各務原市前渡東町の矢熊山中腹にある承久の乱供養塔に行ってきました。
承久3年(1221)に起こった承久の乱は鎌倉幕府軍が東海道、東山道、北陸道のそれぞれから京都を目指しました。
各地で戦いが行われましたが、あまり遺構は残っていません。
その中で、東海道軍と東山道軍が合流した美濃と尾張の戦いが広範囲での激戦になりました。
6月5日尾張一宮まで進んだ北条時房、泰時らは木曽川沿いに軍を展開する朝廷軍と対峙します。
翌日にかけて、犬山から墨俣まで戦線が拡大しました。
前渡(摩免戸)では6日明け方に幕府軍の北条時氏が木曽川を渡河、朝廷軍の藤原秀康は戦うことなく敗走。
朝廷軍の鏡久綱のみが戦ったのですが「臆病な秀康に従ったために、思う様な戦ができなかった」と嘆き自害したのです。
昭和に入ってからの河川工事で大量の五輪塔が発掘され、承久の乱の犠牲者の墓だろうと推測されて供養塔としてまとめられ前渡不動尊の麓に置かれました。
ただし、墓の形をみると承久の乱よりも後の時代の物だと考えられます。
でも、どんな形でも戦いの犠牲者を供養する気持ちは大切ですね。
供養塔からまだ山を登ると前渡不動尊様にもお参りできます。
上から見る景色も良かったですし、この地で800年も前に戦があったことが信じられないくらいの長閑さでした。