とうまくいかない、兄弟が
どうのこうの、色々なことがあります。社会ばかり
じゃない、自分の家の中に向けたって、色んな
気持ちが人間はぶつかり合って出て来るもん
なのであります。そういう中で優しさということを
極めていくのは、これは本当に考えていけば、
本当に見つめていけば、ものすごく本当は難しい
ことなのであります。

 人を容れるとか、人に優しくするとか、自分に
対して優しくする、自分を愛するとかいうことは、
これはなかなか自分の想いだけでは出来ること
ではなくて、これは祈りの中で、ずっとこの命題
というものは宿題にして考えていかないといけない。
 あるいは、我々人間が向かっていかなきゃ
いけない問題だと、私は考えます。我々の会の、
世界人類が平和でありますようにというのは、
個人も人類も共に真実の救いを体得できるもので
あるという風に、私は教義の中で申しました
けれども。
 世界人類がというこの世界人類の中には、
自分自身も入ると同時に、普段は固有名詞で
考えますと虫の好かない誰々さんであるとか
ですね、あるいは隣のおっさんであるとか、色んな
ものが浮んで邪魔をしますけれども、世界人類
というもののその言葉の中へ入れてしまうと、
そういう余分な余計なものが一切消えて
しまいまして、ああ世界人類がーと想えてしまう。
 そこで祈れてしまう訳であります。それでもって、
自分も祈っている時に、自分の心がずーっと優しく
なっていって、そうしてその優しさというものが
回りにどんどん溢れていく。

 その溢れていくというのは、ただ観念で私は
申し上げてる訳ではなくて、皆さんが世界人類が
平和でありますようにと、私と一緒に祈って
下さる、あるいは、祈りのテープで倶に祈って
下さる時に、統一会の時でも来て祈って下さる時に、
こちらから見ておりますと、世界人類がーと統一
すればする程、光の波というものが皆さんの心の
中から、あるいは体からずーっと出てまいりまして、
そこへ優しいという気持ちが広がっていく。それが
こちらからは見えるわけであります。そういうものが
見えたら、先生一遍に信じるんですけどという人に
随分(ずいぶん)会いますけれども。

 人間というものは、見える世界だけで生きてる訳
じゃない、見えない世界で生きてる。実は、見えない
世界からそういう働きなり祈りなりエネルギーなり
貰って生きているわけ。
 なんでそれを見えさせないかというと、見えたら
邪魔になってしようがないんですね。あの人の方が
光の波の色がいいとかね。この人の方が真白に
近いとか、自分はオレンジだとか、何か紫色
だなんて、見え始めたらもう色に迷っちゃって何にも
出来ない、けれども、見えたって見えなくたって、
とに角、世界平和の祈りの中で一念になって祈って
いる時に、皆の光の色というのは本当にきれいな
色なんですね。そして、そのきれいな色になって
いる瞬間というのは、皆菩薩なんです。一分キリスト
一分釈迦ということを、私は前にも申しました
けれども、その時には本当に皆がもう透き通った
生命そのもの、本来のさながらの生命そのものに
なって祈っている。だから、神様の想いと一致して
祈っている。その時には、本人も気づかない
けれども、本当に“やさしい”という言葉も
追いつかない程、やさしい波動がスーッと出て、
そうしてそこへ溶け込んで祈っている。

 だから、優しくなるとか優しくしようとかいう
ものは、本当は、それはまずきっかけなんで
ありまして。愛情というものも、例えば、抱かれた
経験がないと抱かれるということがどれ程気持ちが
いいか、赤ちゃんでもそうですよね。今、抱きぐせが
つくから抱かれない子供が増えてる。そうすると
何が起こるかというと、お母さんの暖かみというのを
知らないで育つ子供が多くなるから、後になって
学校に行きたくないとかいう子供が増えてくる。
 愛情というものは、やっぱり抱かれた記憶という
ものがないと育っていかない。だから、愛情という
ものはもちろん本能的なものでもあるけれども、
一面、習慣でもある訳です。その愛情というもの、
どんどんどんどん高めていった愛情というものは
どこで発揮されるかというと、祈りの中で発揮
されるから、その祈りを高めていく為には、こういう
世界人類が平和でありますようにという、こういう
高い祈り この高い祈りの中で、自分も気が
つかないうちに、自分自身がやさしくなる。やさしく
なってる。いつの間にかしら優しくなって気持ちが
良くなって、そうして、祈りの場所から
日常生活の中へ帰ってきた時に、何かしら前とは
ちょっと違って、人に接する時に、少し何か
やわらかく接することが出来るようになるとかね。
 あるいは、ちょっと腹立たしかったのが前よりまし
になったとかね。
 そんなところからだんだん気がつかない内に、
やさしさというものが芽ばえてきて、あるいは
深まっていって、本当のやさしさへ、神さまの方から
持っていって下さる訳です。

 先程申しましたが、やさしいということの中に三つ
あると申しました。つまり、人を容れるということと、
自分を愛するということ、人を愛すること。人を
愛するのと人を容れるというのは、だいたい同じと、
まあいまのところしておきますが。自分を愛する
ということはどういうことか。

 それは自分を大事にすること。自分を大事に
出来ないということは、本当に自分を愛せない
ということです。つまり、自分を大事にすると
いうことは、自分の今の有りのままの姿を見つめて、
ああ自分は今ここに居るんだな、自分は今こういう
気持ちでいるんだな、その自分を確認して、そうして
その自分を抱きしめてやる。
 そして、自分の守護霊さんなり守護神さんなりに、
今自分はこんな状態ですけれども宜敷くお願い
致します、とこう渡してしまう。あるいは祈ってしまう。
 それが自分を大事にするということです。

 生きて行きますと、色んな事がありまして、
頼り無い自分がでたり、腹立たしい自分が出たり、
悔しくって悲しくって、もうそういう自分は否定
し切ってしまいたいから、どんどんどんどん
自己否定になって行く。卑下して行く。劣等感に
苛まれてしまう。何にも出来ない自分だと思って
しまう。そうして、否定して否定して否定していく
うちに、何が出てくるかといったら、今度は我が
出るんです。そうして、いつの間にか我の世界の
中で自分を自閉してしまって、自分なんか何にも
役に立ちませんと言って──。こういうのを私は
何時も言う卑下高慢というんですがね。

 卑下高慢の中へ入ってしまうと、こっちから出る
のに大変なんです。自分の本体とか本心が
見失っちゃって、我の世界の中で自分で自閉して
しまってますから、神様の方がいくら力を与えよう
と思っても、自閉してしまうとなかなか出にくい。
 この卑下高慢から解き放たれるにはどうしたら
いいかといったら、こういう人というのは完全欲が
強いですから、自分は完全でありたい。
 例えば、神様にでも完全に自分を高めていきたい。
 五井先生がああ言ったから神様がこういう風に
望んでおられるから・・・という風にやって
行きやすいんです。そうして、自分の限度、限界が
あるから、そこでバタッと倒れちゃう。

 けれども、神様の方から見ればね、あるいは、
守護霊さん守護神さんの方から見ればですね、
そんなに人間が完全であるはずがない。完全である
筈がないからこそ、今苦労して世界平和の祈りを
与えて、皆が光明化するように、この世界が平和に
なるようにといって、うちの会が一所懸命やって
いる訳で。皆完全である筈が無い訳ですから、
自分は完全じゃないけれども、でも宜敷くお願い
します。そういう心になるということが、まず自分を
大事にしていくということなんです。

 有りのままの自分を放り出すことが非常に恐い
という人がいると思います。
 けれども、守護霊さんとか守護神さんとかいうのは、
その人の想い癖を全部わかっている訳です。
 生まれる前から皆さんと付き合ってる訳ですから、
そういう事はもう百も承知な訳です。だから恐いも
何もないわけです。ただ投げ出しちゃえば、預け
ちゃえば、そこでもう抱きしめてくれる訳ですね。

 そうなると今度は、向こう側から光のエネルギーが
来まして、だんだん自分を閉じ込める時間が少なく
なって、そうして、自分を大事にするということは、
自分を見つめることだという事が分かってきて、
祈り言でも唇に出せるようになって来ます。声に
出して祈れる様になって来ます。

 最初から自信の無い人に、大きな声で世界人類が
平和でありますようにと祈れといっても無理です。
 それは無理です。この辺のところは、講師の人も
幹事の人も気を付けなきゃいけないことです
けれども。そのとても祈れない現実の中で、ただ
お祈りをすれば心がすっきりしますよと言ったって、
その時に祈れない状況の人がいる訳ですね。
 祈りたいけれども祈れない、そんな心になれない。
 そういう時はどうするか。

 そういう時は、守護霊さん守護神さんが後(うしろ)
で祈る。あるいは私が後で祈るんです。ですから、
そういう時に、この祈り言というものを強制しても
駄目なんです。そういう時には、それはそのままに
しておいて、その人の守護霊さん守護神さん、
その人の本心が開発されますように宜敷くお手助け
下さい。その人の天命が完うされますようにという、
そういう祈りを指導者である人達はやって
いかないといけない訳です。
 何が何でも成績主義で、皆で声を合わせて唱和
する、唱和しなきゃいけない。なきゃいけないと
いうのはこの場合、自分を大事にすることにも
相手を大事にすることにも、ましてや、自愛にも
他愛にもつながっていかない。その有りのままの
どうしようもない、もう自分なんか何にも役に立た
ないんじゃないかと思われる程追いつめられた
人間のある一断面というものを見つめていく。で、
認めたところから人間というものは光が入るんです。
 認めきって、そこで闇に沈んじゃうんじゃ
ないんです。それは、一つのその否定的な側面と
いうものを認めてしまって、カラッポになったときに、
スーッと、光が入るんです。光が入ったら引き上げ
られる訳です。そうして今度は、自分を愛することも
人を愛することも、人を容れることも出来る
様(よう)になる。

 人を愛する。愛するというのも色々あります
けれども、愛するというのは、愛(いと)しく想う、
可愛く想う。ね、この人はとても朗らかで笑顔が
良くっていつも会うとニコニコしてて、こういう人は
愛し易いですね。心に浮べただけで自分の心が
和んできますね。その人を浮べることによって、
自分も力が出てくる。愛しいとしは一つなんですが、
そこで今度は人を容れる。容れるということは
何だろう。
 容れるというのは、自分の心が無理な時にでも
他の人のことを考えて、そうして自分の方へ
引き寄せる。もっと砕いて言うと、ゆるすということ
でしょうけれども、これはなかなか出来ること
じゃない。

 先程申しましたね、人間の色んなやり切れない
想いとか何だとか。 色んなごちゃごちゃした
ものが出ます。で、出て出っ放しだと救われません
から、私はそこで、消えてゆく姿ということを
申しまして、それでいいんだよいいんだよと
言いながら、皆さんを祈りの座へと高めていく。
 そのお手伝いをしている訳ですけれども。 
 出しながらどんどんどんどん自分の色んな嫌な
救われない想いを出して出して出してカラッポに
して、そして、世界人類が平和でありますように
という中へスーッと統一して出し切っちゃって、
もうこれ以上愚痴がありません嘆きがありません
という所まで出し切ってしまうと、今度カラッポに
なった中に何が入って来るかといったら、静かに
なった中に、今度は人の心の想いがそのまま
大きな深い流れとなって入って来る訳です。

 あるいは、皆さんの心の音信というものを
聴き分けている他の人の心というものが、扉を
叩いて来る訳です。そうした時に何が働き出すか
というと、愛(いと)し愛(あい)しが働いてくる訳です。
 ということは、無理に受け容れるんでは
ないんです。無理に受け容れるというのは、これは
枷(かせ)なんですね。無理に受け容れるという
ことはないんです。あるいは、ゆるすということも
なかなか人間出来るもんじゃありません。
 ましてや、色んな事言われて拒否されて、何だ
かんだされて、自分がこれだけしてやったのに
相手はという想いになっている時に、なかなか
それが出来るこっちゃない。出来るこっちゃない
けれども、ただやっぱり、祈りの中に一つになって
しまうと、あるいは自分がカラッポになってしまうと、
カラッポにしてすべてゼロ以下にしてしまうと、
静かにその人の姿が見えてくる。映ってくる。映って
きて、いい所が見えてきて感じられて来た時に、
あーと思う。愛し いとしが今度入ってきて、そうして、
あ、この部分はなあーと自分が優しくなれていく訳
ですね。させて貰える訳ですね。

 ですから、愛深い人間になる為には何をすれば
いいかといったら、この有りのままの自分を
見つめて見極めて、辛いなあ悲しいなあと想い
ながらお祈りを重ねて行って、そうしてその光と
一緒になって行く。あるいは、もうこれ以上自分の
苦しい事はないという位文句を言っていって言い
抜いてゆくと、その余分なものが出ますから、出た
ところで今度は、守護霊さん守護神さん、あるいは
私が抱きとめて、愛の光を入れていく訳です。

 そうしますと、愛しといとしとそして容れるという
ことが三位一体になって、そうして優しいという所へ
昇華していく訳です。
 そうなりますと我々が求めております、目標として
おります、世界平和というものが完成していく訳
です。その為のやさしさであり、強さであり、見た目
ではない心の奥深さというもの、本心の本体の
極みのない広大な世界というものを、我々は
目の当たりにしていく。そういう時代になって行く訳
であります。
          昭和63年5月5日
         
                   五井 昌久

                     

     

想いと言葉

2011-12-07 10:20:52 | スピリチュアル
 想いということ、それから言葉ということ、これは
人間である限り、想いも言葉も、人間からは死ぬ
まで離れていかない。あるいは死んでも離れて
いかないものなんでありますが、この言葉という
ものも、想いというものも、どちらも自由自在に
自分の中でこなしてゆく、あるいはこなれてゆく
というのは、非常にこれは難しい。実に想いも
言葉もやっかいなものであります。

 私はよく想念とか想いとか、想いのスイッチを
切り換えるとか申しますけれども、この場合の想い
というのは、実はあまり良い想いではない。どっちか
というと、この人間商売をやっていて、もう止めたいな
と想う様なことが連続してきてどうにもならなくなって、
にっちもさっちもいかなくなって、暗い想いが出てきた
時に、想いなんてあるから、こんな気持ちがあるから
人間止めたくなるんだとか、そっちの方へ行く想い
であります。あるいはそれに付属してですね、言葉と
いうものも明るくはなっていかない。ところが、じゃあ
想わなきゃいい、言葉を出さなきゃいいということに
なって、それを望んでも、人間というものは想いから
あるいは言葉から切り離されてはゆかない
のであります。
 仮りに想うことを禁じてあるいは言葉を出すことを
禁じて、一日でも暮せと言われたらですね、これは、
人間というのは非常に生きにくい。もう息がしにくく
なってしまう。そういう存在である訳です。

 そして、それは何かというと、想いとか言葉とかいう
ものは本来は神様の方から出てくるエネルギーだと
いうことなんであります。

 この神様の方からくるエネルギーだということを
わきまえておりませんと、非常に想い違いをして
しまう。想いを軽くするとか想いが沈んでいく重くなる
というのは、これは自分の中にある人間の我、ここで
想いという言葉を使ってしまうとその想いという
言葉で皆雁字搦(がんじがら)めになって何が何だか
わからなくなってしまいますから、ここでは我という
言葉を使いますが、その我の方へ引っぱられた
想いに皆今なっている訳であります。
 ところが、もともとの想いというのはどういう
想いであったかというと、人間生まれた時のその瞬間
というのは、むこうからこちらへ出て来た時の瞬間の
想いというのは真白なんです。その真白の想い
というのは神様のふところから入って出て来た
その想いでありますから、本当にこれは無垢の、
純粋無垢の想いで、このまま大きくなってゆけば、
その人から出てくる想いも言葉もこれは光そのものの
想いで、あるいは、何をやっても光明化されていく
想いになっていく訳でありますけれども、人間の
生活の中に我というものがありますから、肉体
というものを纏ってしまったその想い癖というものが
ありまして、その我の生活の中から出てくる言葉なり
想いなりというものが年々不自由さを、実は纏わせて
いくものなんであります。

 ところが、昔から言霊とか申しますように、本当は
言葉というものも想いというものも、両方ともこれは
自分が出すもんではない。むこうの世界、
守護霊さんなり守護神さんなり、あるいは神様なり、
我々を生かしめているエネルギーの元
という風(ふう)に考えてもいいのであります。そこの
ところがですね、今逆転してしまっているんです。
 あいつはこんなこと言いやがったとか、こんなこと
言われたら俺だまっちゃいられねえーとかですね。
 そんなことを考えるから、そこでその憎たらしい
とか、悔しいとかいう想いが飛んでいって、又
争(あらそ)いが大きくなる。憎いという想いが
飛んでいきゃ憎い、になります。愛(いと)しいという
想いが飛んでくりゃ、やっぱりこっちも愛(いと)しい、
となるんです。それがつくづく分かるのは死んでから
なんですね。死んで、自由な体になっちまったら、
むこうへ行けばですね、想いというのは、そのまんま
実現する訳ですから。
 ですから何にも無いんです。全く想いのまんまの
世界が自分の目の前に出てくる。こんなたまらない
世界はない訳ですね。

 だから、今何でそれが実現されないかというと、
人間が肉体の世界のこの不自由な世界の中で、
色んな物を物質化して、そして、肉体の波に
合うように、固い鉱物だとか何だとか色んなものが
まわりにあって、なかなか、その想いというか想念
そのままの世界を実現するには、ちょっと時間が
かかる様に出来ている。ところが、むこうはひびき
そのままなんですね。
 人間の想いの奥底にあるもう一つ奥の想い、
そこへ合わせたひびきが出てくるから、そのひびきが
どういう流れのものであるかということによって、
その想いが浄められもすれば言葉もやわらかくなる
ということになっていく訳です。

 実に、この世の中で、想いほど言葉ほど、自由で
不自由なものはない。こんなものがあるから
生きにくいと想っても、これを離れるということが
出来ないということになれば、じゃあこれを
どうすればいいか。

 想いを浄めていかなければならない。あるいは、
言葉を高めていかなきゃなんない。それは何に
よって浄められるかというと、やっぱりこれは、
祈り言、祈り言葉、祈って浄めてゆける。あるいは、
祈り心によって浄めてゆける訳であります。
 ということはどういうことかと申しますと、神様
から来た想い、神様から来た言葉であるということを、
もう一度見つめ直して考え直して、それを神様の
元へ一回かえす。かえして生命をいただき直す。

 私共は、頭の先から爪先まで見ましてもね、何一つ
自分で造ったものはないんですね。生まれて来た
時も、我々が製造して持って来た手だとか指だとか、
そんなものはあり得ないんですね。全部借りてきた
生命なんです。貰ってきた生命なんですね。どっから
貰ってきたか、神様から貰ってきた。でも神様から
貰ってきたけれども、その神様が下すった生命を
支えている光の流れというものは、神様と等しい
ものな訳ですね。
 そして、神様の本質、本体、本心というものは、
ただただ深い愛念なわけですね。ですから、この深い
愛念と等しくなってしまうと、想いとか言葉とかいう
ものが、だんだんだんだん色々な余分なものがとれて
いって、角がとれていって丸くなって、そして
柔らかくなって、そうして、ただ溢れるばかりの愛念、
光、祈り、そういうものに一致していって、ついに
調和の世界の方へもっていける様になる訳ですね。

 しかし、長年長年長年、この地球世界というものは、
業で汚れ切って汚れ切って汚れ切っておりますから、
ですから、その汚れ切った世界の中でいくら人間が
頑張って愛念を出しても、祈っても、
ちょっとやそっとのことでは清くなっていかない。
 何しろ、汚れの方の歴史が長いんですから。
 むこうの方が古いんですから。ですから、それを
浄めるというのは、本当に並み大抵のことじゃない。
 並み大抵のことじゃないけれども、今それを
やらなかったら、この地球世界はともかく、
もっともっと広い宇宙そのものの調和も本当には
完成していかないんだというこの視点に立ちますと、
やっぱり我々は、汚れ切って汚れ切っている
この中でも、祈って愛して、そうして言葉も想いも
神様から来たものであるということを大事にしながら、
やっぱり出来るだけ愛念の言葉を想いを出して
いかないといけない。

 出しても出しても何にもならないという想いも又、
これ消えてゆく姿で、消してもらって、そうして、
段々段々、徐々に徐々にでもいいから、この
地球世界のひびきというか流れというかね、そういう
ものを光明化していく。

 その為には何が一番いいか。それは世界人類が
平和でありますようにというこの祈りなんですね。
 これを想わない人はないんです。自分だけが
平和でありますようにといったって、これは
自分だって世界人類の一人なんだからね。ですから、
それを想わない人は一人もいないわけです。
 例えば、こういう祈りを知らない人でも、世界の
平和が保てなかったら、自分はもう核爆発で
死んじゃうだろうと。そういう何か一触即発の
危ない世界の状勢なんだということは、皆、今
子供から大人まで分かってる訳ですから。そういう
危ない世界の中に私達はいる訳です。生きてる
訳ですね。

 で、これをどうすればいいかということで、今、
米国もソ連もヨーロッパも皆苦労してる。
 レーガンとゴルバチョフだって今必死に握手
しようとしている。あれはもちろん、それぞれの
国益もまだまだ持ってるし、まだまだ真の
世界平和のところまで想念そのものはいっては
いないけれども、しかし、まず現実世界の中で
握手をして、そうして、世界平和の為に戦争の
手段のものをどんどん減らしていくという現実
そういう政府間の協議がなければ、まず障害
というものは取り除かれてはいかない訳ですね。

 それで、それを支えるものは何かというと
祈りなんです。

 祈りというのは非常に消極的にみえて、実は一番
威力がある。何故かというと、目に見えない世界の
守護霊さんとか守護神さんとかあるいは霊団とかいう
ものが働いて、この世界平和を祈る時には、一人に
ついて何十人何百人の人が、もうウンカのごとき
人達が一緒になって、霊人が一緒になって
祈るんですね。天上も天下も一緒になって祈る。天地
貫いて祈る。だから、この祈りというものの威力と
いうものは、それこそミサイルの弾(たま)の方向も
変えさせる。変えさせるのみならず、途中で
止まらせちゃう、世界平和というものは、完全平和
というものは、絶対できると私はいつも言いますのは、
それこそ想いを浄めて祈りに高めていって、そして
祈りが本当に愛一念になった時には光になります。
 光になった時には、闇は光に勝ちませんから、
そこで、どんな武器であろうと人を損う想いで
あろうと何であろうと、そういうものを全部、もう
闇のものを全部光に変えちゃう訳です。ですから、
そこで武器というものは無くなってしまう。
 あっても無用のものになってしまう。そういう
現実が来るんです。その現実を来たらせる為の
世界平和の祈りなんです。

 そうして、もっと言えば、一人一人が本心を開発
していって、一人一人が神様の器なんだ
ということを本当に自覚できた時には、皆の心が
平和になってくる訳です。平和になるということは
さっきも言いました様に、祈りが消極的なもの
ではないというのと同じように平和である
ということは何であるかというと、どうなるか
というと、自分の中のさながらの生命が生き生きと
生きづいて、根本の自信が出て来まして、そして、
意欲に満ちて働いていきます。
 そして、自分の後に守護霊さん守護神さんという
ものが守っている、神様というものがいる、
あるいは五井先生というものがいて、そうして、
世界平和が実現する、ということが本当に自覚
されて来ますと、自分が動いてるんじゃない。
 生かされてる喜び、生かされてる充実感
というものに満ちて動いていきますから、今までの
何十倍もの力が出て来る訳です。

 そうやって一人一人が持ち場持ち場で
動いていって付き合ってく。色んな人と
付き合ってく。話をしていく。仕事をしていく。
 ということになると、もうそれが一部の宗教家
だとか政治家だとかいう方面の人達だけのもの
ではなしに、皆の心が開発されていって、そこで
平和というものが段々段々広がっていって、
世界平和というものがついに完成していく訳です。
 それが私には見えている訳です。

 幽界なんぞというものは今でもあります。
 そうして、人間のそういう本質、本心、本体
というものの光を遮ろうとして、色々な障害を
もってまいりますけれども、しかし、何をもって
こられても、先程申しました様に、我々の心、気持ち
というものが揺らいでも、本心本体というものは
揺らがないのでありますから、寧ろ我々の本心本体
というものは完全平和を目指して生きる器で
ありますので、光というものを受けている時
というのは、そういうものを受けつけません。
 そうして、そういう想いを包んで愛念にかえて、
そういう想いを持たされた人達を本当の意味で
呼び醒まして、仲間にして、今度は一緒に共々に
世界平和を祈る仲間にしてですね、何十人もの
何百人もの仲間を増やしていく訳です。

 今、世界平和を祈る運動というものに
白光真宏会がつき進んでおりますけれども、これは、
世界人類、どんな国の人も、民族の人も、世界が
平和であるようにという共通の想い、それを
祈り言葉にすることによって、その言葉を
想い浮かべることによって、自分の本心が神様の
愛と合致して、そして、光となって一体化していく。
 その本心開発の運動を今私共の会が先達となって
やっていってる訳であります。

 こういう地球規模の運動をしてまいりませんと、
とてもではないけれども、この地球の想念の汚れと
いうものは、一朝一夕(いっちょういっせき)に
拭いされるものではないのであります。

 我々の生命というものは、いつも申して
おります様に、生き通しの生命であって、それは
ずーっと天命にまで流れ込んでおりまして、ただ、
魂の覚醒というものがどこで世界平和の祈りに
会うかということ、これが大事ないわゆる時間
というものであります。

 法然も親鸞も時期相応ということを考えて
おりまして、その時期相応の祈り言である南無阿弥
陀仏に出会うまでに、彼等は随分学問も致しました、
悩みました。あるいは、宗祖の釈迦でさえも苦行を
六年致しました。その苦しみというものは無駄では
ありませんでした。苦しみを通して、ただ一部の人
だけが救われるもの、魂が救われて自分が救われて
いくものであれば、これは小乗なのであります。
 大乗の祈りではない。人類の祈りではないので
あります。人類の宗教ではないのであります。愛
ではないのであります。

 人類の、我々共通の、なる程と想えるものという
ものは、誰もが納得できるものでなくてはならない。
 しかも、易しいものでなくてはならない。そして、
誰もが出来るものでなくてはならない。そして、
任せられるものでなくてはならない。この三つ四つの
条件が、全部今の状勢の中で出来るといったら、
これは、世界人類が平和でありますようにという
この祈り言をすすめていく、目にふれさせていく、
それしかないのであります。

 祈りというものは、強制できるものでは
ございません。それは、その国の人々の民族性や
信条や、あるいは宗教や習慣や風土、その違いが
ございますので、これは何も強制できるものでは
ない。ただ我々は、その人々の中に眠っている、
あるいは気付いてはいても弱い気付き方である、
世界人類が平和でありますようにという、元々の
根元の祈りの芽を、あるいはピースポールによって、
あるいはステッカーによって、あるいは白光誌を
手渡すことによって、それを呼び醒(さ)ます。
 その役割りをするのであります。ですから、その
手渡すということは、すでに私がそこで働いて、
その人を通して一番いい、その人が生き易い
やり易い方法で、この祈り言がその人の生命の中に
生活の中に生き方の中に入っていく様に、守護霊
守護神さんと倶(とも)に私が働いていくという
ことでありまして、その点で皆さんは、本当の意味
において繋(つな)ぎの役を、後は五井先生がして
くれるから大丈夫だというその位の軽い気持ちで、
しかし、本心開発の為にこの祈り言が絶対に
人類の為に必要なんだという、そういう自信と
覚悟をもってこの運動を広めていっていただきたい。

 そうすることによって実は、想いとか言葉とか
いうものが、その想念の汚れというものが
浄められていくのであります。想いとか言葉とか
いうものがどうしようもないやり切れない暗いもの
だという歴史が、そこで段々段々縮められていく
のであります。実は、言葉の光明化、想いの光明化
ということをやっていかなければ、我々本心本体の
一体化というのは出来ないのでありまして、この身
さながらに神様の生命である、神様から流れ
来たっている真理、愛と一体なんであるという、
その遠大な目的というものを達成する為には、
やはり、この世界人類が平和でありますように、
日本が平和でありますように、私達の天命が完う
されますように、守護霊様守護神様ありがとう
ございます。というこの完全な愛と平和のお祈りを
唱えることによって、我も他人(ひと)も一体になる。
 そうして、神様の生命とすこやかに一つになる。
 ということを信じていくことによって、我々個人の
想いも苦しみも、又救いとられていく訳であります。

 もう私共の生きているこの時代は、私が良ければ、
私達さえ良ければいいという時代ではない。たとえ
白光真宏会に入っていない人達の中でも、この
本心開発がなされていかなければ、この地球の浄化
あるいは大きく言えば宇宙全体の調和というものは
在り得ないんだと。だから、白光に入れる入れない
ではなくて、その本心開発の芽を我々がどれ程
無になって、それぞれの持ち場持ち場、立場立場で
やっていけるか、その為に自分をむなしくして祈る。
 祈って、そうして今かかえている課題や悩みや
嘆き、そういうものを全部私に預けて下さる。
 そういうことが今一番必要なのだと思います。
       
             昭和63年5月5日
                     
                五井 昌久