田附さんが、佐和山城と石田三成について話して下さった後で、佐和山城落城時に城に居た山田上野の子孫である山田喜雄さんがお話をされました。
そして、講演後に『どんつき瓦版』はいろんなお話をいただきましたので、合わせてご紹介します。
~~以下、本文~~
『佐和山落城記』
山田上野介の末裔:山田喜雄さん
私は30年近く近江に通い石田三成の足跡を歩きました。それは我が家に残っている古文書によるルーツ探しでした。そんなお話をしたいと思います。
我が家には、佐和山の落城の様子を描いた『佐和山落城記』という古文書があります。ちょうど徳川家康が亡くなった元和2年(1616)に、私の先祖の山田喜庵が書いた物です。
その発見の経緯をお話ししますと、昭和10年に家の蔵から古い書き物が見つかりました、よく読むと石田三成の家来で三成が戦に出た後に佐和山で留守番をしていたが、佐和山が落城する時にお爺さんが倅と孫を落城寸前に脱出させて、倅と孫は各地を放浪し、現在私が住んでいる千葉県流山に住み着いた経緯が書かれています。
昭和10年に発見されるまでは一切家の事は分らなかったのですが、谷崎潤一郎が佐和山落城から始まる負けた武将の娘がいかに悲しい生活を送るかという新聞連載小説が載っていて、それを見た父親が「家にある古文書と内容が同じである」という事にびっくりして、当時の石田三成の権威である渡辺世祐先生の耳に届き、鑑定していただくと本物であると言われて和綴じにしていただき表紙に『佐和山落城記』という名前まで付けて下さいました。そういう訳で、佐和山や所縁の地を訪ねるようになりました。
『佐和山落城記』の話をしますと、私の先祖の山田上野介は太鼓丸を守っていて、位は番頭(ばんがしら)でした。番頭がどの程度の身分か調べると、中世ではなく近世では“10人がひと固まりで10集まると100人になる、それが「番」でその頭が「番頭」”になるそうです。近世ですから当時のはっきりした事は解りませんが、とにかく太鼓丸を守っていた。
関ヶ原の戦いで三成が行方知れずになった情報は入っていたようで、その時に山田上野介が倅を呼んで「自分はここで城と共に自刃するからお前は逃げなさい」と言いました。一族がみんな死んでしまうと菩提を弔らう者が絶えてしまうので、子と泣く泣く別れる場面が落城記の話の中心になっています。
倅の名前は山田隼人25歳、5歳の孫が居て幼名を宇吉郎といます。隼人と宇吉郎が城を脱出して廻り廻って流山に着いた経緯が書かれています。
佐和山を脱出して最初に着いた場所の地名も記されています、そこは伊吹山の岐阜県側の麓の春日村池田です。佐和山から春日村までどういう風に行ったのかは分らないのですが、まっすぐ行けば関ヶ原を通らなければ行けませんし、あるいは船で回って米原の先から伊吹山を回って春日村に至る経路を辿ったのか。一度春日村に行ってみたら小西行長がそこで捕まっているようですね。そこで諸国巡礼の姿に身をやつして流山まで辿り着いて住み着きました。
『佐和山落城記』が書かれたのは、孫の宇吉郎が20歳になった元和2年の家康が死んだ年にどういう訳だか書きました。宇吉郎は医者をやっていたのですが、父の隼人は大坂夏の陣で木村長門守の軍に入って大坂城の大手門で戦死したのです。宇吉郎が成長した喜庵は「自分は弓馬の道に疎かった」、諸国を放浪していたので武芸の道を習うどころでは無かったとは思うのですが、途中でお医者さんの勉強をして「医師として住す」と書かれています。
しかしこの文書は千葉にあっても価値が薄い物で、滋賀県などの三成所縁の地にあってこそ価値を発する物なので、写真に撮りまして長浜・彦根・滋賀県庁・大阪城博物館に届けました。そこからルーツ探しを始め、佐和山の麓に山田という場所と山田神社があるので神社を訪ねましたが手掛かりは得られませんでした。
そして調べて行くと『井伊年譜』に佐和山攻めの話が出てきて“山田上野が小谷の山田の出身”と書かれていました。そこで小谷の山田に行くと、山田さんという人がいっぱい居られました。色々訊ねてみましたがこれという物が出てきませんでしたが、「どうもあの辺りが出身だな」とおぼろげながら思います。
田附さんのお話の中で『西明寺絵馬』の話が出てきましたが、実は20年くらい調べてみました。
あの絵馬に描かれているのはどうも佐和山落城の様子ではなく、伏見城の合戦の絵馬ではないか?と考えた方が良いのではないかという結論が出ました。
西明寺は信長が焼き打ちをして江戸時代に再興されたのですが、それが望月という家の人でした。その人の出身地が甲賀だったので、甲賀で研究発表をしました。
簡単に内容をお話ししますと。
「西明寺の絵馬が佐和山ではないか?」と言いだしたのは、日本画家の上田道三さんでした。昭和40年くらいに彦根史談会の冊子に発表なさり、それ以来あの五層の天守は佐和山城に間違いないと独り歩きしたのです。
私は、絵その物より後ろに16名の奉納者が記載されている事に注目しました。佐和山と言われている絵馬と源平合戦の絵馬と対になっている非常に大きな物ですが、奉納した16名を調べて行くと石田三成に関する人たちが全然出てきませんでした。そして西明寺の再建に関わった望月一族が2人出てきて、もう1人望月一族の人が居る事が後で判りました。
ではなぜ源平合戦と五層の天守の絵馬だったのか?という事ですが、上田さんは「井伊家に憚る為に佐和山合戦の絵馬というのが解ると困るのでそのカモフラージュに源平合戦を傍らに置いた」との説ですが、西明寺再興に関わった望月友閑が出た望月氏は元を辿ると信濃源氏でした。絵馬の裏の寄付者の所には「○○村○兵衛金を○○寄付しましたよ」と書かれているのですが姓名が書かれていないのが“源朝臣望月氏”“望月朝臣”というのが出てきます。
この望月氏が西明寺を再興した望月氏ではないか?その望月氏が関わった一番の合戦は伏見城落城の話です。この時に甲賀武士が伏見城に籠っていて、家康方に付いて頑張ったので伏見城がなかなか落城しませんでした。結構持ちこたえた事で「家康が関ヶ原に引き返すまでの時間稼ぎができた」と言う歴史家も居るほどです。伏見城は落されてしまうのですが、甲賀の人は「自分たちはこんなに頑張った」というアピールができたのです。
甲賀望月一族は、伏見城落城に関わったのは確かですが、誰という人物特定はできていません。そういう事で西明寺が再興された後に最高功労者の望月一族が記念の為にあの絵馬を奉納したのではないか?と思います。五層の天守は佐和山と言うより伏見城と考えていいと思います。
今年の春に石田三成の文書が出てきてびっくりしました。その中に「年貢の取り立てについて3名の者に従いなさい」と書かれていてその中には島左近と並んで山田上野と書かれていて驚きました。
近江の文書の中から、私の先祖が出たのは初めてで、しかも佐和山落城以前に何をしていたのかがおぼろげながら解ってきました。
どうもありがとうございました。
《『どんつき瓦版』取材》
(管理人)
いいお話を聞かさせていただきありがとうございました。
ここでフルネームをお訊ねしました。
(山田先生)
『佐和山落城記』が発見された5年後に私が生まれたので、作者の喜庵の字を貰い“喜雄”です。私の姉は佐和子といいます。
(管理人)
『佐和山落城記』は『石田三成のすべて』という本で拝見しました。そこで、一つ疑問に思っていたのが、山田隼人が木村長門守の部下として戦って亡くなりますね。木村長門守と言えば井伊直孝が討ち取った武将ですね。
(山田先生)
安藤長三郎だね。
(管理人)
そうですね。
ふっと思ったのは、井伊家との事があるので佐和山での事を考えると運命の巡り合わせなのかと…
その辺りの事は読んだ本には書かれていなかったので、どうなっているのかな?と疑問に思いました。
(『佐和山落城記』を活字で書いたのを持って来てる。との事で一緒に拝見し、大坂の陣の記述を見せていただきました)
(管理人)
今、見させて頂くと「元和二年五月に書く」と記されていましたが、家康が亡くなったのが四月で間もなくですから、やはり家康の死も関係あったのでしょうか?
佐和山の落城と言えばもう一つ有名な『おあむ物語』がありますね。
(山田先生)
あれも疑ってるの。
(管理人)
あれも大垣が佐和山という話がありますね。
(山田先生)
海津先生も疑問を呈していて、「お腹が大きくなっている女性を大垣城に連れて行くのがおかしい」と、『佐和山落城記』にも年寄り子ども足弱い者は佐和山に残すと書かれているので、大垣には精鋭部隊が行ってる筈。なのに大垣城から逃げる途中に子どもを産み落とすという話がある。そんな女性をなぜ連れて行くのか?
(『おあむ物語』には)田中吉政が攻めて来たとも書かれているけど、吉政は大垣を攻めてない、攻めたのは佐和山でしょ。「田兵、田兵」と皆がバカにしたともあるでしょ。あれもこの辺の出身だよ。
(管理人)
そうですね、田中吉政は身分の余り高くない出でバカにされていたと聞きますね。
そんな『おあむ物語』は山田去暦で、『佐和山落城記』は山田上野介と同じ山田姓なので関わりがあったのかな?と…
(山田先生)
土佐に調べに行った事があるの。山内文庫に系図があるんです。
(管理人)
そうですね、おあむは土佐に行って「彦根のおばば」と言われる人ですから…
(山田先生)
(山田去暦は)近江の人には違いない、山内一豊は長浜を貰ってこの辺(湖北地域)が地盤の人だから、奥さんがこの辺りの人でした。
掛川から土佐に移る時に、掛川では石高が少なかったのに急い増えたから、家臣をこの辺りから連れて行って行っちゃう。
(管理人)
ではその時に一緒に?
(山田先生)
山田去暦が近江の人間である事は系図にも書かれてる。
(管理人)
では先生の一族と、去暦が関わりがあるかもしれない?
(山田先生)
あるかもしれないけど、系図には出てこない。
(管理人)
同じ山田姓の人が別々に佐和山落城について書くなんて面白いですね。
(山田先生)
司馬遼太郎さんにも手紙を出した事があるんです。それは西明寺の絵馬に女性が描かれているんです。それを上田道三さんは“初芽局”だと分析されています。しかし初芽局は歴史上存在しない。
『佐和山と石田三成』という本に初芽局の話があり、そこで三成が行方不明になった時に初芽局が追いかけて探したという物だったのだけど、どうもそれを司馬遼太郎さんが『関ヶ原』に採用したのではないかと。
「出典はどこですか?」と手紙を書いたら、亡くなる1年くらい前に直筆の返事が来て「昔の事なので、霞の彼方に消えました」と。
(管理人)
ちゃんとお返事を下さるのですね。
(山田先生)
びっくりしちゃった。
それで今『天地人』で初音が出てくるけど、あれも司馬遼太郎さんからピックアップしたかも?
もし絵馬に描かれてる女性が初芽局ならえらい事になる。
(管理人)
そうですね、伏見城が本当なら。
伏見城が「ある」と思ったのは、島原松平家にある伏見城の絵図に、攻め手と守り手の名前が書かれていて、あそこでは客人が来るとその絵図を見て、「お前は伏見攻めの時に敵だったから許さん。お前は味方だから仲良くしよう」という物があったそうで、伏見城に関わる家では残している事があるらしいので、さっきの絵馬の話もある話だとは思いました。
(山田先生)
でも、特定ができない。望月一族はいっぱいいますからね。伏見城に入って何人か裏切りも出てるので。
鳥居元忠という家康の三方ヶ原以来の家来で長刀が上手だった、絵馬の門前に居る武者も長刀を持っている。
(管理人)
そうなんですか。
鳥居元忠は、その孫が井伊家の直孝の前の彦根城を作った直継に嫁いでいるんです。
(山田先生)
それは知らなかった。
その絵馬にお爺さんが出ていて主人公。
(管理人)
それならば、鳥居元忠かも。
(山田先生)
可能性もある。
絵師が誰か?という話もある。上田道三さんは海北友松だと言ってる。
(管理人)
浅井家の…
(山田先生)
よく知ってるね。
海北友松を追いかけたら、子孫が京都にいるの。系図が残っていて調べたけど何も出てこない。でも面白かったのは友松には、友雪・友竹という子どもが居てしかも絵馬屋だった。
だからびっくりした。でもこれと言った確証はない。ただ海北家は三成と交友がある。それで上田さんは海北友松ではないかと…
子孫の方は滋賀にも居られて絵描きさんだったの。
(管理人)
この辺りの方は結構、昔の豪族の子孫って居られますね。
(山田先生)
彦根・長浜には上田さんが描かれた佐和山の絵が残っているんだけど、五層で描かれている。
絵描きとしてのインスピレーションだから、資料の裏付けが無い。
(管理人)
最近は天保年間の彦根城下の資料から、当時の鳥瞰図を描いた物が上田さんの作品としてよく知られていますが、それも彦根に残った街並みと資料を重ねたインスピレーションとも言われているらしいです。
(山田先生)
画家としての名声はありましたね。
(管理人)
面白いお話をありがとうございました。
(管理人私見)
研究家には様々な意見があり、そして色んな運命の糸で手繰り寄せられて歴史と出会う運命があると改めて思い知りました。
上田道三さんの画家として、また当時の歴史資料に想像を働かせながらの作品は、絵として観るという効果もあった為に、大きなイメージとして残ってしまうのでしょうね。
それぞれの時代で、そこにある資料を駆使しながら歴史を想像し、そこに資料という裏付けを付けて行く。
その苦労も、新たに発見される資料によって一気に覆る事も、逆に大きな支えになる事もあるのかも知れません。
佐和山研究は、1727年から始まったのかも知れませんが、まだまだどんな資料が登場するかも分らない期待感に満ちているように思います。
そして、講演後に『どんつき瓦版』はいろんなお話をいただきましたので、合わせてご紹介します。
~~以下、本文~~
『佐和山落城記』
山田上野介の末裔:山田喜雄さん
私は30年近く近江に通い石田三成の足跡を歩きました。それは我が家に残っている古文書によるルーツ探しでした。そんなお話をしたいと思います。
我が家には、佐和山の落城の様子を描いた『佐和山落城記』という古文書があります。ちょうど徳川家康が亡くなった元和2年(1616)に、私の先祖の山田喜庵が書いた物です。
その発見の経緯をお話ししますと、昭和10年に家の蔵から古い書き物が見つかりました、よく読むと石田三成の家来で三成が戦に出た後に佐和山で留守番をしていたが、佐和山が落城する時にお爺さんが倅と孫を落城寸前に脱出させて、倅と孫は各地を放浪し、現在私が住んでいる千葉県流山に住み着いた経緯が書かれています。
昭和10年に発見されるまでは一切家の事は分らなかったのですが、谷崎潤一郎が佐和山落城から始まる負けた武将の娘がいかに悲しい生活を送るかという新聞連載小説が載っていて、それを見た父親が「家にある古文書と内容が同じである」という事にびっくりして、当時の石田三成の権威である渡辺世祐先生の耳に届き、鑑定していただくと本物であると言われて和綴じにしていただき表紙に『佐和山落城記』という名前まで付けて下さいました。そういう訳で、佐和山や所縁の地を訪ねるようになりました。
『佐和山落城記』の話をしますと、私の先祖の山田上野介は太鼓丸を守っていて、位は番頭(ばんがしら)でした。番頭がどの程度の身分か調べると、中世ではなく近世では“10人がひと固まりで10集まると100人になる、それが「番」でその頭が「番頭」”になるそうです。近世ですから当時のはっきりした事は解りませんが、とにかく太鼓丸を守っていた。
関ヶ原の戦いで三成が行方知れずになった情報は入っていたようで、その時に山田上野介が倅を呼んで「自分はここで城と共に自刃するからお前は逃げなさい」と言いました。一族がみんな死んでしまうと菩提を弔らう者が絶えてしまうので、子と泣く泣く別れる場面が落城記の話の中心になっています。
倅の名前は山田隼人25歳、5歳の孫が居て幼名を宇吉郎といます。隼人と宇吉郎が城を脱出して廻り廻って流山に着いた経緯が書かれています。
佐和山を脱出して最初に着いた場所の地名も記されています、そこは伊吹山の岐阜県側の麓の春日村池田です。佐和山から春日村までどういう風に行ったのかは分らないのですが、まっすぐ行けば関ヶ原を通らなければ行けませんし、あるいは船で回って米原の先から伊吹山を回って春日村に至る経路を辿ったのか。一度春日村に行ってみたら小西行長がそこで捕まっているようですね。そこで諸国巡礼の姿に身をやつして流山まで辿り着いて住み着きました。
『佐和山落城記』が書かれたのは、孫の宇吉郎が20歳になった元和2年の家康が死んだ年にどういう訳だか書きました。宇吉郎は医者をやっていたのですが、父の隼人は大坂夏の陣で木村長門守の軍に入って大坂城の大手門で戦死したのです。宇吉郎が成長した喜庵は「自分は弓馬の道に疎かった」、諸国を放浪していたので武芸の道を習うどころでは無かったとは思うのですが、途中でお医者さんの勉強をして「医師として住す」と書かれています。
しかしこの文書は千葉にあっても価値が薄い物で、滋賀県などの三成所縁の地にあってこそ価値を発する物なので、写真に撮りまして長浜・彦根・滋賀県庁・大阪城博物館に届けました。そこからルーツ探しを始め、佐和山の麓に山田という場所と山田神社があるので神社を訪ねましたが手掛かりは得られませんでした。
そして調べて行くと『井伊年譜』に佐和山攻めの話が出てきて“山田上野が小谷の山田の出身”と書かれていました。そこで小谷の山田に行くと、山田さんという人がいっぱい居られました。色々訊ねてみましたがこれという物が出てきませんでしたが、「どうもあの辺りが出身だな」とおぼろげながら思います。
田附さんのお話の中で『西明寺絵馬』の話が出てきましたが、実は20年くらい調べてみました。
あの絵馬に描かれているのはどうも佐和山落城の様子ではなく、伏見城の合戦の絵馬ではないか?と考えた方が良いのではないかという結論が出ました。
西明寺は信長が焼き打ちをして江戸時代に再興されたのですが、それが望月という家の人でした。その人の出身地が甲賀だったので、甲賀で研究発表をしました。
簡単に内容をお話ししますと。
「西明寺の絵馬が佐和山ではないか?」と言いだしたのは、日本画家の上田道三さんでした。昭和40年くらいに彦根史談会の冊子に発表なさり、それ以来あの五層の天守は佐和山城に間違いないと独り歩きしたのです。
私は、絵その物より後ろに16名の奉納者が記載されている事に注目しました。佐和山と言われている絵馬と源平合戦の絵馬と対になっている非常に大きな物ですが、奉納した16名を調べて行くと石田三成に関する人たちが全然出てきませんでした。そして西明寺の再建に関わった望月一族が2人出てきて、もう1人望月一族の人が居る事が後で判りました。
ではなぜ源平合戦と五層の天守の絵馬だったのか?という事ですが、上田さんは「井伊家に憚る為に佐和山合戦の絵馬というのが解ると困るのでそのカモフラージュに源平合戦を傍らに置いた」との説ですが、西明寺再興に関わった望月友閑が出た望月氏は元を辿ると信濃源氏でした。絵馬の裏の寄付者の所には「○○村○兵衛金を○○寄付しましたよ」と書かれているのですが姓名が書かれていないのが“源朝臣望月氏”“望月朝臣”というのが出てきます。
この望月氏が西明寺を再興した望月氏ではないか?その望月氏が関わった一番の合戦は伏見城落城の話です。この時に甲賀武士が伏見城に籠っていて、家康方に付いて頑張ったので伏見城がなかなか落城しませんでした。結構持ちこたえた事で「家康が関ヶ原に引き返すまでの時間稼ぎができた」と言う歴史家も居るほどです。伏見城は落されてしまうのですが、甲賀の人は「自分たちはこんなに頑張った」というアピールができたのです。
甲賀望月一族は、伏見城落城に関わったのは確かですが、誰という人物特定はできていません。そういう事で西明寺が再興された後に最高功労者の望月一族が記念の為にあの絵馬を奉納したのではないか?と思います。五層の天守は佐和山と言うより伏見城と考えていいと思います。
今年の春に石田三成の文書が出てきてびっくりしました。その中に「年貢の取り立てについて3名の者に従いなさい」と書かれていてその中には島左近と並んで山田上野と書かれていて驚きました。
近江の文書の中から、私の先祖が出たのは初めてで、しかも佐和山落城以前に何をしていたのかがおぼろげながら解ってきました。
どうもありがとうございました。
《『どんつき瓦版』取材》
(管理人)
いいお話を聞かさせていただきありがとうございました。
ここでフルネームをお訊ねしました。
(山田先生)
『佐和山落城記』が発見された5年後に私が生まれたので、作者の喜庵の字を貰い“喜雄”です。私の姉は佐和子といいます。
(管理人)
『佐和山落城記』は『石田三成のすべて』という本で拝見しました。そこで、一つ疑問に思っていたのが、山田隼人が木村長門守の部下として戦って亡くなりますね。木村長門守と言えば井伊直孝が討ち取った武将ですね。
(山田先生)
安藤長三郎だね。
(管理人)
そうですね。
ふっと思ったのは、井伊家との事があるので佐和山での事を考えると運命の巡り合わせなのかと…
その辺りの事は読んだ本には書かれていなかったので、どうなっているのかな?と疑問に思いました。
(『佐和山落城記』を活字で書いたのを持って来てる。との事で一緒に拝見し、大坂の陣の記述を見せていただきました)
(管理人)
今、見させて頂くと「元和二年五月に書く」と記されていましたが、家康が亡くなったのが四月で間もなくですから、やはり家康の死も関係あったのでしょうか?
佐和山の落城と言えばもう一つ有名な『おあむ物語』がありますね。
(山田先生)
あれも疑ってるの。
(管理人)
あれも大垣が佐和山という話がありますね。
(山田先生)
海津先生も疑問を呈していて、「お腹が大きくなっている女性を大垣城に連れて行くのがおかしい」と、『佐和山落城記』にも年寄り子ども足弱い者は佐和山に残すと書かれているので、大垣には精鋭部隊が行ってる筈。なのに大垣城から逃げる途中に子どもを産み落とすという話がある。そんな女性をなぜ連れて行くのか?
(『おあむ物語』には)田中吉政が攻めて来たとも書かれているけど、吉政は大垣を攻めてない、攻めたのは佐和山でしょ。「田兵、田兵」と皆がバカにしたともあるでしょ。あれもこの辺の出身だよ。
(管理人)
そうですね、田中吉政は身分の余り高くない出でバカにされていたと聞きますね。
そんな『おあむ物語』は山田去暦で、『佐和山落城記』は山田上野介と同じ山田姓なので関わりがあったのかな?と…
(山田先生)
土佐に調べに行った事があるの。山内文庫に系図があるんです。
(管理人)
そうですね、おあむは土佐に行って「彦根のおばば」と言われる人ですから…
(山田先生)
(山田去暦は)近江の人には違いない、山内一豊は長浜を貰ってこの辺(湖北地域)が地盤の人だから、奥さんがこの辺りの人でした。
掛川から土佐に移る時に、掛川では石高が少なかったのに急い増えたから、家臣をこの辺りから連れて行って行っちゃう。
(管理人)
ではその時に一緒に?
(山田先生)
山田去暦が近江の人間である事は系図にも書かれてる。
(管理人)
では先生の一族と、去暦が関わりがあるかもしれない?
(山田先生)
あるかもしれないけど、系図には出てこない。
(管理人)
同じ山田姓の人が別々に佐和山落城について書くなんて面白いですね。
(山田先生)
司馬遼太郎さんにも手紙を出した事があるんです。それは西明寺の絵馬に女性が描かれているんです。それを上田道三さんは“初芽局”だと分析されています。しかし初芽局は歴史上存在しない。
『佐和山と石田三成』という本に初芽局の話があり、そこで三成が行方不明になった時に初芽局が追いかけて探したという物だったのだけど、どうもそれを司馬遼太郎さんが『関ヶ原』に採用したのではないかと。
「出典はどこですか?」と手紙を書いたら、亡くなる1年くらい前に直筆の返事が来て「昔の事なので、霞の彼方に消えました」と。
(管理人)
ちゃんとお返事を下さるのですね。
(山田先生)
びっくりしちゃった。
それで今『天地人』で初音が出てくるけど、あれも司馬遼太郎さんからピックアップしたかも?
もし絵馬に描かれてる女性が初芽局ならえらい事になる。
(管理人)
そうですね、伏見城が本当なら。
伏見城が「ある」と思ったのは、島原松平家にある伏見城の絵図に、攻め手と守り手の名前が書かれていて、あそこでは客人が来るとその絵図を見て、「お前は伏見攻めの時に敵だったから許さん。お前は味方だから仲良くしよう」という物があったそうで、伏見城に関わる家では残している事があるらしいので、さっきの絵馬の話もある話だとは思いました。
(山田先生)
でも、特定ができない。望月一族はいっぱいいますからね。伏見城に入って何人か裏切りも出てるので。
鳥居元忠という家康の三方ヶ原以来の家来で長刀が上手だった、絵馬の門前に居る武者も長刀を持っている。
(管理人)
そうなんですか。
鳥居元忠は、その孫が井伊家の直孝の前の彦根城を作った直継に嫁いでいるんです。
(山田先生)
それは知らなかった。
その絵馬にお爺さんが出ていて主人公。
(管理人)
それならば、鳥居元忠かも。
(山田先生)
可能性もある。
絵師が誰か?という話もある。上田道三さんは海北友松だと言ってる。
(管理人)
浅井家の…
(山田先生)
よく知ってるね。
海北友松を追いかけたら、子孫が京都にいるの。系図が残っていて調べたけど何も出てこない。でも面白かったのは友松には、友雪・友竹という子どもが居てしかも絵馬屋だった。
だからびっくりした。でもこれと言った確証はない。ただ海北家は三成と交友がある。それで上田さんは海北友松ではないかと…
子孫の方は滋賀にも居られて絵描きさんだったの。
(管理人)
この辺りの方は結構、昔の豪族の子孫って居られますね。
(山田先生)
彦根・長浜には上田さんが描かれた佐和山の絵が残っているんだけど、五層で描かれている。
絵描きとしてのインスピレーションだから、資料の裏付けが無い。
(管理人)
最近は天保年間の彦根城下の資料から、当時の鳥瞰図を描いた物が上田さんの作品としてよく知られていますが、それも彦根に残った街並みと資料を重ねたインスピレーションとも言われているらしいです。
(山田先生)
画家としての名声はありましたね。
(管理人)
面白いお話をありがとうございました。
(管理人私見)
研究家には様々な意見があり、そして色んな運命の糸で手繰り寄せられて歴史と出会う運命があると改めて思い知りました。
上田道三さんの画家として、また当時の歴史資料に想像を働かせながらの作品は、絵として観るという効果もあった為に、大きなイメージとして残ってしまうのでしょうね。
それぞれの時代で、そこにある資料を駆使しながら歴史を想像し、そこに資料という裏付けを付けて行く。
その苦労も、新たに発見される資料によって一気に覆る事も、逆に大きな支えになる事もあるのかも知れません。
佐和山研究は、1727年から始まったのかも知れませんが、まだまだどんな資料が登場するかも分らない期待感に満ちているように思います。