彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月26日、森川許六亡くなる

2007年08月26日 | 何の日?
正徳5(1715)年8月26日、彦根藩士・森川百仲(300石)が病没しました。享年60歳。


森川百仲は、松尾芭蕉の晩年の弟子でありながら蕉門十哲の一人にも挙げられ、芭蕉から「許六」と言う名前も与えられたくらいに芭蕉に愛された人物でした。
この奇妙な名前の由来は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の六つの芸に百仲が通じていたためで、芭蕉は許六から絵画を習っていました。


許六は、芭蕉に弟子入りする事を望んでいて、彦根にやってくる時を待っていたのですが芭蕉が弟子・李由を訪ねて平田町の明照寺に立ち寄った時には許六が江戸詰めだった為に会う事が出来ず後に江戸の芭蕉の庵に許六が訪ねて二人の交流が始まったのです。


芭蕉と許六にはこんな逸話が残っています。
芭蕉は許六に「なぜ俳諧をするのか?」と訊ねると「絵画の為に」と答えました。
では「なぜ絵画をするのか?」と芭蕉が訊ねると「俳諧の為に」と許六は答えました。


芭蕉亡き後は、芭蕉二世と称して自分が蕉門を継いでいると豪語しますが、そんな性格から門人が続かずこの結果が蕉門衰退に繋がったとも言われています。
しかし、芭蕉の教えを記した許六の多くの書物によって芭蕉の教えは現代にまで伝わったのです。


晩年、許六はハンセン病に犯された為に屏風越しにしか来客とも会えなかったそうですが亡くなる直前まで筆を手放す事が無かったのです。


そんな許六の作品は彦根市に多く残り、遺構もあちらこちらで目にする事が出来るのです。
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