彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

150年前:大政奉還の建白書(10月3日)

2017年10月03日 | 何の日?
慶応3年(1867)10月3日、後藤象二郎が幕府に大政奉還の建白書を提出しました。

幕末も押し迫った頃、江戸幕府は大きな選択に迫られていました。薩長と戦うか戦わないかです。
よく誤解されがちなのですが、この時の江戸幕府は薩長より弱かったという事実はありません。むしろ世界で最先端の椎の実型砲弾を実戦的に作れる理論が確定されていたので、実は火器に限定すれば世界最強の武装集団でした。
しかも、黒船来航から14年が経過していたために、ひ弱な幕臣ではなく戦うことを念頭に置いた武士としての幕臣も若い世代から登場してきていたので、白兵戦においても日本でトップクラスのレベルを持っていたのです。
もし、幕府が本気で結束して戦ったなら、長州征伐で敗北してもその後の敗北は無かったと考えられます。

しかし、この本気の結束を行えない大きな理由が一番の責任者である将軍徳川慶喜でした。周囲の期待に押される形で将軍に就任しましたが、その期待に多くの人々が裏切られます。慶喜は朝廷との戦いから逃げることだけを考えていたのです。
そんな慶喜に対して大名や幕臣たちの心は離れます。その隙に付け入るように、薩長は討幕の旗を挙げたのです。

そんな高まる討幕熱に対して、出遅れた感があったのが土佐藩でした。
文久年間は、武市半平太の土佐勤皇党が京都で活躍していたこともあり、世情の最先端を進んでいたのですが、武市らを切腹させたことによって、土佐藩は藩としての活動は停止し、脱藩した志士たちが多く犠牲になっていたのです。
土佐藩が、また世情の注目を浴びる窮余の策を思案した時に浮上したのが大政奉還でした。

一説には坂本龍馬が後藤象二郎に献策し、後藤が山内容堂を説き、幕府に提出したとされていますが、現在はここに坂本龍馬が関わることに疑問を投げかける人も多くいます。歴史的にわかっていることは、後藤が容堂に献策し、容堂が幕府に持ちかけたということです。


徳川慶喜は、この策を受け入れ、10月14日の二条城での大政奉還の宣言に繋がるのです。
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