平田山中腹より、佐和山方面を望む
9月15日に関ヶ原の戦いのお話をしましたが、戦いの後に徳川家康が行ったのが石田三成の居城・佐和山城の攻略でした。
関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋は家康に佐和山城攻めの先陣を願い出ています。家康はこれを認めて、秀秋の動き(“裏切り”ではなく“英断”としているので敢えてこういう書き方をしました)に呼応して三成を裏切った(以下の人物は正真正銘の裏切りです)、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の内脇坂・小川・朽木を付けて、井伊直政を監軍で軍師として同行させたのです。
佐和山城の麓・鳥居本で軍議が行われた後、17日から城攻めが始まりました。
秀秋と三将は大手から、井伊直政と田中吉政が搦手から攻め込んだのです。
この時、攻め手は1万5千人、守り手は2800人余でした。
佐和山城を守っていたのは三成の父・石田正継と兄・正澄だったのです。正継は、秀吉の官吏として大坂や伏見に詰めたままの三成に代わって領内を治めた人物で、関ヶ原の戦いで三成が領内に潜んでいた時に領民が三成を匿い続けようとしたくらいに素晴らしい治世を行っていたのです。
そんな正継の人徳だったからか、1日で落ちると思われていた城は夕方でも持ちこたえていたのです。
この時、家康は平田山城(今の雨壺山)から戦いの様子を眺めていましたが、夕刻に兵を退かせたのです。その後、正継と家康の間で「石田一族の切腹を条件に、城兵と女性たちの助命を認める」という講和が模索され、これが決定したのでした。
しかし翌18日早朝、田中吉政が急に城に攻め上がります。
前日に戦いが終ったと油断していた城方は次々に討ち取られ、正継・正澄親子は自害して果てたのです。
三成の側近だった土田桃雲は、三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付けて切腹しました。また三成の岳父(妻の父)宇多頼忠と子・頼重も自刃。佐和山城に残る石田家は悲劇的な最後を迎え、城内のあちらこちらで同じ様な光景が続いたのでした。
また、逃げられなかった女性たちが本丸近くの谷に身を投げた話とその後の物語は『清涼寺』の項に書いているので参考にして下さい。
こうして多くの命が失われますが、奇跡的に生き残った城兵や女性たちは家康によって助命されたのでした。
家康は、この戦いの後に平田山の麓にある長久寺(お菊の皿があるお寺)で戦勝の宴を開いています。
さて、佐和山城落城後、「秀吉の寵愛を受けて、政事を私していた石田三成が、どれ程の財産を残してるか?」という事が人々の注目の的となりました。
実際に見て見ると、建物の城壁は上塗りもしていない土塀で、屋内もほとんど板張りのまま、庭には樹木すら植えられておらず、手水鉢もそのまま石だったそうです。
建物がこの状態なら財産も殆んど無かったと伝わっています。
そう言った私利私欲があった人ではなかったのですね。
最後に、三成の子孫について少し書いてみると。
娘・辰子(長姫)は弘前藩2代藩主・津軽信牧の側室となって、3代藩主・信義を産みます。この血は江戸時代後期の8代藩主・信明まで続きます。
嫡男・家重は出家して104歳の長寿を全うします。
次男・重成は津軽信牧の兄・信建(弘前藩初代藩主)に匿われて杉山八兵衛と改名します、この杉山家は代々弘前藩の重臣を歴任しました。
9月15日に関ヶ原の戦いのお話をしましたが、戦いの後に徳川家康が行ったのが石田三成の居城・佐和山城の攻略でした。
関ヶ原の戦いの後、小早川秀秋は家康に佐和山城攻めの先陣を願い出ています。家康はこれを認めて、秀秋の動き(“裏切り”ではなく“英断”としているので敢えてこういう書き方をしました)に呼応して三成を裏切った(以下の人物は正真正銘の裏切りです)、脇坂安治・赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の内脇坂・小川・朽木を付けて、井伊直政を監軍で軍師として同行させたのです。
佐和山城の麓・鳥居本で軍議が行われた後、17日から城攻めが始まりました。
秀秋と三将は大手から、井伊直政と田中吉政が搦手から攻め込んだのです。
この時、攻め手は1万5千人、守り手は2800人余でした。
佐和山城を守っていたのは三成の父・石田正継と兄・正澄だったのです。正継は、秀吉の官吏として大坂や伏見に詰めたままの三成に代わって領内を治めた人物で、関ヶ原の戦いで三成が領内に潜んでいた時に領民が三成を匿い続けようとしたくらいに素晴らしい治世を行っていたのです。
そんな正継の人徳だったからか、1日で落ちると思われていた城は夕方でも持ちこたえていたのです。
この時、家康は平田山城(今の雨壺山)から戦いの様子を眺めていましたが、夕刻に兵を退かせたのです。その後、正継と家康の間で「石田一族の切腹を条件に、城兵と女性たちの助命を認める」という講和が模索され、これが決定したのでした。
しかし翌18日早朝、田中吉政が急に城に攻め上がります。
前日に戦いが終ったと油断していた城方は次々に討ち取られ、正継・正澄親子は自害して果てたのです。
三成の側近だった土田桃雲は、三成の妻を刺し殺した上で正継らの遺骸に火薬を撒いて火を付けて切腹しました。また三成の岳父(妻の父)宇多頼忠と子・頼重も自刃。佐和山城に残る石田家は悲劇的な最後を迎え、城内のあちらこちらで同じ様な光景が続いたのでした。
また、逃げられなかった女性たちが本丸近くの谷に身を投げた話とその後の物語は『清涼寺』の項に書いているので参考にして下さい。
こうして多くの命が失われますが、奇跡的に生き残った城兵や女性たちは家康によって助命されたのでした。
家康は、この戦いの後に平田山の麓にある長久寺(お菊の皿があるお寺)で戦勝の宴を開いています。
さて、佐和山城落城後、「秀吉の寵愛を受けて、政事を私していた石田三成が、どれ程の財産を残してるか?」という事が人々の注目の的となりました。
実際に見て見ると、建物の城壁は上塗りもしていない土塀で、屋内もほとんど板張りのまま、庭には樹木すら植えられておらず、手水鉢もそのまま石だったそうです。
建物がこの状態なら財産も殆んど無かったと伝わっています。
そう言った私利私欲があった人ではなかったのですね。
最後に、三成の子孫について少し書いてみると。
娘・辰子(長姫)は弘前藩2代藩主・津軽信牧の側室となって、3代藩主・信義を産みます。この血は江戸時代後期の8代藩主・信明まで続きます。
嫡男・家重は出家して104歳の長寿を全うします。
次男・重成は津軽信牧の兄・信建(弘前藩初代藩主)に匿われて杉山八兵衛と改名します、この杉山家は代々弘前藩の重臣を歴任しました。