彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

8月20日、藤原定家死去

2012年08月20日 | 何の日?
仁治2年(1241)8月20日、藤原定家が亡くなりました。享年80歳。

藤原定家といえば『小倉百人一首』の選者として有名です。これは鎌倉幕府の御家人である宇都宮頼綱が、京都嵯峨野の別荘小倉山荘の襖の色紙を歌人である定家に依頼し、その依頼に応じた形で選んだ歌だと言われています。

しかしその内容を見ると古代の歌人たちならばよいにしても、幕府に逆らって承久の乱を起こした後鳥羽院や順徳院、日本一の怨霊となった崇徳院もあれば、暗殺された三代将軍源実朝も入っているという藤義な人選でした。
この人選でよく北条氏に罰せられなかったものだと感心します。


でも、そんな謎は今日の話ではなく、今回は長寿だった定家についてです。

80歳という長寿を全うした定家ですが、子どもの頃におこり(マラリア三日熱)で苦しみ38歳で再発、14歳で麻疹などに苦しみます。特におこりは酷くその後遺症と生涯付き合うことになり呼吸器と精神はボロボロだったのです。頭痛・悪寒・嘔吐は日常茶飯事だったと推測されています。

ここに40歳で尿管結石、50代で腰痛、60代で左関節症を患いました(篠田達明著『日本史有名人の臨終図鑑』より)。
まぁ、よく生きていたものです。
定家は『明月記』という日記を残していて、この記録のおかげでこのような病状が細かくわかるのです。

最後は書字困難とのことで同書ではパーキンソン病の疑いを示されていますが、80歳までここまで苦しみながら生きてきた歌人ですので、多少の認知が酷くなっても仕方ないのかもしれません。

小倉百人一首の裏には病に苦しみ、常に生きた証を残そうとした魂の叫びを持つ歌人が居たのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする